礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2003年4月13日
「赦す恵み」
竿代 照夫牧師
ルカの福音書 23章13節-38節
4:11 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 (ルカ 23章34節) |
1.はじめに
世界中でこの受難週を迎えています。私達今年は会場の都合で特別なことはしませんが、 同じように受難週を迎えたいと思います。そこで、受難週のカレンダーを見ることにします。
1)日曜日:エルサレムへの入城
2)月曜日:無花果の呪
3)火曜日:教えと論争
4)水曜日:ベタニヤでの休息
5)木曜日:最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、捕縛、裁判
6)金曜日:裁判の続き、十字架と死、埋葬
7)日曜日:復活と顕現 という順序です。
2. 十字架上の七言があります。主イエス様が何を考えていたかをうかがうことができます。
1)まず、十字架の直後である朝の9時頃には、
ルカ23:34 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
2)つぎに、母マリヤと弟子ヨハネに向かって、
ヨハネ19:26、27 女の方。そこに、あなたの息子がいます。…そこに、あなたの母がいます。
3)お昼頃、隣の犯罪人に向かって、
ルカ23:43 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。
4)午後3時頃、苦痛の極みの時に大声で、
マルコ15:34 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」
5)渇きの絶頂に、
ヨハネ19:28 わたしは渇く。
6)酸いぶどう酒を受けられた後に、
ヨハネ19:30 完了した。
7)息を引き取られる直前に大声で
ルカ23:46 父よ。わが霊を御手にゆだねます。
とあります。
3. 今日はこの7つの言葉の第一に耳を傾け、赦しの祈りについて思いめぐらしたいと思います。いかがでしょう、ルカの福音書23章34節をご一緒にお読みしましょう。
ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何を
しているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
A 祈りの状況 1)この祈りの状況は、苦痛が最も激しい時−すなわち 十字架につけられるその真っ最中であったのです。 生身の人間を裸にして木に縛り付け、その両手、両足を釘で刺し貫き、それを垂直に立てるという何
とも形容し難い大きな苦痛と辱めを受けたその直後でしたから、その厳しさは想像を絶するものがあった事と思います。
さらに、その十字架のまわりにいた人々の大合唱は、「お前は自分のことを救い主と言っていたではないか、救い主ならば自分を救え、十字架から降りて来い、そうすれば信じてやる」という傷に塩を 塗ると言うことわざそのものの皮肉と嘲笑に満ちた言葉を口にしていました。もし私達であればどのような気持ちであったでしょうか。
2)同じように十字架刑で死んだ、私の故郷の英雄である佐倉宗五郎は、「七回生まれ変わって復讐してやる。」と語ったそうですが、主イエスの口をついた言葉は、信じられないような「赦しの祈り」でした。
先週、私は病院に二泊しました。リュックで行ってリュックで帰ってまいりました。ベッドに括り付けられるのは苦痛であります。お医者さんも看護師さんも私のためと考えて治療されたと思います。ワープロを持ちこみましたので、このメッセージの原稿の殆どは病院でできたものであります。
私のようなケースは恵まれています。しかし、主イエス様はどうだったでしょうか?赦しの祈りがあ
るとはなんとすばらしいことでしょうか。
B 祈りの対象 では、祈りの対象は誰だったのでしょうか?
1)第一義的には、 自分を十字架につけたその無慈悲、無感覚の兵隊たちに対して語られた、と考えられます。聖書注解では、この祈りは主が釘付けにされている最も苦痛に満ちたときに兵隊達に向けて祈られたと解説しています。 ローマの兵隊たちは、命じられた通りのことを行っただけのことで、何も彼等が邪悪であった故に、主イエス様が十字架についた訳ではありません。しかし、かれらの心にあった傷付いたものへの無慈悲、哀しめるものへの無感覚は責められるべきでしょう。私達もいかに多くの場合このような無慈悲、無感覚な態度を家族や友達に表わしてしまうことでしょうか。
2)しかし、主のこの祈りは兵隊たちだけに向けられたのではなかったと思います。 罪なきものを死刑にして葬り去ろうと言う恥ずべき企みに加わった宗教指導者達にも向けられていました。
彼等は無知という言い逃れは赦されませんでしたでしょう。しかし、主イエス様は、彼等をして栄光
の主を知らなかった無知の故と、逃れる道を備えて赦しを祈られたのです。パウロが彼らの無知を示唆している箇所はその考えを支持するものと思われます。
コリント1 2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、
私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
3)さらに、 付和雷同して「十字架につけよ」と叫んだ無責任な大衆も赦しの対象に含まれていたと思います。 彼等は一週間前には「ホサナ、ホサナ」とイエスを歓迎した大衆でありました。この人々が全く同一の群衆であったかどうかは分かりませんが、少なくとも何人かの人々は同じ口で「ホサナ」と叫び、その同じ口で 「十字架につけろ」と叫び、付和雷同してイエス様を十字架につける助けをしたと考えられます。
群集心理という言葉がありますが、私達は深く考えることもなしに、指導者たちの心理操作にのって罪のない人に石を投げ付けることがあり得ます。
第二次大戦中、政府が一億玉砕を唱えるとその宣伝にのって竹槍を担ぎ、クリスチャンをスパイ呼ば
わりすると、「アメリカの味方だ」と一緒になってクリスチャンを虐めたという経験があります。戦争に負けるとアメリカ一辺倒になり、安保が審議されると安保反対でなければ人間でない扱いを受ける、と全体が一緒になっていったのであります。
C 祈りの内容−赦し 1.赦しの難しさ 赦しというのは、私達の信仰生活の中で一番難しい分野の一つです。足を踏まれた位ならば笑って済ますこともできましょう−最も最近はそうも行きませんが−。
私達の尊厳や人格が深く傷付けられたこととか、私達の所有物が不等に奪われたこととか、そういった深刻なケースでは、そう簡単に赦す訳にはいかないと思いますね。皆さんも大なり小なり持っているのではないでしょうか。
俗に簡単に赦せないものの例として「食べ物の恨み」が挙げられますが、正に赦すと言うことは難し
いものです。
心理的に難しいだけではなく、私達の正義感がそれを妨げます。こんなことを簡単に赦していいのか、
社会正義は成り立つのだろうか、と考えて赦さないことに決めてしまう場合もあります。
ある意味では正しいことで、悪に対しては厳しい措置をとらなければならないと思います。 初代総理(蔦田ニ雄先生=故人=)の教会が寄付をしなかったので、祭りのときに教会が荒らされてガラスを割られたことがありました。そのとき先生は裁判に訴え、氏子たちを呼んで謝らせたのであります。
私達が聖別会で使っているテキスト(『キリストの心で(デニス・キンロー著)』の中に、1960年代ザイール(コンゴ)に宣教師として渡った、女性医師のヘレン・ローズベレーの話が出てまいります。ケンブリッジ大学を卒業した優秀な人でした。
彼女は動乱時に黒人たちに襲われるという経験をしました。そのとき、「主よ、なぜ私がこのような
経験を?」と訴えたとき、主は 「あなたの体が傷ついたのではない、私の体が傷ついたのだ。この経験をあなたにゆだねたことで、感謝できるか?」と語りかけたのであります。 マタイの福音書5章44節に、
マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈
りなさい。
とあります。赦せない心というのは難しいものであります。
2.赦しの豊かさ また、難しい赦しではありますが、主は心から赦しの祈りを捧げられました。何故でしょうか。
1)主の心は愛に溢れていました。
自分の痛みに自己憐憫を感じる以上に、自分を傷めた人々の行く末、その裁きを思い遣って、その裁きからの免除を祈られたです。他の者を真実に願う愛−アガペー−であるといえます。
彼等が知らなかったことは、無実の人間を十字架につけることによって重大な結果を招くだろうということで、無実の人間に無知であったという点でありまして、無実の人間を虐げていたことは知っていたのです。
ローマ兵はその無慈悲の故に、宗教指導者はその嫉妬と陰謀の故に、群衆はその無責任の故に、やがての日に、厳しい裁きを受けるべきでした。
主はその裁きを祈ったのでしょうか。そうではなくて、反対に、 彼等が赦されるようにと祈ったのです。 彼等は本当の意味では無知だった、だからこの罪を免除してやって下さい、と御父に祈ったのです。
本当に無知であったかどうかは分かりません。でも無知であったことにして下さい、と裁きに対する
逃げ道を裁判官に申請したのです。
主を痛めつけている人達の運命はどうなるだろうかという気持ちが、「父よ、彼らを赦したまえ」と
祈ることにつながるのであります。
2)愛とは他の人格に対する真の思いやりです。 主は、山上の垂訓で
マタイ5:44 わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
と命じなさったのはその意味です。
イエス様の素晴らしさは、これを命じただけではなく、それを実行なさった点です。
執り成しの祈りはイザヤ書53章12節−
イザヤ53:12 彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
を反映しています。
大学時代、ドイツ語の授業でこの個所にさしかかったとき、当時の先生が「こんなことが人間にできるのか?この中にクリスチャンはいるか(笑)?」と言ったのであります。今ではドイツ語はABC(アーベーツェー)ぐらいしかわかりません。高校時代にも同じ経験をしました。
私は手を挙げますと、「きみはどう思う?」と問われまして「神の力によってできると思います」と答えました。たしか、Tという先生でした。
主イエス様は、十字架という極限状態でなさったのであります。
D. 祈りの効果:その場の人々そして現代の私達 1.当時のその人々 では、この祈りは、その場にいた人々にどんな効果を齎したのでしょうか。少なくとも二人の人にそ
の答えを見ます。
一人は 刑の執行を経験したローマの百人隊長です。 彼は主が息を引き取られた時「実にこの人は神の子であった、義人であった。」という形で信仰の告
白をしました。聖書もなにも知らなかったのですが、イエス様の姿を実際に見て 「神の子であった」と告白したのです。 次の日からどうなったと思いますか? 結婚式や葬式で「いいお話を聞きました」とお世辞を言って
翌日から同じ生活に戻ってしまうというのではなく、 文字通り心が作りかえられたと思います。 もう一人は 十字架につけられた強盗です。 彼は他の一人と一緒に「おまえは神の子か。そうなら、十字架から降りて自分を救ってみろ」と叫んでいましたが、途中から変わりました。
というのは、この祈りを聞いて、 「待てよ、こんな極悪人を赦してくれるのか?祈ってくれるのか?この人は本当に救い主かもしれない」という赦しの確証を得たのだと思います。 そして、この二人だけで終わらず、私達−いまここにいるすべての人達も含まれていると思います。
2. みなさんの名前をいれてみてはいかがでしょう、「父よ、竿代を赦し給え。彼はそのなす所を知らないからです。」という祈りでありましょう。この祈りによってのみ、私達は赦しを頂けるのです。
ヘブル人への手紙では、主は今でも私達の為にとりなしの祈りを捧げておられます。
ヘブル7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになりま
す。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
終わりに 終わりに、教えられたことが二つあります。
1)まず、主イエス様が与えて下さった赦しの恵みを感謝させて頂きましょう。
十字架についてまで私達の罪の赦しを祈って下さった、その祈りを自分のものとさせて頂きましょう。
そして、過去の罪がどんなに深く、大きく、醜いものであったとしても、 全部赦されているのだと確信し、宣言しましょう。
戦後間もなく宣教師として来日されたヤコブ・デシエ−ザーという人がいました。彼は、東京を最初
に空爆したドーリットル少佐の率いる空軍パイロットでした。
しかし、燃料が続かずに中国のある地点で不時着し、日本軍に捕虜となります。彼は捕虜となった時
に、苦しみと辱めを経験し「絶対に赦さない」と日本への復讐を誓います。
しかし、差し入れてもらった新約聖書の、このイエス様の祈りの記事を読んだとき、彼の心は砕かれ、
溶かされます。
彼は敵を赦し、愛することを学び、戦後宣教師として恐らく30年以上奉仕をされました。その背後
には彼のお母さんの祈りがあったことも伺いました。宣教師生活最後の集会に私も出席し、私にとっ
ては最初で最後の証を伺い、感動したことを覚えています。
いかがでしょう、 受身でなく能動的に救いの恵みを与える者とさせて頂きましょう。 2)もうひとつ、赦す恵みを頂いて実行しようということです。
この人だけは、このことだけは絶対に赦せないという分野を持っていますと、その部分だけ神が自由
に働くことが出来ません。私達の力では解決できないものもあるかもしれません。
主が十字架につかれたことで私達が贖われ、そして聖霊によって注がれる力によって働かれています。
思いきって赦しを宣言し、必要とあれば、またそのことが相応しいことであれば、その当人の所に行ってその証をしましょう。
相応しくない場合とか必要でないケースというものもありますから、当人に言うかどうかは知恵を要する問題です。
しかし、必要なことは、心から赦す心であり、それを少なくとも主の前にははっきりと宣言させて頂きたいものです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と主は語っておられます。 ごいっしょにお祈りしましょう。その時に、名前を挙げて、その方に対して赦すべきことがありましたら声にだしてお祈りしましょう。
Message by Rev.Teruo Saoshiro,the senior pastor of Immanuel Tokyo Central Church
Compiled by K.Otsuka on April 14,2003