礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年4月27日

「水の泉を与えてください」

井川 正一郎 牧師

士師記 1章11節-15節

中心聖句

1:15  アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。

(士師記 1章15節)


旧約聖書 士師記1章15節を読みます。

士師記1:15 アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。

−はじめに 士師記について−

A.時代背景

士師記を開きました。今から約3400年前−紀元前1450年−1300年前後、ヨシュアの死後、傑出したリーダーが出ない時代でした。カナンの原住民と入りまじった形で、その習慣と偶像との戦いが続きました。霊的に一進一退の時代でした。そして、全部族が一つとなって良い意味で統一がとれた政治というよりも、部族氏族単位のものとなっていきました。

a)各部族・氏族ごとでの政治

部族はお互いに次第に無関心となり、あるときは争いさえするようになりました。自分たちだけで固まる姿。傑出したリーダーが出ず、また周囲の敵を排除しないそのような霊的状態でありました。

b)士師記のほかの箇所

士師記21章25節にこのころの状況が記されています。

士師記21:25 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。

B.6つ(7つ)のサイクル

1)士師記には6つ−あるいは7つ−のサイクルがありました。

背信(反逆)→審判(苦悩あるいは圧迫)→叫び→士師派遣というものです。

2)士師記は苦悩よりも平和な期間のほうが長かったのであります。一般的に、「暗黒の、罪の中の士師記」と言われていますが、7−8割は平和な時期でありました。神の恵みが現われたのであります。

C.士師=さばきつかさ

この士師ですが、大士師と小士師がいました。

1)大士師が6人−オテニエル、ギデオン、サムソンなど,

2)小士師が6人−シャガムル、トラウ、ヤイルなどであります。大士師、小士師という言い方は、物語に名前が書いてあるかどうかであります。

D.士師・さばきつかさの特徴

この士師の特徴ですが、

1)まず、軍事的リーダーであり、

2)限られた地域範囲と時間での活躍でありました。そして、

3)しばしば主の霊が注がれました。

E.最初の士師・オテニエル

今回は、最初の士師であったオテニエルに焦点を合わせます。オテニエルの時代は、

士師記3:9  イスラエル陣が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。

 3:10  主の霊が彼に下った。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押えた。

3:11a こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。

と士師記3章9節から11節にありますように、クシャン・リシュアタイムの圧制をはねのけ、40年間の平和をもたらしました。また、1章12節から13節にかけて、

士師記1:12 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」。

1:13 ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘ア クサを彼に妻として与えた。

とあります。いってみればいとこ同士の結婚ですが、カレブの挑戦に応えたオテニエルであります。

このオテニエルですが、

1)名前の意味は「神の獅子」であり、

2)カレブの弟ケナズの子であり、

3) 先ほどの聖句の通り、カレブの挑戦に応え、アクサを得ました。

4)そして、「こうしたらいいじゃないかしら」と、いわばそそのかしたのであります。

余談ですが、「こうしたらいいじゃないかしら」という言い方ですけども、お年寄りが若い人に対して遠回しにものを言うときに使いますね。3月まで主都中央教会にいらした國光先生が「何々したらよいのじゃないかしら」と仰っていましたが、「何々しなさい!」という意味でありまして(笑)、だいたいの方は遠回しに、ご丁寧に仰るのであります。

アクサ(=くるぶしの飾り)が直接的に求めている。オテニエルは畑を求め、アクサはそれに加えて水の泉を求めました。一人一人が別々というよりも二人が求めたと理解してよいでしょう。

−メッセージ 「水の泉を私に下さい」…その3つの理由−

オテニエルとアクサの結婚後最初の仕事はウェディングケーキの入刀でなく(笑)、「水の泉を私に下さい」と求めたことでありました。では、どうして求めたのでしょうか? 今回は3つの 角度から見たいと思うのであります。どうして求めたのか、それは、まず、

1.それが「必要不可欠なもの」だから−すなわち、生活と生命の維持になくてはならないものであり、一番必要なものが何かをわきまえていたから−であります。

祝いの品を下さいと結婚祝いに何を求めたか。晴れ着や飾り物でも、テーブルや箪笥(たんす)でもないのであります。

もとより生活に必要なまわりの品物はたくさんあります。それもお父さん(カレブ)はたくさん与えたかもしれません。

でも、オテニエルもアクサも、命の次に大事なものは何かをわきまえていました。水の泉は命と生活を維持するにはなくてはならないものであります。

詩篇27篇4節を見てみます。

詩篇27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

何を求め、何を必要不可欠なものとしてわきまえるかを知らされるのであります。

2.二番目に、それが「戦い取ったもの」だから−カレブの挑戦に応じ、戦って勝利し、さらに加えられたものだから−であります。

この水の泉は祝いの品を下さいと求めて得たもの−いわば結婚の祝いであります。でも、そもそもを考えますと、そもそもオテニエルがカレブの挑戦に応じたからこそ、その結果としての報酬・ご 褒美(ほうび)として与えられたものと理解しても間違いないのであります。

オテニエルはキルヤテ・セフェルに対して信仰を持って挑戦し、勝利を得ます。そして、アクサと水の泉を得ます。カレブは85歳になっても壮健で、「この山を我に与えよ」とへブロンを相続し たのでありますが、オテニエルは信仰の挑戦に応えてキルヤテ・セフェルを得たのであります。

更に加えられたものは、畑だけでなく、「水の泉」−それも「上の泉」と「下の泉」の二つです。「水の泉」がこの二つとも含まれているのか、それとも下の泉という意味でアクサは一般的に求めたのを、父親のカレブは求めたもの以上のものを与えたのでしょうか?

隠れた泉を握っていれば生活できる−それを与えようとカレブは彼らに託したのであります。

私達の間でも、恩寵の手段によって思いもよらない恵みが増し加わるということがあると思います。カレブは常にそのような恵みを下さい、と願ったのであります。

3.三番目に、「ネゲブの地に行く」からであります。

ネゲブとは南の地という意味があります。士師記1章9節に、

士師記1:9 その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。

とあります。そのネゲブですが、

A.乾いた地−荒野でありました。

普通は泉が期待できないところです。だから絶対に泉は確保しなければならかったのであります。それは命がかかっているから、生きるか死ぬかがかかっているからであります。

時代や環境をみても、人の心も乾いたカサカサした時代です。終末の様相を呈し、ネゲブの時代に入ってしまっています。このようなとき、「水の泉を下さい」と祈り、それに応えて神は「下の泉」だけでなく「上の泉」も与えてくださり、信仰者は守られていくのであります。

命に、そして生活に、潤い、活力、勇気を与え、きれいにし、すべての課題に解決を与えてくださるのであります。

神は「水の泉」という源泉を与えてくださるのであります。

B.ネゲブは、また全く新しい地であります。

行ったことがあったかどうかわからないが、そこに住む、定住するのは全く初めてであり、開拓的スピリットを持って前進するところであり、また、開拓的スピリットを持って信仰と挑戦に満ちたところであります。

新会堂に移っていくお互いであります。そこで礼拝を守り、信仰生活を送る私達であります。そしてそこを開拓教会として奉仕していく私達であります。

ネゲブの地に行くとき、何が最も必要か−それは「水の泉」であります。

C.そして、ふたりで一緒にいく地であります。

一人で行かなくてよい。二人で一心同体。結婚式のメッセージのようであります。

結婚は主イエス様と教会との関係を示すものです。どこに行ったとしても、主イエス様が一心同体として伴ってくださるのであります。水の泉として主は我ら一人一人につながっていて下さるのであります。

詩篇87篇7節にも、

詩篇87:7 踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。

とあります。乾いた地で、「水の泉」を与えて下さる、主の務めを果たしたことでしょう。

「水の泉を私に下さい」、これが今回のメッセージです。ごいっしょにお祈りしましょう。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa, pastor of IGM Tokyo Central Church  

Compiled by K.Otsuka,May 1,2003