メッセージ(伝道会)の要約

(教会員のメモに見るメッセージの内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年5月11日

「君だからすばらしい」

竿代 照夫 主任牧師

旧約聖書 イザヤ書 43章1節-7節

中心聖句

43:4 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

(イザヤ書 43章4節)


−はじめに−

1.先週、新聞にこんな記事が載っていて心を痛めました。

「小学校6年生のA男君の両親が離婚し、両方から面倒を見て貰えず、祖父母に押しつけられる格好で育った。そのことが引け目となって、学校も休みがち、行ったとしても保健室で過ごすのがほとんどという学校生活が続いた。しかしやっと卒業というところまでこぎつけた。

しかし卒業式当日、クラスメートがみんな新しい服を着て式に臨んだのに、彼だけは古びた服だったために、保健室に逃げ帰ってきた。担任の先生がそこに飛び込んできて、引きずり出すようにA男君を式場に連れていった。A男君はうなだれ、泣きながら式を終えた。」という記事です。本当に人ごととは思えない、悲しい記事でした。

社会全体がいつもお互いを比較し、成績とか、格好とか、人気とか、外側的なもので互いの価値を計り、ある時は人よりすぐれているように思って自己満足に陥ったり、多くの時は人より劣っているように思えて落ち込んだり、といった価値比較競争が私達の本来持っているはずのゆったりした心を蝕んでいるように思えます。

2.特に日本は狭い島国で、他人の目をいつも気にしながら、他の人と違わないようにという気配りをいつもして生きていく社会のように思えます。これは私だけの主観ではなさそうです。

1900年代に日本精神医学の父と言われる呉秀三という方が「この国に生まれたるの不幸」という文を書きました。そのなかで、人間の多様性を認めず、一人一人の在り方・生き方を正当に評価しない、人間観の貧しい日本という国に生まれた不幸を嘆いています。この指摘は当たっているように思います。

3.先週、ある実業家にお会いしました。折角築き上げて来た会社が倒産して家を失い、収入源も奪われて冷たい世間に放り出されるという危険に曝されている厳しい状況にあります。この方にとって、生活の厳しさもさることながら、こうした挫折にぶつかって、自分なんかは価値がないんだ、社会から必要とされていない、家庭にいても邪魔者でしかないといった淋しさの方が大きな問題であることを私は見ました。

厳しい雇用情勢が続いています。リストラで仕事を失う人が増えています。会社に残ったとしても、今迄の終身雇用制が崩れて、成果主義、能力による昇級がこのような人間の価値観を生み出しています。学校社会でも絶対評価という基準が導入されて、人間の価値を成績で測るといった空気が一層拡がっています。

4.私達もこんな社会にあって、成功すれば自分が何者かと考えてしまい、物事がうまく行かないと自分の存在価値さえも揺らいでしまうという悲しい状況が至る所で見られます。ここにおられる皆さんも、大なり小なり、そんな悩みを抱えておられないでしょうか。

5.確かに現代社会は成果主義、成功指向ですから、これに影響されないで生きるのは難しいです。自分自身でもこの成果主義の物差で自分自身を測ってしまいがちです。そうです、社会はそうかもしれません。家庭でもそう見られるかも知れません。自分でもそう決めつけてしまいがちでしょう。でも、そうした価値基準と全く違う価値基準が聖書に示されています。

A.全ての人はかけがえのない価値を持っている

1.『世界に一つだけの花』というSMAPの歌がミリオンセラーになっているそうです。ひとりひとりが違いがあることを花にたとえて、ナンバーワンでなくてもよい、オンリーワンであることを自覚さえすればそれでいいんだ、といういわば開き直りのような歌です。競争社会の中で、ひたすらがんばれがんばれの応援を受けて育ち、その中で生き抜く私達がホッとする思想ではないでしょうか。

2.聖書は、君は君で素晴らしいという思想を、情緒的な自己満足としてではなく、神の創造の事実から「本当にそうなのだ」と宣言しています。それが最初に述べましたイザヤ書の言葉です。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

これは実は神の民と呼ばれるイスラエル民族に対して語られた言葉なのです。神の民として選ばれ、愛され、訓練を受けたイスラエルの民が、その神から離れ、偶像に走り、道徳的には誠に腐敗した生活を送った刑罰として、その国の破滅と言う恐ろしい体験を致します。紀元前6世紀の頃です。しかし、落ち込んでいるイスラエルを励ます言葉が、「あなたは高価で尊い」なのです。7節を見て下さい。

イザヤ43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わた しがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

と記されています。神はその民をご自分の栄光の為に創造されたのです。間違ってはいけません。これはイスラエル 民族の優秀さを誉めているのではありません。全く逆でありまして、イスラエルのようなダメ民族をも神は造り、愛し、守り、導かれるというのがイザヤのメッセージなのです。

3.新約聖書を見ますと、生まれつきの盲目というハンディを背負った人の物語があります。

イエスの弟子が尋ねます。「先生、この人が生まれながらの盲人であるのは、親が悪いからですか、それとも、本人が悪いからですか、だれのせいですか。」 真に意地の悪い質問ですね。皆さんだったならば何と答えますか。これに対するイエスの答えは正に意表を衝くものでした。「この人が悪いのでもない、親が悪いのでもない、誰も悪いのではない、ただこの人の上に神の業が顕れる為なのだ。」と。このイエスの言葉によって励まされた何人もの人を知っています。

町を歩いて鏡を見るたびに「なんて私は器量が悪いんだろう。」「なんであの女優さんのようにすっきりした鼻ではないんだろう。なんでだろう!?」と思って自殺しかけた人がいました。教会に義理でやってきて一番最初に聞いたのがこの言葉だったそうです。

そうだ、私の上に神の業が顕れるためなんだ、と前向きに考えるようになってからすっかり人生が変わってしまいました。感謝感謝のアーメンおばさんと私達は呼んでいましたが、そんな輝いた人になりました。

私は何でこんな弱さを持っているんだろう、なんでこんな不遇の環境に生い育ったのだろう、なんでこんな厳しい環境に取り囲まれているのだろうと落ち込んだ気持ちの人はいませんか。神は私達が弱さと思える者も含めて一人一人をユニークなものとし、造って下さった、他の人と違う、その違いが貴いんだということを覚えましょう。

4.長岡輝子さんという90過ぎの女優さんがいます。『雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ…』という宮沢賢治の有名な詩を朗読するのにこの人の上に出る人はいません。

その輝子さんが少女時代、他の兄弟姉妹よりあまり成績は良くなかったそうです。通信簿をお父 さんに見せるとき、正にどんなに叱られるかとびくびくの思いであったそうです。でもお父さんは、一番成績の悪かった輝子さんを格別に誉めて、「輝子は偉い。他のお兄さんお姉さんの評判に押しつぶされないで、ひがまないでよく頑張った。」と言ってくれたそうです。

神様はもっと私達の事を見つけて誉めてくれるでしょう。神が私達を今ある姿で創造し、私達の心の悩みもみんな知っていて下さり、私達をあるがまま受け入れて下さるからです。

5.もう一つ聖書の中の有名な話に「放蕩息子」というのがあります。

二人の息子の中、兄貴はまじめそのもの、父親の手伝いはする、女遊びはしない、大酒も飲まない、贅沢もしない、という真に模範生であったというのです。弟は全く逆で、仕事は怠けるわ、遊び好き、金のしまりはない、どうにもならないどら息子でした。

弟は父の財産の生前分与を貰って都会に出かけ、その財産を湯水のように使い果たします。ちょうど運悪くその時に飢饉が起き、その日の糧にも困るようになります。とうとう豚飼いという当時の底辺の仕事に落ちていきますが、それでも腹を満たすことができません。

空きっ腹を抱えながら、ある日父親の事を考えます。ああ、今頃はみんなで楽しく団らんを囲んでいる頃だろうなあ、所が俺は今何としたことか、こんな外国の寒空で飢え死にしようとしている。そこまで考えて、そうだ俺は父さんの所に行って謝ろう、父さんご免なさい、俺が悪かった、おれを雇用人の一人として雇ってはくれないか、と。

彼がとぼとぼと家に近づくか近づかないかの時に父は遠くから彼を認め、走ってきて彼を抱き、キスをし、指輪をはめ、腕輪をはめ、衣服を新しくしてくれるのです。

父はこの息子のどこに価値を見いだしたのでしょうか。どこが偉かったから愛したのでしょうか。どこにもありません。むしろ欠点だらけ、罪だらけ、外観からもみすぼらしさ夥しいものがありました。ただ一つ、彼が父の息子であったから、愛されたのです。

6.私達も愛される価値も理由も何にもありません。でも神はキミだから素晴らしいといって下さるのです。

「ともに主の愛を分かち合う為に イエスは君を選ばれた君にしか届けられない人が待っている愛された主が 命を注がれた君だから 素晴らしい」

主イエスキリストは私達のために命を捨てて下さいました。私達が犯した全ての罪の身代わりとなってまでも愛して下さったのです。この愛を心を開いて受けましょう。キミだから素晴らしいと受け入れて下さる主を、心を開いて受け入れましょう。

−おわりに−

茨城県藤代町に唐沢さんという牧師がおります。魚屋さんの末っ子に生まれ、家業や農業も手伝いながら高校の入試準備をしていました。

「自分はどうしてこんなに大変な家に生まれてきたんだろう。何のために勉強し、生きていくのだろうか。死んだらどうなるのだろう。」と考え悩みつつおりましたときにキリスト教のキャンプに 導かれました。神の愛に触れて、その一つ一つの悩みに答えが与えられました。

「私が神が造られたから存在する、私は神様の栄光を顕わし、神様を喜ぶために生きている、死後は無ではなく、復活があり、希望がある。」と分かった時に人生が変えられ ました。今は牧師として、特に少年院の教戒師として多くの少年の指導に当たっておられます。私達の人生も変わりうるのです。


Message by Rev.Teruo Saoshiro, senior pastor of IGM Tokyo Central Church  

Compiled by K.Otsuka,May 11,2003