礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年5月11日

マルコの福音書連講(13)「赦しと癒しと」

竿代 照夫 主任牧師

マルコの福音書 2章1節-11節

中心聖句

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、

「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

(マルコの福音書 2章10−12節)


−はじめに−

1.年会と復活節をはさんで連講が中断してしまいましたが、今日からまた再開します。

2.前回は、この2章から中風の男を助けようとした4人の友達の友情と信仰に焦点をあてました。

3.今日も同じ箇所からですが、一歩進みまして、主イエス様のなさった癒しと赦しの宣言の意味を考えたいと思います。その前に、前回の講解から2ヶ月も経っていますので、物語を復習したいと思います。

A.物語の復習

1.カぺナウムへの帰還(1節)

まず2章1節をご覧下さい。

マルコ2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。

イエスは、カペナウムを離れてガリラヤ地方の巡回をしておられました。ガリラヤ湖の西の北にある、伝道の本拠地であるカペナウムに戻られました。ペテロの家が活動拠点でしたから、そこへ戻られたと思われます。多くの人々がイエスの帰還を待っており、集まって来ました。

2.奉仕の開始と反響(2節)

今度は2章2節をご一緒にお読みしましょう。

マルコ2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。

集まった人々が家の内外(中庭も含めて)に溢れ、文字通り立錐の余地がない程のありさまでした。

3.中風の友への友情(3節)

マルコ2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。

ひとりの中風の人が主イエスの評判を聞き、何とか癒して貰いたいと思いましたが、自分からは動くことができません。当時はリハビリという考え方がなかったので、ベッドに寝たままだったのでしょう。それを聞き付けた友達が助けてあげようとチームを組んで、ベッドの四隅を持ち上げてペテロの家へと急いだのです。そして入口のところに来たのが4節です。

4.イエスへの接近(4節)

マルコ2:4  群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。

4人の友達が息せき切って家に向かった所、もう家は満員、家の周りも人で 一杯と言う状態でした。常識から言えば、彼等は今日は止めて明日にしよう、という 考えを持つのが当たり前です。でも彼等の熱心さは、その困難を乗り越えるものでした。ルカの福音書5章18節には、

ルカ5:18 何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

という何とかしてでもという熱意を示しています。では何をしたでしょうか。

屋根を剥がして、そこから降ろそうという奇想天外な方法を考えたのです。

屋根に穴を開けたと言っても、今日考える程難しい事ではありませんでした。パレスチナ地方の屋根は至って簡単な構造でありまして、梁のような心棒があってそれを木の枝で覆い、その上を泥またはしっくいで固めると言うものですから、ばりばりと剥がせばはがれるようなものでした。それにしても、他人の家を許可もなく剥がして、人間を吊り降ろすという信じがたい行動は、主イエスを始め、その周りにいた聴衆を仰天させたことでしょう。

5.彼等の信仰を見た(5節a)

マルコ2:5a イエスは彼らの信仰を見て、

主イエスは、4人プラス病人自身、つまり、5人の信仰を汲み取りなさいました。すなわち、

・主は癒して下さるという、イエスのみ力に対する絶対的な信仰、

・そのイエスに「今」癒して頂きたい、と言う切実さ、

・イエスに近づく為には、あらゆる困難を克服する積極性、

・困難にぶつかっても諦めない信仰、

・初志貫徹のためには犠牲を厭わない信仰、 といった主は彼等の信仰を高く評価されました。それから主の宣言がなされます。

B.赦しの宣言

1.癒しよりも勝る恵み(5節b)

マルコ2:5b  ・・・中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。

この物語は驚く事に満ちていますが、このイエスの言葉も不思議そのものです。この病人は直して頂くために来たのではないでしょうか。その意味では肩透かしの宣言とも思われます。例えば、私達が歯医者にいったとして歯を治してもらおうといったところ、「糖尿病を治しなさい」といわれるとむっとすると思います。

しかし、この宣言のばあいは、主イエスのご奉仕の中核的な意味を持つものであって、決して核心をはずした言葉ではありません。この病人の場合、その問題の根源−神より自分を第一とする生活を指摘されたのではないでしょうか。全ての病の原因が罪とは思いませんが、しばしば不摂生が病気を齎すケースがあります。この場合は飲みすぎではなかったではないかと思います。罪の問題をしっかり解決しなければ、病からの癒しが罪の生活への逆戻りを結果する場合もあるからです。

2.イエスの病人への愛と憐れみ

マルコ2:5節b 子よ。

イエスはこの人を罪人と言う呼び方はなさいませんでした。神によって造られた神の子で、しかし、その罪を悔い改めて神に近づこうとしている者と認識して、「子よ」と語りかけた主イエス様の優しさをなさいました。マタイの福音書では、「しっかりしなさい(心安かれ)」と言っておられます。神による赦しの恵みを先取りして、子として受け入れられた者と呼び掛けなさった、とも考えられます。

3.赦免の宣言

マルコ2:5b  ・・・中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。

イエスが語られたのは、「あなたの罪は赦されるだろう」という不確定な言い方ではなく、信仰者としてもう赦されているという状態の宣言です。この言葉は文法的には現在形ですが、意味的には「赦されている」「赦された」−あるいは「完成した」と取って差し支えありません。英語では、"It is finished(イット・イズ・フィニッシュド)"と言います。

この言葉で思い出すのですが、高校一年のとき、英語の先生であり担任でもあったT先生が−残念ながら今年亡くなられたのですが−授業でこの言葉をとりあげました。すると隣に座っていた生徒が、「万事休すではないでしょうか」(笑)と答えました。T先生は私の母と同級生でして−何の因縁でしょうか、使ってはいけないですね(笑)−、私がクリスチャンであることを知っていましたがとぼけていました。私も力なく手を挙げまして、「完成したということでしょうか?」と答えました。その後、ギリシャ語では「テレスタタイ」−わからない方が多いでしょう(笑)−と言うのですが、その単語の意味を知ったとき心は燃えるのを覚えました。

私達の罪についても、主は十字架の上で「(救いは)完成した」とおっしゃり、そこで完全な赦しがなされているのです。

C.赦しか癒しかの論議

1.律法学者の理屈(6、7節)

今度は2章6節と7節をごいっしょにお読みしましょう。

マルコ 2:6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。

マルコ 2:7 『この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。』

1)律法学者の存在 

当時、教会には特等席があり、町の偉い人たちが座っていました。律法学者は聖書の意味を解説する人たちで、パリサイ人達Tとも重なります。これらのことはルカの福音書5章21節から伺われます。そこではパリサイ人も入っていて、イエス様が何か問題的な発言をする度に「言い過ぎじゃない?」「大変なことだね」と額を寄せあい、心の中で「何だこの人は!?」と頷いたりしてて不賛成の徴を表わしたりしたのでしょう。

話はそれますが、二つコーナーがあるようです。一つはヒソヒソコーナーで、「何だあんなこと言って(ひそひそ)」と言います。いろんな人達がいるものです(笑)。もう一つはアメリカの教会でですがアーメンコーナーというのだそうで、牧師が説教すると「アーメン!」「ハレルヤ!」「プレイズ・ザ・ロード!(主をたたえます)」といって反応する、牧師のファンのような人々が占める場所です。牧師にとってはファンがいると助かるのですが(笑)。

2)律法学者の理屈 

彼等の理屈は、罪を赦せるのは神だけであり、ナザレのイエスが神に代わって人間の罪を赦すなどということは越権行為である、神を冒涜するものだ、という内容です。

ではここでテレビのクイズ番組のように、律法学者の言っていることが正しければ○、間違っていれば×をと聞きたいのですが、ここではこの理屈は確かに当たっています。罪を深刻にとらえているという理解は100%正しいと思います。その理屈を強調した律法学者たちに私は感謝します。というのは、日本ではどちらかというと「なあなあ」「まあまあ」「まあいいか」と社会的に大きな影響がなければ許すという風潮があるからです。

不正が発覚した会社を思い浮かべてみましょう。もみ消しが出来そうな段階では一切知らぬ存ぜぬで通します。でも言い逃れが出来そうもない程の事実が明るみに出ると、一転して、社長以下が頭を深々と下げてお詫びします。多くの場合、そのお詫びの理由は「世間に対して迷惑をかけた」ことへのお詫びであって、「私の欲が深かった。心が罪にまみれていた。申し訳ない」というような言葉は聞いたことがありません。不正を行った罪に正面から向き合うことはほとんどなく、世間も「謝っているんだから赦してやれ」と寛大です。

これらのことは、生ける神の前に生きているということを理解しているかいないかで大きな違いがあります。私達は、最終の裁きをなさる方の前で生きているのであります。「まあまあ」と言っていけないということにおいて、律法学者はその点を突いています。

3)律法学者の問題 その1

ただ、彼等の方にも大きな問題があります。それは、主イエス様の言動などの中に、「この人はただの人間ではない」と神の権威とみ力を一つも感じていなかったという点にあります。そしてパリサイ人達は、主イエス様が人々の人気を奪ったこと、そして彼の悪いところを見つけ、最後には十字架にかけてしまったところに大きな不信仰と頑さの罪がありました。

4)律法学者の問題 その2

もう一つの問題は、心の中で呟いたことです。女性の方には失礼ですが、男らしくなくて(私は)大嫌いなのであります。律法学者たちは、手を挙げて「どうしてあなたは罪を赦すことが出来るのですか?」と問うべきではなかったでしょうか。ストレートではないですね。

2.イエスの譴責と質問(8、9節)

1)イエスの洞察力

主イエス様はさらに上手ですから、律法学者の心の動きを見抜いておられました。2章8節をお読みします。

マルコ2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。

マルコ2:9 中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。』。

こうした洞察力は経験と共に増し加わるものとは思いますが、イエス様の場合、もう一つ神の御霊による洞察が加わったのでしょう。私達は日常生活の中で、主は私達の心の中の考え、誰にも聞こえない思いをもご覧になりご存知である方だということを覚えたいと思います。また詩篇139編1節から4節にかけて、

詩篇139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。

詩篇139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

詩篇139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

と記されています。神を畏れたいと思います。

2)イエスの譴責

これは律法学者たちの不信仰、頑なさ、卑怯な態度に向けられているのですが、これは先ほど触れました。

3)イエスの質問

主は、律法学者たちの議論の誤りを指摘するためにこんな質問をされました。

マルコ2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。

赦しを与えるのと、癒しを施すのとどちらが易しいかという比較の質問です。皆さんはどちらだとお思いでしょうか。ちょっと手を挙げていただけますか。まず、赦しの方が易しいという答えを出す人がおられますか。次に癒しの方が易しいという方は…?ちょっとこちらのほうが多いようですが。

例として、富士山を想像してみます。まず癒しを頂上、赦しを五合目としますと、癒すことができたのだから赦すのはたやすい。あるいは赦しを頂上、癒しを五合目と喩えれば、赦すことができたのだから癒すのもたやすく辿り着けるのだということです。

あるいは両方とも難しい、神だけが出来る業である、というものです。ビーコンやクラークといった多くの注釈者はこれを支持しています。どちらが易しいかという問題よりも、どちらも難しい、でも目に見える癒しがなされると言うことは、目に見えない赦しの確かさの保証でもある、という論理です。主イエス様の理屈は第三であったと考えられます。

3.イエスの癒し(10-12節)

1)赦しと癒しの関連

マルコ2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、

主イエスの論理は簡単です。罪を赦すという神でなければ出来ない行為を、私は神の代理者として行うことができる、とするならば、それより小さなレベルの行為である癒しを行えないなどということがあろうか、これから行う癒しは罪の赦しの確かさの証拠である、というものでした。

2)癒しの実行

マルコ2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それ でみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

主はそこで中風の者の手を取り、起きなさい、寝床を畳んで家に帰りなさい、とおっしゃいました。彼は直ちに起き、寝床を畳んで喜びながら家路につきました。

3)癒しのインパクト

そして、12節にありますが、人々はただ驚き、神の聖名を崇め、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめました。

マルコ2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それ でみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

と説明しています。主イエスのみ業のインパクトの大きさが伺い知られます。

−おわりに−

きょう、主は私達ひとりひとりにみわざをなさろうとしてこの場に立っております。犯した罪は、「迷惑をかけた」といった外側のことではなく、神の前に大きな罪を犯したという深刻なものであります。

旧約聖書にありますが、ダビデは気のゆるみからウリヤの妻であるバテ・シェバと関係を持ち姦淫の罪を犯しました。そして、その罪を隠すためにウリヤを戦場に送り間接的に殺してしまいました。このことを知っていたのはヨアムとダビデでした。

ダビデはこのことのゆえに「神の手が重かった」と告白しています。また、毎日祈ろうとしても祈ることができない、神に受け入れられないという思いがあり、いわば体の中に棘(とげ)が入ってずきんという思いがしたのであります。詩篇51篇1節から4節は、罪を犯したダビデの魂の叫びがあります。

詩篇 51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

詩篇 51:2 どうか私の咎(とが)を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

詩篇 51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

詩篇 51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

神を意識した罪の悩みを感じます。教会で「どうして罪のことを言うのか?趣味で言っているのか?」と言われるかもしれません。しかし、生けるまことの神を意識するのであれば罪の意識は自然に生まれているのであります。

また、ダビデは詩篇32篇で罪が赦されたことへの感謝を表しています。お金、権力、戦いに勝つことなどよりも、一点の曇りなく神の前に立つことを幸いとしています。

詩篇 32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

詩篇 32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

詩篇 32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

詩篇 32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。

詩篇 32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

私達は今朝、クリスチャン生活において、罪の赦しの深い意味をもう一度しっかり捉えたいと思います。これが不十分ですと、体の中に棘(とげ)が入ったままでしっくりこないのであります。 主イエス様のもとに平安があるのであります。一人一人にあてはめて、贖いの恵みを持って立ち上がりたいと思います。お祈りいたします。


Message by Rev.Teruo Saoshiro, senior pastor of IGM Tokyo Central Church  

Compiled by K.Otsuka,May 11,2003