礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年5月25日

マルコの福音書連講(14)「新しい皮袋に!」

竿代 照夫 主任牧師

マルコの福音書 2章14節-22節

中心聖句

また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒も皮袋もだめになっていしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。

(マルコの福音書 2章22節)


−はじめに−

1.前回は、主イエスのなさった中風の人に対する癒しの宣言と、その意味を考えました。

2.今回は、主イエスがパリサイ人の教えと行動とに対決なさったその姿勢を幾つかのエピソードを通して学びます。

マルコの福音書2章の後半−つまり中風の人の癒しの記事の後は三つの物語で成り立っています。その三つとも、もっと言えば中風の癒しも含め、パリサイ人や律法学者との対立と言う文脈で理解することが出来ます。

主イエスが敢えてパリサイ人と対決なさったという節は見えませんが、主イエスのごく自然な行動と教えがパリサイ人のそれと全く異なっていたから対立を生んだ、イエスも又、敢えて妥協はなさらなかった、というのが真相でしょう。

3.2章の4つの出来事と、その課題、それに対するパリサイ人の関心とイエスの関心から、パリサイ人は形にこだわり、イエスは心を重視されたということです。そして、この一つ一つの物語が主ご自身の格言によってしめくくられています。逆に言えば、主イエス様の格言を紹介するためのエピソードだった、とも考えられます。

今日はレビの召命は省略して、断食問題に入りたいと思います。

A.断食の慣行

1.旧約聖書一般から見る

みなさん、断食はお好きですか(笑)? そのような方はいらっしゃらないと思いますが、断食とは、ある宗教的目的のために食事の一部または全部をある期間断つことです。

旧約聖書の初期には、決まった形での断食は見られません。環境的に食を断たざるを得ない状況に置かれたとか、(例:モーセがシナイ山上で行ったケース…出エジプト記24章18節)、悲しみの表現としてなされた(ダビデの例…サムエル記第二 12章6節)といったものでした。捕囚の前後から「断食の布告」(ヨエル書1:14)がなされるようになりました。捕囚の後では、10月10日(ネブカデネザルによるエルサレム包囲の開始)、4月9日(エルサレム陥落)、5月7日(神殿破壊)、7月2日(ゲダリヤ殺害)の4回が断食日と定められました。これに宗教的に熱心な人々が週に二回定期的な断食をするようになりました(ルカの福音書18章12節)。

2.イザヤの断食観

イザヤの時代、既に断食が神の恵を獲得する手段として考えられていた節が見られます。マルコの福音書にはいる前に見てみましょう。まず、イザヤ書58章3節に、

イザヤ58:3a 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」

と人々が要求がましく神に訴えているのを見ます。悲しみや、祈りへの集中の(自然な)表れであった断食が、それを行えば神は祈りに聞きなさるはずだ、断食を伴う祈りを神は聞き給うべきだ、となると断食の行きすぎです。

イザヤは人々が断食の形だけを守り、その精神を失った事を嘆いて、

イザヤ58:3b あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。

イザヤ58:3b見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。

と語り、主の御心として、

イザヤ58:6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。

イザヤ58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。

神の憐れみの心を実践することこそ断食の精神だと説くのです。

イスラム教徒はラマダンの月に断食を厳格に守りますが、その心を聞いたところ、あるイスラム教徒は「貧しい人と金持ちも、腹をすかすという共通体験を通して心が一つになる。そして金持ちは余ったお金を喜捨するのだ。」といいました。このような断食であれば私達も真似すべきかなと思いました。

3.ヨハネの実践

バプテスマのヨハネがメシアへの道ぞなえとして登場したとき、彼も彼の弟子も断食を守りました。荒れ野でのシンプルライフがこれをもたらしたとも考えられますし、彼のメッセージの確信である悔い改めの精神の表れとも見ることができましょう。

B.パリサイ人の非難とイエスの回答

1.誰が非難を?

マルコの福音書に戻ります。18節を見ると、ヨハネの弟子達とパリサイ人達が一緒にイエスの下に来て質問しました。ルカの福音書ではパリサイ人と律法学者のみを記し、マタイの福音書ではヨハネの弟子のみを記していますので、双方が連合して質問した訳ではないでしょう。ヨハネの弟子は純粋な疑問として、パリサイ人はイエスをやっつけようとしての質問であったと考えられます。

2.非難の内容

それはともかく、非難の内容は、

マルコ2:18 …「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」

というものでした。よけいなお世話だ、と言ってしまえばそれまでですが、一応もっともらしい質問でしたから、イエスは真正面から答えられました。ここから4つの悪いパターンを見ることができます。

まず、パリサイ人が詮索好きであったかを示す悲しいエピソードの一つです。また、このスピリットの表れは、他の人を自分と同じにしなければ済まないという、私が名づけたのですが画一化症候群です。教会にも見られる残念な傾向です。自分は自分、他人は他人と割り切れれば、沢山の問題は解決するように思うのですがいかがでしょうか。それに加えて、敬虔を形で計るという悪い癖がここに見られますね。敬虔は形に顕れるものとまでは言ってよいと思いますが、形から敬虔を計ると言ったら行きすぎです。

加えて、この質問の動機には、私達は良くやっているんだ、優れているんだという霊的傲慢があります。霊的傲慢ほど始末に負えないものはありません。私達は他の人々に比べて霊的だ、と言った途端に、その人の霊性は低いものだと証言してしまうのです。因みに、ルカの福音書は、「あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」とイエスの弟子達の食いしん坊振りを非難しています。これは主イエスに対してではなく、弟子達であることは興味深いものです。イエス様、あなたは大喰らいの大酒呑みですとはさすがに言えなかったのでしょう。

3.イエスの応答(19,20節)

それに対してイエス様はこう語られました。

マルコ2:19 …「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。

マルコ2:20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。

西欧では、ブライド・ブルーム・フレンドといって、結婚式のとき花婿の友人5−6人が参列します。花嫁さんの友人もそうします。日本では証人ですね。

本題に戻りますが、花婿である私がこの世にいる間、花婿の友達のような立場である弟子達が何故悲しむ必要があるのでしょうか。一緒に喜んで当然ではありませんか。でも花婿である私が十字架の死によってこの世から取り去られる時が来ます。その時弟子達は悲しみ、断食するでしょう。宗教的な行動は、形をはめるのでなく、人間の自然の心の表れであり、それでよいのです。飾ったり、繕ったり、決まりを押しつけたり、押しつけられたりするなんて邪道です、と言いたかったのでしょう。

私がいたアフリカでも、礼拝の際に飛んだりはねたり、あるいは声をあげていましたが(笑)、ここでは、事実、主が昇天された後で、弟子達が断食したケースを「使徒の働き」は二回記しています。 教会だけでなく、どの世界にも、自分の事は棚に上げて置いて、他人の行動をとやか く見張ったり、批評したりする人がいるものですね。主イエス様は、

ヨハネ21:22 「彼と・・・あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

とおっしゃるお方です。

C.より深い教え

ここで主イエスは、断食問題をきっかけとして、二つのたとえを与えなさいます。

1. つぎ当ての譬え

ここでいう「新しい布」−文字通りには、「未だ縮んでいない」−という意味ですが−は、主イエスによる新しい命を指します。「古い着物」とは、パリサイ人達の厳格な決まり、生活態度を指します。丁度古い着物に新しい布をつぎ当てすると、洗濯の度に新しい部分がぐーんと縮み、それ以外の部分が縮まないために、着物全体が破れてしまう、ということなのです。 私達の身の回りでも、わざとつぎはぎを当てたりしている方がいらっしゃいますが、昔はつぎはぎはあたり前という時代がありました。イエス様もこのような経験をなさったのでしょう。同じように、イエスの新しい命を律法主義と言う今までの枠の中で捉えようとしたならば、歪みを生じてしまう、という結果になります。

2.ぶどう酒と皮袋の譬え

ここでの「新しいぶどう酒」も前の譬えと同様、「主イエスによる新しい命」のシンボルです。沸々と煮えたぎるような情熱、香ばしさ、飲むと喜びを与える喜びが「新しい葡萄酒」というシンボルに全部含まれていましょう。「古い皮袋」とは、言うまでもなく、パリサイ人達の厳格な決まり、生活態度を指しています。革袋はふつう山羊の皮を上手に縫い合わせてボトル状にし、栓をつけて、葡萄酒の保存に使うものでした。でも古い革袋は伸縮性を失い、固くなっただけではなく、脆く破れ易かったのです。そこに出来立ての葡萄酒を放り込みますとどうなるでしょう。葡萄酒はまだ発酵を続けていますから、絶えず膨張します。革袋はそれに耐えずに破れてしてしまうのです。それにひきかえ、新しい革袋は葡萄酒の膨張と一緒に膨張しますから、破れることはありません。

3.

主イエス様が語られた福音は、決まり切ったしきたりとか、伝統とか、教理という枠に収まるような小さなものではありませんでした。 「新しい葡萄酒」は煮えたぎるような情熱、喜び、柔らかい心を表しています。決して飲酒のすすめを意っているのではありません(笑)。それは実にどこに飛んでいくか分からないスーパーボールのように、命に溢れ、躍動的で、自由闊達なものです。主イエス様の福音とはイエス様ご自身の命そのものだからです。霊的な自由さこそが福音の命です。

ガラテヤ人への手紙5章1節には、

 ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

という解放宣言があります。救われた喜びの中にあったガラテヤ人に対し、律法主義者達が律法を強調したために、外国人であるゆえにユダヤの律法を守ることになったため、パウロがガラテヤ人に対して述べたことばです。更に5章13節で、

ガラテヤ5:13 …あなたがたは、自由を与えられために召されたのです。

と愛に満たされた自由を語っています。5章16節を読みましょう。

ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

また、コリント人への手紙第二3章17節には、

コリントU 3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

とも記されています。それを従来の宗教観という枠にはめて閉じこめることは、イエスの命を殺してしまうことになりかねません。そんな事をしないで、「新しい皮袋」、つまり、イエスの教えに従って行こうという柔軟な考え方、生活態度、その心が私の教えを受けるに相応しい受け皿だと主は語られたのです。自由、喜び、平安、力、闊達さなどを信仰生活の中心として捉えさせていただきたいのであります。

マルコの福音書に戻りましょう。2章22節をお読みします。

マルコ2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。

もし、新来会者が派手な服装でやってきたとき、「来るところではないのでは?」と見る傾向があるかもしれません。その外側で裁く心を取り除いていただきたいのであります。きょう触れませんでしたが、2章14節のレビの記事で、イエス様は取税人、罪人、遊女らとともに宴会をしていたのであります。「型にはまらなくて困ったなぁ」と思っても大きな心を持って見守りたいと思います。

−おわりに−

最後に申し上げたいことは、生きたイエス様を新しい皮袋にとらえよう、ということであります。心という新しい皮袋−柔軟な、しなやかさを持った心でとらえたいのであります。

また、見当をつける−野球でいえば、イチローや松井がストレートのつぎはカーブか、というように−のではなく、現実生活の中で生けるイエス様に身を委ねて、御霊の風が導くまま、人生を進もうということであります。新しい葡萄酒である主を受け入れる新しい心を持とうではありませんか。

私達は会堂を新しくして、新しい教会概念や新しいプログラムに取り組んでいます。名称も新しくなります。新しい葡萄酒である主の福音を入れる入れ物を新しくしていただいてのスタートをお祈りし、現実生活においても、新しい皮袋−御霊に導かれた柔らかな心をもって主の前に出させていただきたいと思います。お祈りいたします。


Message by Rev.Teruo Saoshiro, senior pastor of IGM Tokyo Central Church  

Compiled by K.Otsuka,May 26,2003