礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2003年6月15日
マルコの福音書連講(15)
「罪人を招く主」
竿代 照夫 牧師
マルコの福音書2章13-22節
中心聖句 17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 ( マルコ2章17節) |
始めに
前回は、主イエスがパリサイ人の教えと行動とに対決なさったその姿勢を断食論争を通して学びました。マルコ2章の後半つまり中風の人の癒しの記事の後は、三つの物語で成り立っています。その三つとも、もっと言えば中風の癒しも含め、パリサイ人や律法学者との対立と言う文脈で理解することが出来ます。今日は前回省略しましたレビの召命に戻りたいと思います。
A.レビという人
1.取税人
1)占領国であるローマ帝国の役人覚えていて頂きたいのは、職業に貴賤はないと言うことです。どの職業が倫理的に勝れていて、どの職業がそれ自体汚れているというレッテルを貼ってはなりません。特に、取税人ということばで、今日の国税局の方々を想像しないで頂きたいのです。ただ、事実を述べますと、新約聖書にしばしば登場する取税人はユダヤ人でありながら、占領国であるローマの為に奉仕していた役人であったということです。それ自体、同胞のユダヤ人からは、権力におもねって、自分の国民を敵の手に渡す裏切り者という気持ちで見られていました。
2)請負契約
その税金の算定基準は一応ありましたが、今日のようなきめ細かい計算方式が確立していた訳ではなく、かなり大雑把なもので、この地域から幾ら取れるかといった入札方式で、一番高く値津もった業者に取り立てを委託するという支配者の便利な方法が取られていました。取税人にとってもこれは便利な方法で、取り立て額を適当に決めて徴収し、ローマ政府には請け負った額を納め、残りは自分の懐という誠にもって、うまい制度でした。
3)一般的に、強欲で非情、そして金持ち
その徴収に当たっては、かなり強引なやり方がローマ政府の権威を笠に着て行われていました。当然一般大衆からは裏切り者という目で見られます。大衆の白い目と金への欲望を天秤に掛けて着いた仕事ですから、大衆からの不人気はいわば覚悟の上だったのでしょう。その分、ルカ19章のザアカイのように、また、このレビのように金持ちが多かったことは当然でした。
4)宗教的には「罪人」とのレッテル
取税人は祖国を裏切っているという理由で神殿に入ることを許されていませんでした。特に愛国的なパリサイ派の影響を受けた大衆からは憎まれていました。神殿での礼拝を行わない人間は、彼らの価値観によれば大変な罪人です。つまり、取税人が特別道徳的な罪を犯したというわけでもないのに、「罪人」と呼ばれていたのです。
2.カペナウムと言う土地1)ガリラヤ湖北岸の要衝
さて、カペナウムという町はガリラヤ湖北西の湖岸の中都市でした。そこは、ダマスコからガリラヤを経てエルサレムへの交通の要衝であり、ローマの軍隊も駐屯していました。従って取税人の活躍しやすい場所であったことは想像に難くありません。
その町の入り口に収税所がありました。丁度今で言う高速道路の料金所が一番イメージとして近いかと思われます。そこで一生懸命仕事をしていたのがレビです。
3.レビの生涯1)本名はレビ、別名がマタイ
レビというのは本名で、別名がマタイであったと思われますが、マタイという名前の方がその後の記録では一貫して使われています。マルコ伝でさえも、2章ではレビですが、3章の12弟子のリストではマタイとなっているほどです。マタイとは、主の賜物という意味のマタタというヘブル語名がギリシャ風になまったもので、多分主イエスの弟子となった機会にイエスから与えられたものと考えられます。
2)12弟子の一人
彼は取税人となるくらいですから、読み書き算盤に勝れた当時としては教養人であったと思われます。ギリシャ語の知識も充分持っていたと考えられます。彼はその教養と才能を活かして取税人という(良心の咎めを犠牲にしながらも) 収入の良い生活の道を選んでいたものと思います。しかし、心の中では本当の納得が得られないままその人生を続けていたのでしょう。それを見抜いて主イエスは弟子と
成る可く召しなさったのでした。3)マタイ伝の執筆者
弟子になったマタイは特に目立った活躍はしていませんが、忠実にその務めを果たしたと思われます。後に、彼の取税人としての経歴が生かされて、主イエスのご生涯の記録であるマタイ伝執筆するようになるとは、正に、人を見なさる主の目の確かさを示す物語です。
B.レビの召し(13、14節)
13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
1.主の眼差しと語りかけこの物語は、前々回お話ししました中風の人の癒しから続いています。その興奮の冷めやらぬ頃、主は数人の弟子を連れて湖岸を散歩なさろうとしました。多くの群衆が彼を取り囲んだので、主はもう一度教えを与えられました。その前後にこのレビとの出会いがありました。
町の入り口の収税所に座っていたレビと目が合ってしまったのです。人生にはこういう不思議な出会いというものがあるのですね。この場合はレビがイエスを見たのではなく、イエスがレビを御覧になったというのです。イエスの存在にも気付かないほど熱心に仕事をしている姿、しかし、その目に顕れているレビの心の淋しさ、虚しさ、求め、その一切を主は一瞬にして汲み取られたのです。私達についても同様です。誰も見ていない、世の中の仕事に没頭しているときの私達の心の思い、葛藤、求め、それらの全てを主は読みとられるお方です。その透徹した目で私達の心を御覧になる主がレビにこう語られました。
「私についてきなさい」。何と唐突で、乱暴で、不思議な語りかけでしょう。私達の教科書では、救いがあり、聖めがあり、そして(生涯を福音の為に用いるべく神が選ばれた人には)召命がある、という順序が示されています。でもこのレビは救われていたのでしょうか。もしかしたならば、主の説教をどこかで聞いていて、主に従う決心をもうしていたかも知れません。でも私の印象ではこれが主との初対面のようです。主イエスは教科書的な順序はお構いなく人を扱いなさるお方です。救いも含めた召命がいきなり来てしまったというわけです。彼の心にあった密かな求道、心の願いを主は読みとって、順序など構わずに彼を召しなさいました。
私と一緒に昨週WEA宣教会議に出席した佐々木先生は救いよりも前に召命を受けていたと証しされました。自分は宣教師になるのだというはっきりした促しが最初にあり、それを実現するにはどうしたらよいかと牧師に相談したら、救いを受けなさいと言われたというのです。かれは多くの困難を乗り越えてフィリッピンで10年近く開拓伝道を行いました。
2.レビの応答主の召命に対するレビの応答がステキです。あなたは誰かとも、年収は幾らかとも、定年後の年金はどうなっているかとも、献身した後の家庭はどうなってしまうかとの質問も、税務上の引継期間の必要も何も語らず、ただ単純率直に「立ってイエスに従っていった」のです。
私達もみんながみんな、こんな献身は出来ないかも知れませんが、この単純率直さは見習いたいと思います。私は定年退職してから神戸神学校に入学した兄弟に遭いました。献身とは若い人々だけの問題ではありません。家庭を持ち、職業を持った人々にも主は召しの声を掛けなさいます。それを聞いたとき私達はどんな応答をするでしょうか。
C.パリサイ人達の非難(15、16節)
15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
1.レビのさよならパーテイレビは、単純率直に主に従って行きましたが、全くの非常識人間では無かったようです。仕事仲間やその他の友達を招いて、献身記念パーテイを開きました。お金持ちでしたから、準備に苦労はかかりません。盛大なパーティとなり、大勢のお客でレビの家は溢れました。
2.パリサイ人達の非難: 何故罪人と交わる?正式に招かれたかどうかは別として、その客の中にパリサイ人達が混じっていました。文句があるなら来なければ良いのに、大衆の人気を気にするパリサイ人はどこにでも顔を出したようです。自分達はしっかり飲んだり食べたりしたのでしょうか、それにしては図々しい物言いです。あまり飲まず食べずにコメントしたとすればいやらしいです。どっちにしろ私はこんなコメントは好きません。しかも主イエスに直接言えばよいのに、何となくひそひそと語っている卑怯な雰囲気を感じます。イエスの弟子に文句を言ったというのです。私は新約聖書の中で一番大切でありながら、一番無視されている教えは、人に過ちがあるならば直接行って諫めなさいというイエスのそしてパウロの教えだと思います。教会でもこれが行われないと嫌な空気になります。直接非難しないで第三者に告げ口するというのは、最も非クリスチャン的、非聖書的方法であります。
パリサイ人に戻ります。彼らの非難はイエスとその弟子が取税人や罪人と交わっているという点です。取税人や罪人と並べていますが、実質は同じ事です。彼らが語る罪人とは、必ずしも道徳的に汚れたという意味ではなく、それも含まれましょうが、より直接的には、神の律法や儀式を守らない人という意味が強くでています。
信仰者は清くありなさい、朱に交われば赤くなるとは聖書に書いてありませんが、同様な言葉は多くあります。詩篇の1篇には、罪人の道に立たず、とありますし、第二コリント6章には不信者と釣り合わぬくびきをつけるな、とも記されています。でも、これを押し進めて、学生はコンパには出るな、会社員は忘年会には出るな、社員旅行にも行くな、主婦は近所の付き合いはするなという孤立主義を取ったならば私達は生きていけるでしょうか。それだけではなく、彼らの魂を獲得できるでしょうか。
世の汚れに染まってはならないという別離主義と、世のただ中に受肉的に存在しなさいという二つの方向はとても矛盾した緊張関係をもたらします。でもその緊張関係に生きているのがこの世におけるクリスチャンの存在です。私達はどちらの極端にも陥ってはなりません。
D.イエスの答え(17節)
17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
1.主の来臨の目的は、罪人を招き、救うため正しい人、健康な人を招くのではなく、罪人、病人を招き、赦し、きよめ、癒すためという当然の事を語っておられます。しかし考えて下さい。私達のうち、罪を持たない人はいるでしょうか?。弱さを持ち合わせない人はいるでしょうか?誰一人おりません。その伝から言えば、皆がイエスを必要としており、イエスは全人類の為に来られたと言えるのです。
ただ、問題なのは、自分は病気なのに健康と思っている、罪人なのに正しい人間と思っている、そういう人が実は一番厄介なのです。パリサイ人は表面上は正しく、まじめで、熱心な人々でした。そういう人に限ってプライベートな部分では貪欲で、見栄を張り、人々の誉れを求めるというどうにもならない内なる罪に纏われている人が多いのです。その分、取税人や遊女は、みんなから罪人扱いされていますから、内なる罪に気付くことが早い、それでイエスに受け入れられたのです。
2.私達も1)罪を認めて主に縋ろう
私達も真面目であることは幸いですが、それで天国に行けるわけではありません。心の内の奥の奥の罪を認めて主に縋る以外に救いはないことを肝に銘じたいと思います。
2)イエスの心をもって周りの人に目を注ごう
更に、私達の周りの人々について、どんなに変わったと思われる人々であっても、明らかな罪人と見える人々でも主イエスと同じ目をもって彼らを見つめましょう。その外側のパンクであれ、チャパツであれ、いい加減な服装であれ、そんなものに目を留めないで、彼らの心を読みとる目を持ちましょう。彼らの目を見ましょう。心の叫びを聞き取りましょう。彼らの奥底の願いを受け入れる主イエスの心を持って彼らに接しましょう。今週出会う誰かにこのような心を持って接したいものです。
お祈りを致します。
Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.6.15