礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年7月6日

マルコの福音書連講(17

「イエスの怒り」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書3章1-12節

中心聖句

5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

マルコ3章5節)


始めに

 愛と憐れみを強調される主イエスと、律法遵守を強調するパリサイ人の対立が安息日の過ごし方という具体的な問題で噴出しました。

 前回はイエスの弟子達が麦を摘んで食べたと言う出来事からの論争でした。そこで主イエスが強調されたのは、イエスは全ての物の主であって、規則に縛られるお方ではなく、それを超越したお方である「
人の子は安息日にも主なのです」という大胆な声明でした。

 今回はまた
安息日問題ですが、具体的な状況は麦の捕食といった軽いものではなく、手の障害を持った人物をどうするかというもっと深刻な問題です。


A.パリサイ人の眼(1-2節)

1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。

2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

1.安息日の礼拝

 「イエスはまた・・・」というマルコの記述だけを読みますと、前の物語の続きで同じ日に起きた出来事のような印象を与えます。マタイの平行記事は「そこを去って会堂に入られた」(12:7)と、その印象を更に強くします。しかし、ルカは、「別の安息日に」と、麦の穂事件とは別な日であると明言していますので、私はこの理解をもってお話します。

2.片手の萎えた人

 会堂に体の不自由な人が礼拝に集う事自体は何の不思議なことでもありません。ですから、いつものような礼拝に、いつものような会衆が集い、片手の不自由な人もいつものように礼拝に出席していました。

 ルカは右手と述べています。より詳しいですね。右利きが通常と言う観念が今よりずっと強かった時代の事ですから、右手の損傷はこの人の生活を著しく不便なものにしていた事でしょう。ここで「萎えた」という表現がなされていますが、ちょうど植物が枯れてしまったという表現で、生まれつきではなく、人生のある時点で病気または怪我の故に、腕が枯れてしまい、その状態が続いていたという言い方がされています。どんな麻痺状態にあったのか、その辺は何とも想像に余る事です。

 いつもと違う事は、そこに主イエスがおられたこと、パリサイ人がいたこと、そして両者の間には安息日を巡って熾烈な論争が続いていた事です。当然そこでイエスがこの人をどう扱うかと言う事が言わず語らずこの会堂中の関心を集める焦点となった訳です。礼拝の最初から、目に見えない火花が散っていたのです。

3.パリサイ人の関心

1)パリサイ人(と律法学者)の存在

 2節を見ますと、「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」と記されています。マルコはいきなり「彼ら」と語っていますが、6節を見るとパリサイ人となっています。マタイ12章では、パリサイ人と律法学者となっています。

2)批判的な眼

 パリサイ人達は「じっと見ていた」のです。正確には斜めから目を凝らして見つめ続けていた、と訳せます。ところでマタイの記述では、「彼らはイエスに質問して、『安息日にいやすことは正しいことでしょうか。』と言った。これはイエスを訴えるためであった。」となっています。

 どちらが正しいのでしょうか。どらも出来事の一面を正確に描写していると私は考えます。恐らく、長い沈黙が先にあって(それをマルコもルカも強調し)その果てにパリサイ人が口を開いた(それをマタイが強調した)と考えられましょう。実に陰険という言葉が当てはまるような描写ですね。


3)「訴える」目的

 その内容はイエスがこの不自由な手を治すという医療行為を安息日に行うかどうか、という点でした。彼らの基準からいえばこれを行うとすれば当然安息日破りという「大罪」を犯すことになります。でも今までのイエスの行動パターンから言えば、多分手を癒す行動に出るであろう、そうなったらイエスを告発するチャンスだ、とこういった魂胆をもって虎視眈々イエスの行動をじっと見ていたわけです。

 「訴える」 という言葉は、「罪というカテゴリーの中に入れる」という動詞です。これはよい、これは悪いと他人の行動を何時でも監視し、裁いていた彼らのスピリットが反映されています。主イエスほど無私の精神をもって人々に接した人は歴史に見ることが出来ないのに、そのお方の精神のかけらも汲み取れずに、ただ批判の対象としか見られない所にパリサイ人の悲しさがあります。


B.主イエスの質問(3-4節)

3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。

4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。

1.「立って、真中に出なさい。」

 パリサイ人の空気を悟って、主イエスは手の萎えた人を会堂の真ん中に立つように導かれました。「立って、真中に出なさい。」と(3節)。立ちなさい、との命令は、人々の注目を集めるためであったと思われます。

2.パリサイ人への質問「安息日にしてよいのは、善か、悪か?」(4節)

 それからパリサイ人に質問されます。「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と(4節)。答えるのも愚かと思えるほど、問題点を明確にした鋭い質問です。実は規則が大好きなパリサイ人でも、人間の命が危ういときは安息日の規定を拡大しても良いという決まりは持っていました。主イエスはそれに訴えたのです。この人にとっては生死の問題ではないのか、と。

3.羊の譬え(マタイ12:11,12)

 マタイはこれに加えて、「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」と羊の例を挙げて、律法の規則よりも緊急時の憐れみの方がはるかに大切と強調しておられます。私達の日常生活でも、ともすると規則の隅に人道が追いやられるような出来事を見ますが、当時の社会はもっとひどい形でそれが行われたのでしょう。

4.パリサイ人の沈黙

 しかし、パリサイ人の答えは沈黙でした。分からなかったからではなく、分かっていたのですが、認めるのが悔しかったからなのです。なんという頑なさ、何という傲慢でありましょうか。


C.主イエスの怒り(5-6節)

5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

1.主イエスが怒るとき

1)「小羊の怒り」(黙示録6:16)

 主イエスは「怒って彼らを見回し」なさいました。きっとパリサイ人はひと塊ではなくあちこちの分散してイエスの行動を見張っていたのでしょう。イエスが怒ったのは、パリサイ人達の頑なさに対してであるとマルコは記しています。

 温厚なイエスが怒られるとは驚くべき事です。常々怒りっぽい人が怒っても人々は驚きません。またか、と思う程度です。でも聖書の中で「小羊の怒り」(黙示録6:16)という表現がありますが、普段おとなしい羊が怒ると人々は震え上がります。ちょっと脱線しますが、主イエスが怒られた数少ない例を幾つか挙げてみます。

2)子供達を止めた弟子達に対して(マルコ10:13、14)

 第一はイエスに近づこうとした子供達を止めた弟子達に対してです。マルコ10:13、14を見ましょう。「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」 頑是無い無邪気な子供達がイエスのファンになって、その親たちが子供達をイエスの許に連れてきました。それを叱った弟子達の大人的論理、子供達への無理解、無関心、それに対して主は優しい注意ではなく、憤られたのです。

3)神殿を商売の場所とした人々に対して(マルコ11:15-17)

 怒りという言葉はありませんが、怒りの行動として、神殿を商売の場所とした商人達、それを許してショバ代をピンハネしていた大祭司達にイエスの怒りが爆発しました。マルコ11:15ー17がそれです。

 「イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。『「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。』」神の清きが人間の利己主義で犯される事への怒りです。

4)利己的なものではなく、神の御心が無視される時(第1コリント13:6)

 この三つの例で共通しているのは、主イエスが自分の名誉や気分が犯されて感情的に怒ったというのではない、という点です。聖書が私達に教えているのは、こういう利己主義的な怒りは罪であるという点です。でも神の聖名が汚され、神の業が止められ、愛と憐れみが無視されるとき、私達は怒って良いのです。怒らなければなりません。パウロも不義を喜ばず(第一コリント13:6)と記しています。罪は憎み、罪に対して怒って良いのです。

2.頑なさへの怒り

1)パリサイ人の頑なさ

 繰り返しますが、主が怒り給うたのは、パリサイ人の頑なさに対してでした。主の怒りは感情の爆発と言うよりも、悲しみの極致と言った方が正確でしょう。答えが分かっているのに、それを言うと自分達の敗北を認めるのが悔しいから沈黙する、理屈ではこれではいけないと思いつつ自分の考え方を変えたくないから変えない、その頑なさです。神の業を見て、自分達の考えに固執するのは間違いで、イエスの教えを受け入れるべきと心の底では思いつつ、それに逆らう意図的な頑さです。この頑なさは岩の様なという意味です。

2)エゼキエル預言の中核

 エゼキエルは新約の恵の預言をした人物ですが、その恵の核は「石の心を除いて肉の心を与える」というものでした(エゼキエル36:26)。石は頑固さを、肉は柔らかさ、柔軟性、教えられ易さ、過ちを認める素直さを意味しています。私達の家庭で、社会で、はたまた教会でも、石と石が何と頻繁にぶつかり合うことでしょうか。どうか、「肉の心」を与え給えと祈りたいと思います。

3.イエスの癒し:「その手を伸ばしなさい」

 イエスはこの実り無き問答を中止して、真っ直ぐ癒しの行動に出ます。「その手を伸ばしなさい」と。伸ばせないのが彼の病気だったのですが、それにお構いなく命令をされました。彼がその通りに伸ばすと、伸びたのです。単純な描写ですが、私達の癒しの在り方を示すものです。だめだと思えばだめです。でも出来ると思えば出来るのです。主の御心であり、命令でありさえすれば。

4.パリサイ人の怒り:十字架への序曲

 彼らはここで神の業を見、心を変えるべきでした。主もそう願われたことでしょう。でも彼らのリアクションは反対でした。頑なな心を益々頑なにしました。そして、諸悪の根元と彼らが考えたイエスを亡き者にしようと徹底抗戦の志を固め、陰謀に入るのです。それまでは一応神の名によってという大義名分をもってイエスに反対していたパリサイ人達は、その名分も砕かれて以降は、なりふり構わぬ謀略へと走りました。しかもパリサイ人が不倶戴天の敵と考えていたヘロデ党の人々との陰謀が 始まったのです。

 ヘロデ党とはローマ帝国の占領政策に味方して、支配者の側につこうという体制派、権力指向の強い政治組織です。パリサイは、反ローマの保守派でしたが、この時からこの相反する勢力が反イエスという共通スローガンで纏まるようになります。残念ながらこの陰謀が実って十字架が来るのです。本当に悲しいことです。でも彼らの態度は他人事ではありません。私達も神の恵無しには同じ行動、同じ態度を取る頑なな輩なのです。

終わりに

 主の恵が私達の心と行動と思いとを覆って下さるよう切に祈ろうではありませんか。 特に、神の恵みによって私達が生来もっている石の心を砕いて頂き、神の前に砕かれた心であり続ける様、祈ろうではありませんか

 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇34:18)

 「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりく だった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ書57:15)

 お祈りを致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.7.6