礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内 容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・ 日本聖書刊行会)によります。
2003年7月27日
「主は苦難の日の砦」
井川 正一郎 牧師
ナホム書 1章1-15節
1:7 主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は 知っておられる。 (ナホム 書1章7節) |
旧約聖書ナホム書1章7節をお読みします。
ナホム1:7 主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主 に身を避ける者たちを主は知っておられる。
現代は終わりの時代、終わり、しめくくり、最後という意識の中 で思いめぐらしています。
今回とりあげるナホム書も、実は最後を意識しています。アッシ リアの最後、神につく者の回復についてであります。ある聖書学者は、ナホム書を 「偉大な最後についての一つの書」 と述べています。
最後という意識のもとで、最後における確かなものは何かについ
て考えるものであります。今回は箇条書き的に3つ申し上げ、メッセージとしたいと
思います。それは、
「悪い者は、完全に滅びる」
「神に信頼する者は、永遠に保たれる」
「終わりは、終わりであって、終わりでな
い」
であります。
はじめに
まず、序論的にナホムという人物の人となりとナホム書の特徴を 簡単に見ます。
1)エルコシュとはどこか
この街はアッシリアにあったもので、ニネベの北にあるアル・ク シュという村があり、そこにナホムの墓があります。しかも、ナホムがニネベのこと についてよく知っていることもあわせ考えるとそこではないか、「ガラリヤ地方にあ るエルケセではないか」「いや、カペナウムではないか」「いや、ユダの地方にある エルケシではないか」など様々な説があります。最後の説が有力であるといわれてい ますが、それを確証する具体的なものはありません。
ニネベに実際足を踏み入れたことがあって預言活動をしたもか、 あるいはそうでないかということに少なからずメッセージの迫力に違いをもたらすの ではないかと考えられるのであります。
2)執筆年代
執筆年代は、ニネベの陥落(紀元前612年)よりノ・アモンの滅亡 (=ナホム書3章8節・紀元前661年)の間−その中間頃、ニネベの陥落10-20年前ある いは20-30年前と考えられます。
3)名前の意味
名前の意味は「慰めに満ち た」「同情する」という意味である反面、「敵に復讐して思いを晴らす」との意味もあると言われます。 この両面は彼のメッセージに関わっている と理解できるのであります。
ではきょうの本論は一体どういうことを意味しているか、3つ申 し上げたいと思います。
A.悪いものは完全に滅びる
まず一つ目は 、悪いものは完全 に滅びるのであります。
悪の権化のアッシリア、その象徴たるべき首都ニネベは完全に滅 ぼされました。神は、悪を決してそのままにしておかれません。悪を裁かれ、完全に それを滅ぼ去られるのであります。ここで1章2節と3節をお読みします。
ナホム1:1 主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。 主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。
ナホム1:2a 主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せ ずにおくことはしないお方。
これは、信仰者でない人にとって−信仰者の中にもあるでしょう が−、首を傾げたくなるような思いを持つでしょう。神は愛のある寛容な方であるは ずなのに、ねたみ−しかも「復讐するな」とご自身が言っておられるにもかかわらず 復讐する神とはどういうことか。いうまでもなく、この言葉を表面だけで理解したく ないのであります。「ねたみ」「怒り」「復讐」の正しい聖書的理解を必要とし、神 の「正義」「公義」「義」ということと深い関わりがあるのであります。
ナホムは厳しくニネベの罪を指摘します。神の厳しい審判を宣告 します。そして、それを不当に罪を犯す者に対する神のご性質から理由付けられま す。
ナホムは、ニネベの罪を2つの比喩を用いて描きます。 一つは2 章11節から13節にある獅子の比喩、もう一つは3章4節の遊女の比喩であります。 前 者によって暴虐無慈悲な侵略の罪を、後者によって虚偽、巧妙な術策、たぶらかし、 偶像礼拝の罪を表しています。
ナホムの約100年前にもヨナの活躍によってニネベは悔い改め、神 の裁きを免れました。しかし、元の生き方に戻ってしまいました。特にナホムが彼ら の罪として指摘するのは、単に神を知らない、無視しているというのものでなく、 彼らが積極的に−攻撃的に−神に対して逆らい、 真っ向から立ち向かおうとしているということであります。。
ナホム1:8 主に逆らう者
ナホム1:9a 主に対して何をたくらむのか。
ナホム1:11 主に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者 が出たからだ。
とあるように、自分たちや自分たちの偶像神と同列、あるいはそ れ以下として扱う不敬の宗教的な罪がここにあります。これらのような罪に対する神 の審判は徹底したものであります。
あたかも絵巻物のようにニネベのか安楽の様子や逃げ惑う人々の 様子が具体的に描き出されています。2章を見ますと、 。
ナホム2:3 その勇士の盾は赤く、兵士は緋色の服をまとい、戦 車は整えられて鉄の火のようだ。
脱線しますが、私は大学時代に法律と歴史を専攻していました。 この箇所を読みますと、武田信玄を思い浮かべます (笑)。まさしく赤備えでして、鉄砲で徳川の軍勢に敗れて残党を引き連れたのが彦 根の井伊家であります。関ケ原の戦いや大坂夏の陣 のときも赤備えで戦っていまして、小学生のときに読んだものです。 きょう取り上 げているナホム書で、2章を読むたびに武田と井伊 の軍勢を思い出すのであります(笑)。
脱線はこのくらいにして、ニネベの町は水攻めにあっているかの ごとく水浸しになっている様子が、1章から3章にかけて伺えます。ニネベはティグリ ス川やその支流の川がそばを流れ、以前よりしばしば洪水によって城壁や建物に被害 を蒙ったようであります。そして、征服軍が攻撃してきたとき、その侵入を防ぐため に水門を開きましたが、かえって増水を招き城壁の一部を押し流してしまい、敵の侵 入路を作ってしまったともいわれています。いや、攻撃軍が川を氾濫させて水攻めに したという人もいますが、ともかく町の様相は2章にあるように「破壊、滅亡、荒 廃」であります。
馬(馬車)の走る響きやいななき、また兵士たちの縦横無尽に剣を 振りまわす音、それによって夥しく倒されていく人々の叫びと流血などなど、凄惨な 戦いと大音響の騒がしさに中にあって、
ナホム3:7「ニネベは滅びた。」
のであります。ニネベやアッシリ アは徹底的に滅ぼされたということであります。
これは、征服軍による激しい攻撃には違いありませんが、その背 後に、
ナホム2:10,3:5 見よ。わたしはあなたに立ち向かう。
と宣言される神の強い意思を感じ取ることができます。罪を犯し、犯し続ける者=不当な者に対する徹底的な審判・刑
罰が記されているのがナホム書であります。
B.神に信頼する者は永遠に保たれる
神につく者に対して「憐れみ深い」方でもあられます。ナホム書1
章7節、ごいっしょにお読みしましょう。
ナホム1:7 主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主
に身を避ける者たちを主は知っておられる。
ナホム書は、この言葉がある故に慰められるので
あります。きょうの中心聖句ですから、武田や井伊はよろしいので、子供礼拝のよう
に(笑)覚えてしまいましょう。では前半のところを、聖書を見ないで言ってみま
しょう。
ナホム1:7 主はいつくしみ深く、苦難の日のと
りでである。主に身を避ける者たちを主は知って
おられる。
今度は、全部聖書を見ないで言ってみましょう。
ナホム1:7 主はいつくしみ深く、苦難の日のと
りでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。
(注:このメッセージをごらんの皆さんは、表示さ
れないところをマウスでなぞってみてください。聖句をご覧になることができます
(編者))
子ども礼拝のときは、ホワイトボードに聖句を書
いてまず前半を、その後全部消して暗唱しまして、そのあと「金句」といいます、は
い。(会衆=「金句」(笑))
神は常に、そのご性質の故に罪に対する厳しさと
ともに、悔い改め、主に信頼する者にたいして「いつくしみ深い」ものであることを
徹底的に示すのであります。
ことに、ナホムが預言しているその時代は、アッ
シリアが滅びるなんて考えられないほどに勢力が強いとき。そのアッシリアの圧力で
苦しめられ、まさに苦難の日々を歩む民であります。信じられない状況の中で、信頼
しようとするのであります。
なぜ神はニネベを滅ぼされたか。神は罪を憎み、
それをさばかれるからであります。加えて、神に属するご自身の民をあわれみ、苦し
みから救うためにニネベを滅ぼされるのであります。苦難の日々を歩んでいた神の民
にとってなんという慰め、励ましでありましょう。窮する者の祈りに神が答えてくださるのであります。 詩篇34編1節のような神でもあられます。
C.終わりは、終わりであって、終わりでない
この地上の最後はある意味では最後だが、
次のステップの始まりでもあるということであります。
最後に悪は滅ぼされ、善は残され、永遠に導かれる。これは確か
なことであります。
途中、なぜ正しい者が苦しみ、悪の方が栄えるのかと見える時
も、実はそうでないことが最後でわかります。ここで詩篇37篇18節から20節を交読し
ましょう。
詩篇37:18 主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは
永遠に残る。
詩篇37:19 彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのとき
にも満ち足りよう。
詩篇37:20 しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のよう
だ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。
詩篇73篇17節にも、
詩篇73:17 私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟っ
た。
とあります。ナホム書に戻りますが、1章15節は回復の預言をされ
ます。旧約聖書はいつも回復の預言であります。最後は最後で終わらない、そして次
の新しいステップへ、そしてついには永遠にとつながっていくのであります。
しめくくり 今回のメッセージであります。主に身を避ける者=信頼する者となり続けよう
!ということであります。
ナホム書1章7節に戻ります。
ナホム1:7 主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主
に身を避ける者たちを主は知っておられる。
申し上げたいことは、信仰はすなわち回れ右−悔い改め−であり、他に目を向けていたものを方向
転換する、目を下げていたものを目を上げる ということであります。
ニネベはもとに戻ってしまいました。私達は可能
性をなくすことはできるのであります。
また、主に対する信頼、主のみわざに対する信
頼、どんな環境に左右されない信頼をし、継続していく、次のステップの始まりとな
る、ということであります。
「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでであ
る」 Message by Rev.Shoichiro Ikawa, pastor of IGM Tokyo Central Church ; Compiled by K.Otsuka