礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年8月17日

マルコの福音書連講(22)

「良き地に落ちた種」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書4章1-20節

中心聖句

20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。

マルコ4章20節)


始めに

 前回は、主の譬え話の中でも有名な種まきの譬えについて学びました。大雑把に復習しましょう。

1.種を蒔く者:主ご自身(および主に召された伝道者)
2.種:いのち、力、魅力にあふれた神の言葉
3.四つの土壌:人間の心
4.四つの結果:私達の永遠の運命

5.道ばたの心:1)不注意、2)固定観念、3)忘れっぽさ、その結果は、み言葉を聞いてはいても、「彼らが信じて救われることのないように」サタンはそのみ言葉を彼の心から取り去ってしまう

 今日は残りの三つの心について学びます。


A.岩地の心(16、17節)

16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、

17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

 ここで言う岩地とは、小石がごろごろしているような場所ではなく、文字通り岩そのものです。その岩の窪地に落ちた種は、窪地の水分で直ぐに芽生えるが、翌日の太陽でたちまち枯れるという絵を皆さんの頭の中に描いて下さい。

1.良い点:聞く、喜んで受け入れる

1)「みことばを聞く」と記されていますように、先ずみ言葉を聞くという姿勢が評価されます。何だそんなものはとか、体だけが教会にいて心ここにあらずとは、ずいぶん大きな違いです。

2)しかも喜んでうけいれる姿勢が素晴らしいですね。よく教会の集会で、心が洗われました、等と感想をおっしゃる方があります。感謝な事です。でも、洗われてからすぐに、世の汚れに戻ってしまおうと言う姿勢が見えかくれしています。これでは元の木阿弥です。この人は理解しようとし、しかも共鳴迄するのです。

3)そして喜んで受け入れます。今日の言葉で言えば、イエス様を救い主として受け入れる決心をし、洗礼迄受ける程に熱心になります。

2.弱点:掘りさげが不足或いは欠如

 さて、このタイプの人に問題はないかと言いますと大いにあるのです。「根を張らないで」と書かれている事にそれが暗示されています。根が張らないとは、根が張れるような環境を整えないということです。いくつかの側面からお話します。

1)悔い改めない心

  み言葉はそれ自体で心を砕く力を持っています。ヘブル4:12には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」と書かれているように、み言葉を読んでいると心が探られます。痛い所が衝かれて来ます。心がチクチクします。意志地の心とは、その「聖霊の認罪」を感じつつも、色々な理由で押し殺してしまう人の事です。自分が罪人であると言う事を認めませんから、罪を贖うために十字架で死なれたキリストの救いの必要も認めません。

2)利己的な心

 人間はもともと大変利己主義的です。信仰を持つ場合でも、かなり多くの場合利己的な動機でそうします。自分が天国にいきたい、自分だけ家族から取り残されてしまっては大変とか言った動機も、悪くはありませんが、これだけですと長続きがしません。或いは信じる事にやってこの世の利益を得たいという動機で洗礼を受ける人もあります。

 私はこうした動機を否定はしません。神は人間に起きる病気、家庭問題、職場の人間関係の悩み等を通して、神に頼る事を教え、信仰に導きなさるのです。

 でも信仰生活のどこかで、その利己主義的な考え方が転換して、神が世界の中心、人生の中心であって、私達はその神様の栄光のために存在し、そのために生きるのだと言うコペルニクス的な転換が必要です。それがなくて、信じる事が迫害や犠牲、十字架を伴いうるという予測、覚悟が全くないまま信仰を持ち、それを続けますと、信仰の故の試練や迫害が起きると、「もう、やめた」と言ってしまうのです。

3.結果:枯れる=霊的な命が失われる

  「ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(17節)

 信じる事が齎す幸いという一面だけが捉えられますと、「みことばのために困難や迫害」に耐え得ないのです。これはむしろ当然ですね。それは発芽したばかりのもやしのように直ぐに太陽熱で枯れるのと同じです。

 「み言葉の為の困難や迫害」とは何でしょう。み言葉を生きる事に伴う困難と迫害が含まれます。この世は曲がったものですから、真直ぐに歩こうと思うだけで大変な抵抗を感じてしまいます。嘘が当たり前の社会で正直に生きるだけもしんどい事です。

 セックスが当たり前と言う中学、高校の環境で、貞潔を貫くと化石と言われる覚悟をしなければなりません。お盆が終ったばかりですが、偶像礼拝に加担しないという姿勢だけで親族からつまはじきにされかねません。ビジネスでお酒を飲まないと言うだけで、出世やビジネスに影響が出てしまいます。

 この位は未だ良い方で、クリスチャンであるという一事で投獄され、殺される時代は、昔の事ではありません。もし、60年前の日本のような迫害が今私達を襲ったら何人の人々が残る事でしょうか。かくいう私に、大丈夫と言う自信はありません。でも、主の憐れみとみちからによって「死に至る迄忠実でありたいものです。」(黙示録2:10)


B.茨地の心(18、19節)

18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いてはいるが、

19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。

 茨地とは、耕されてはいるが、茨や雑草がそのままに放置されている場所、除草がなされないままの土地のことです。

1.長所

 それを心に当てはめますと、信仰は持ち、しかも心も探り、真実な悔い改めも行うという点では、畑と同じです。石地の心よりは一歩前進です。

2.弱点

  この人の最大の問題点は、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐ」のです。救われた事は確かで、クリスチャンを喜んで送り、簡単に放棄しない忍耐力も持ってはいるのですが、処理されるべきものが処理されていない点が問題なのです。処理されるべきものとしてあげられているのは、

1)世の心遣い

 世の心遣いです。私達はこの世に生きており、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、どこに住むかなどの実生活の問題と離れて信仰生活を送る事は出来ません。今日の礼拝が終ると早速、あの支払いが残っている、あの親戚の子の問題を片付けねば、今週の糧をどうやりくりしようか、正に世の心遣いが迫って来ます。

 世の心遣いは一切悪なのでしょうか。そんなことに全くかかずらわないで仙人か修道僧のように生きて行く事がクリスチャンの理想なのでしょうか。聖書はそこまで言っていません。ここでいう世の心遣いとは、文字通りには心を二分する(「メリムネオー」というギリシャ語)からきた、思い煩いのことです。日常生活の苦労はしてもよい、しなければならないのです。

 でも日常生活の苦労が、神への信頼を害う程迄に私達の心を占領してはならないのです。神が存在しないかのように自分で全部自分の生活や仕事を取り仕切る事が罪なのです。思い煩いとは心が分かれている事、神を愛する心と世を愛する心、神を信じる心と、そうはいってもやっぱり自分だよと自分を信じる気持ちが同居している様を表わします。

2)富の惑わし

 第二の刺は、富の惑わしです。富そのものがいけない、富を求める事もいけないとは語っていません。富を獲得しようとする過程で、富を得てからの生活で、その富の齎す快楽や罪の生活への誘惑のことです。こんな事は関係ないと思っている人がいないでしょうか。でもこの傾向は大なり小なり人間が癒し難く持っている性質です。

3)色々な欲望=自己中心主義が残ったまま

 第三の刺は、色々な欲望です。人間には自然に持って生まれた欲望があります。固体を維持しょうと言う固体維持の本能、食欲等はこれに含まれます。種族を維持しようとする本能から性欲があります。社会的な動物としての権力欲、名誉欲があります。これらはみな大切な欲望です。神の創造の賜物です。私はこれを否定して人間が生きられるとは思いません。

 けれども、これらは神が私達を創造された「神の栄光を表わす」という本来の目的に沿って行使される時に主に喜ばれ、人々にも喜ばれます。それを離れて、利己主義を基本として用いられる時に、全てが歪んでしまいます。クリスチャンでさえもその「悪しき意味での欲望」が入り込み、私達の心と関心を占領してしまいますと、み言葉が塞がれます。

 今三つの分野での刺についてお話しましたが、共通しているのは利己主義、自己中心主義です。この刺を残したままの信仰生活は苦しいだけで、戦いの連続になってしまいます。

3.結果:御言葉が塞がれ無結実

 「塞ぐ」とは、一緒になって圧力をかける事、結果として、息が出来ないようにしてしまう事です。「御言葉が塞がれる」とは、世の事柄が一緒に彼の心にはびこり、一体となって彼の霊的成長を妨げる事です。如何に飲み、如何に食べ、如何に着飾り、如何に遊ぶかに心が囚われてしまう状態を指します。このように人間が持っている生来的な愚かさが霊的なものを一時的なものに、また、天的な嗣業を地上的な所有物にすり替えてしまうのです。

 悪しき情熱や不純な欲望と言うとげや茨が取り除かれない限り、天国の種は心の中で豊かな実を結ぶ事ができません。クリスチャンは成長し実を結ぶ事が期待されています。品性の実、魂を救うと言う救霊の実がそれです。でも信仰の成長が妨げられますと、信仰生活は長くても、救霊や品性の実を一向に結ばないという結果に終ります。本当に悲しい事ですね。


C.良き地の心(20節)

20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。

 良き地とは、深く耕され、水と肥料が充分に与えられ、除草が正しくなされた状態の畑です。

1.良い点:正しくよい心で受け入れ、忍耐と堅実さをもって保つ

 喜んで受け入れ、忍耐を持ってまた、良き心を持ってそれを保つ心を指します。ルカの福音書はもう少し詳しくそれを補足しています、「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8:15)真直ぐな心で御言葉を聞き、それを理解し、真実な心で実行するのです。

 忍耐と書いてある所が面白いですね。忍耐とは、持久力、持ちこたえるこころです。時間をじっとかけることです。焦って早く結実を期待しないことです。詩篇1:3でも「時に至って実を結び」とあるでしょう。今日種を蒔いて、明日結実を期待する農夫はおりません。目に見える結実が直ぐに出なくても、同じ動作を繰り返す忍耐を持ちたいものです。

 今日信じて明日何かの結果を期待すると言うせっかちな気持ちではなく、結果が出てもで出なくても、じっと御言葉を心に暖め、肥料をやり、除草をし、時間をかけてそれを保とうとする姿勢です。

2.結果:豊かな結実(品性と救霊)

 実際に調べた所、1,000から2,000倍くらいの実は結べるそうです。霊的な成長と救霊の実が示唆されています。特に救霊の面では、各人の差がありうる事をこの30、60、100という数字は示唆しています。それは能力や賜物も関係しているでしょう。


D.まとめ

1.4つの土壌

 この4つの土壌はクリスチャンの4つの成長段階を表わすとも思えます。

1)道端:教会に通うだけの人々(チャーチゴーアーズ)。主を救い主と受け入れない無関心な人々です。--->良く聞いて下さい。

2)岩地:表面的なクリスチャン。洗礼を受けて一応クリスチャンにはなったものの、罪の問題と直面せず、深く自己反省をする事なく(利己的な動機で)クリスチャンになったために、迫害、試練に耐えないで脱落してしまう人々--->深くものを考えましょう。

3)茨地:二心のクリスチャン。真実な悔い改めでクリスチャンにはなったが、世に対する愛着が残っていて(或いはもう一度入り込んで)信仰の成長が妨げられ、信仰生活は長くても、救霊や品性の実を一向に結ばない人々--->自己中心の罪にはっきりと訣別しましょう。罪に対して(キリストと共なる)死を、信仰によって宣言し、その信仰に生きましょう。

4)良き地:清められたクリスチャン。柔らかい心、忍耐の心を持ってみ言葉を暖め、育て、実を実らせる人々--->でも安心しないで成長の要素を保ち続けましょう。

2.土壌は変わるか?神の力によって「YES」

 心というものは、生まれつき悪しきものなのでしょうか。確かにそうです。でも、神はそれを変え得る事がおできになります。私達に期待されているのは、神がそのみ言葉をとおして私達の心に働きかけなさる時、どうぞと言って条件付けずに働いて頂く柔らかさです。

 自分で自分の心を変える事が出来ないという事で私達が裁かれる事はありません。ただ、聖霊がその方向に働こうとしておられるのに協力せず、逆に抵抗勢力を意図的に温存し、助長する点においては裁きを受けます。

 今日の私の心はどの辺でしょうか。
心を探って頂き、主の前に喜ばれる魂でありたいものです。

 お祈りを致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.8.17