礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・ 日本聖書刊行会)によります。

2003年8月24日 マルコの福音書連講(23)

「人手によらず」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書 4章21-34節

中心聖句

4:28  地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入 ります。

(マルコの福音書4章28節)


はじめに

今日は、前回に続いて、主イエスがなさった種まきの譬えのマル コ版です。

A.間奏曲:いかに聞くか(21-25節)

イエス様は、譬え話と譬え話との間に、間奏曲のような形で、聞 くものへの注意を述べて おられます(21-25節)。

1.福音は分かち与えるため

4章21節からお読みします。

マルコ4:21 また言われた。「あかりを持って来るのは枡の下 や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

マルコ4:22 隠れているのは、必ず現われるためであり、おお い隠されているのは、明らかにされるためです。

マルコ4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

ここで「あかり」と言われているのは、主の語られた言葉の真 理、福音のことです。ランプの光が目立たない場所にそっと置いておくべきものでは なく、皆に分かるように、しっかりと高い所に置かなければならないように、私達も 主の素晴らしいお話を他の人々に知らせる務めがあるのです。主イエス様は、「聞い ていますか?」と聞く者への注意を払っていらっしゃいます。「眠っていませんか! ?」とここで実験してみましたが(笑い)、そのようなことも仰られたのです。

22節は、「(主イエス様が)世に来られるまで隠されていた真 理が今や明らかにされた、だから、あなた方もそれを隠す必要はない」との積極的 メッセージです。私達が、主のメッセージを聞いて、ああすばらしいお話だったとい う感想を持っただけで、誰にも知らせないで心の中だけに留めておく事は、宝の持ち 腐れなのです。

現代社会において、私達の見るもの、聞くもの、話す話題、それ らはほとんど福音の真理とはかけ離れた事柄ばかりです。

実際、天気やスポーツの話以外、「イエス様は素晴らしい」とい う話をするのは難しいと 思います。職場で「イエス・キリストは素晴らしいお方で…」と話すと異星人のよう な扱いを受けかねません。

ですが、そうだからこそ、彼等は「異星人」の証と光と希望につ いて聞く必要があり、潜在的な渇きがあると見なければならないように思います。 ですから、機会を見つけて主イエス様の素晴らしさを伝えるチャンスを持ちたいと思 います。

ある少女と酒飲みのおじさんの話があります。 そのおじさんは 列車の中でウイスキーを ちびちび飲んでいました。

そのおじさんが少女に「あなたもいかがですか?」と勧めますが少 女は断ります。このようなやりとりを何回も繰り返したのち、おじさんが「迷惑だっ たでしょう」と尋ねました。

少女は「いいえ、とても親切なお方だと思います(笑い)」と答 え、それがきっかけでそのおじさんは信仰に導かれたのであります。

2.分ち与える幸い(24、25節)

マルコ4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注 意しなさい。あなたがたは、 人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えら れ、さらにその上に増し加えられ ます。

マルコ4:25 持っている人は、さらに与えられ、持たない人 は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

ここでは、より積極的に分ち与えるものの幸いを述べています。

1)「人に量ってあげるその量り」とは、施しとか親切といった 行為一般を指すとい うよりも、前の文節の思想を続けて「福音の真理を分ち与える行為」という特定的な ものと考えるのが自然でしょう。

私達が証し的な行為で周りの人々に益を与えれば与える程、豊か な祝福が自分に戻ってくるという事実を物語っています。

これは伝道によって人が救われるという、ある異端の人々を是認 する法則ではなくて、経験的な事実なのです。主の救いを人々に伝え、それを受け取 る人がいてくれるというだけで私達はどんなに励まされ、力付けられることでしょう か。

久芳エドナ先生は多くの大学生に福音を伝えた宣教師でした。証 詞集から、多くの兄姉から「分け与えの幸い」を感じました。

2)25節はこの真理を逆なりに説明して警告を与えます。私達 が主の救いを分ち与 えるという行為によって豊かな恵みを経験すると、より一層そ のサイクルは増加して行きます。でも、自分一人だけで辛うじて信仰を保っています と、その僅かの信仰すら奪われてしまう可能性がある、と主は語られます。

昔、横山隆一さんが作者の『フクちゃん』という漫画のなかで、 となりのチヨちゃんの話を思いだします。

チヨちゃんは金つばをもらったのですが、「誰にもあげない!」と 一人占めして歩いているうちに、視線をそらして金つばを落としてしまいます。その とき、他の人は「誰もくれと言わなかった のに(笑い)」といいました(笑い)。私たちも一人占めせず多くの人々に福音を伝えた いものであります。

B.種まきのたとえ(26-29節)

さて、この間奏曲を終えて、主イエス様は再び種まきの話をなさ います。

この種まきと成長の喩え話はマルコの福音書にしか記されていま せん。いかにもマルコが選びそうな物語です。実際的で、簡潔で、しかも真理を衝い ていて大好きです。この物語の大切なポイントをみてみたいと思います。

マルコ4:26 また言われた。『神の国は、人が地に種を蒔くよ うなもので

マルコ4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、 種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

マルコ4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに 苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。

マルコ4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。 収 穫の時が来たからです。」

1.まず、この譬えは「神の国」の進展と成長を物 語っています。

1)「神の国は・・・ようなもの」

26節の冒頭に、「神の国は・・・ようなもので」という言い回 しがあります。

これは主イエス様が譬え話の多くでなされる定型的な切り出しで す。主イエス様はその教えの中心である「神の国」を私達がするように論理的に定義 付けたり、解説したりはなさらず, 「・・・のようなものです」という譬え話を幾つ もなさいました。

先日の「すっと青山(世界青年宣教大会)」で井上賢二郎先生の メッセージを聞きましたが、「どうして吉本興業に入らなかったのだろう?(笑い)」 と思うほど抱腹絶倒しました。メモをとっている人がいますと、指さして「メモをと らないで絵を描いてください!」と言っていました。

主イエス様も、そのように私達の頭に絵を描かせ、より印象的に 理解させなさるのです。賢い説教者だと思います。

2)神の国の定義

そうは言いましても、私達は21世紀の人間ですから、定義をし ないとストンと心に落ち着きません。そこで聖書辞典的な定義を申し上げますと、 「神の国」とは、神が抵抗勢力−サタンのことですが−に遭う 事なく完全な支配をなさる領域、と定義出来るでしょう。

それは、3つの側面を持ちます。

第一は私達の心に始まる内面的なものであ り、

第二はそれが社会的な広がりを示す家庭、 教会、地域社会といったものです。

第三は、それがサタンの追放によってより 永続的な、確かな、より栄光に満ちた形で実現する将来のものでありま す。

3)種まき物語の強調点

この種まき物語は、神の国が個人の内側で成長する事を第一義的 に強調しています。もちろん社会的な成長も第二義的に意図されてはいますが、その 面はむしろ次の「からしだね」の物語で鮮明に説明されているといえましょう。

2.二つ目に、神の国の成長はゆっくり、しかし確 実になされる−スロー・アンド・ステディー−のであります。

1) 時間をかけての成長

「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに」とは、時間の 経過を表わします。

人間の側でやきもきしても始まらない、植物の成長とは本当に ゆっくりしたものです。もちろん、せっかちな人間のために二十日大根とい った野 菜があることはありますが、それとても文字通りの20日間ではなく、倍はかかりま す。 神様は、じっくりと時間をかけて私達を作りなさるお方 であります。

私達はいかに自分に対してその成長の遅さに焦ってしまうことで しょうか。いつも同じような失敗 をして、信仰を持っているのに何故と落ち込んで しまうことはないでしょうか。

また、他人に対して不寛容な厳しい裁きの眼をもって批判してし まうことでしょうか。

自分に対して、また、他人に対しては特に、クリスチャンは時間 をかけて成長していくものなのだ、という神様の「忍耐時計」を当てはめたいもので あります。

2) 順序を追って確実に

神の国の成長は、順序を追ってなされていきます。「初めに苗、 次に穂、次に穂の中に実が」、この表現が好きです。逆のはずがありません。いきな り、実が実るはずがありません。

はじめに苗は、クリスチャン生活の初歩の時期で大切な信仰の 要素が確立される基礎的な時期でしょう。

コリント人への手紙第一3章6節と7節をいかがでしょう、ご一緒に お読みしましょう。

コリントT3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しか し、成長させたのは神です。

コリントT3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を そそぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

パウロは「成長させたのは神である。人でなく神に従いなさい」 と、先ほどお読みしたコリント人への手紙第一で言いたかったのではないでしょう か。

「すっと青山」で、ある先生が講壇にたったときに「いよ−!」と いう声があがりました。どうやら"追っかけ"が声をかけたのだと思いますが、私達は 「追っかけイエス様」でありたいものです。

次に穂−つまり結実の準備ですが、必ずしもその量において、質 において十分とは言えません。クリスチャンらしさは身について来たけれども、まだ どことなくぎこちない、未熟さが感じられるこんな時期です。

そして穂の中に実が−つまり量においても質においても、食用に 耐える豊かさが示唆されています。クリスチャン生活で言えば、キリストらしい品性 が滲み出てくるような人格、その影響と感化によって、この人も救われた、あの人も 主に導かれたいう伝道の実がこの中に含まれましょう。時間はかかるかも知れません が、私達はこの路線に沿って歩むものでありたいのです。

仮に、時間はかかっているがどうも実が実らない、この路線では ないように思うという自覚が与えられるならば、それは恩寵の手段−聖霊の語りかけ であります。その時点で、どこをどう軌道修正すべきか、その語りかけに応じて、軌 道を修正したいものです。そうしませんと、飛行機の例でいえばとんでもない方に飛 んでいき、山か何かにぶつかってしまいます。

3.そして、神の国の成長の秘訣は神ご自身である ということであります。

神様は、じっくりと時間をかけて私達を作りなさるお方であ ります。

1) アウトマテー

マルコに戻りますが、この28節− 「地は人 手によらず実をならせるもので」−という言葉がこの譬え話の鍵である ように私は思います。この言葉のもとは 「アウトマテー」 です。「おっと待て」ではありませんが(笑い)似たような意味です。 文字通りには「自分から」といった意味で、それ が他の助けも得ないで、とかそれ自体の持つ力で、というニュアンスで用いられるよ うになりました。

現代はオートマティック時代と言えます。オートマの自動車、 オートマの洗濯機、はてはオートマの床屋さんまで登場します。機械が何でもやって くれる時代です。自動機械の時代−人力に頼らずという時代です。

2) 神の主権と全能

この譬え話では、種がオートマティックで成長するといっている のではありません。新改訳が「人手によらず」と訳しているのは正解でしょう。

人間の努力、労力、真面目さ、それらが必要ないとは言いません が、それらを圧倒して働き給う神の偉大な御手、お働き、神の主権的な活動を指して いるのは当然です。

コリント人への手紙第一の講解で3章から「神が私達個人と教会 の、成長の最大の要因であり給う。」とお話したのを覚えておられるでしょうか。

もちろん、私達が神のお働きのための良い条件造りをする責任も 与えられています。私達は農家として土地を耕し、種を蒔き、水をやり、肥料をや り、除草をし、成長の条件を整えます。これは人間の仕事です。

でも、これらは成長の小さな助けをしているに過ぎません。本当 の成長は神が日を照らし、雨を降らせ、植物の命をつかさどるメカニズムを動かすこ とによってのみ可能なのです。

先日の報道で、オーストラリアの植物学者が、植物の根の成長メ カニズムをカメラで捉えたと言う発表がありました。

確かに一歩前進でしょうが、「それによって何故植物が成長する のか」という大問題の答えが見つかった訳ではないでしょう。答えは 成長させなさるのは神なのです、という聖書の宣言です。

主イエス様はパウロのような神学的な表現をなさいませんでした が、ここで言わんとしておられるのは、パウロ的表現で置き換えるならば「恵みによ る救い、恵みによる成長、恵みによる完成」です。

私達のクリスチャンとしての命は、徹頭徹尾「恵みによる」ので す。とかくこの原点が忘れられて、努力や頑張りや克己が強調されて、ただでさえ真 面目な人が多いクリスチャンがより真面目になっ てくたびれてしまうと言う悲劇を招きかねません。もっとリラックスして、恵みに委 ねましょう。

3)人間の努力の位置と意味

今も申し上げましたように、植物の成長にとって、特に農作物の 成長にとって人間の努力は必須です。

クリスチャンの成長にとって、神の恵みが主要な要因と申しまし たが、では人間は怠惰で、いい加減でいいのかというとそうではありません。 恵みによる勤勉、恵みによる克己というものがあります。恩寵の手段と言う言い方も あります。私達が責任ある人格として果たすべき分が確かにあります。それはきちん としなければなりません。でもそれを誇ってもなりませんし、それが直接成長や結実 の主要因と勘違いしてもなりません。あくまでも恵みです。

4.神の国は、豊かさをそのゴールに持っている

1) キリストらしい品性と業

先週も申し上げましたように、クリスチャンの成長の大切な一面 はキリストらしい品性の増大です。もちろん完全な意味で私達がイエス様と同等の品 性を持つなどとは考えられませんが、少しでも主に近づくこと、それによって主と同 じような業が可能となるのです。

ヨハネの福音書14章12節には、

ヨハネ14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。 わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわ ざを行ないます。

とあるからです。また、テモテへの手紙第二には、

テモテU 2:21 だれでも自分自身をきよめて、これらのこと を離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたも の、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

と記されている通りです。

C.芥子だねの譬え

これは、神の国の量的な拡大を物語る譬えですが、これは次回に 譲る事と致します。

おわりに

今回は28節の「人手によらず」ということばに思いめぐらすと きであります。

1.焦らない

まず、神様に育ててもらうようにお願いしていこう ということであります。

社会や教会の組織などで行き届かないところがあっても、 育てて下さるという信仰を持つべきであり ます。もちろん、工夫や努力を否定しませんが、主は教会を作り、愛して下さるとい う信仰は幸いだと思います。

仕事においても、家庭生活においても、主イエス様 の品性にあてはめさせて頂きたいのであります。

2. 委ねる

主の働きを信じたいものであります。どこかで焦っていませんで しょうか。そうでしたらその部分は捨てて、「神様が 働けば大丈夫だ」という絶対的信仰をもちたいのであります。

3. 継続

そして、日ごとに主の前に出るとい う手段を続けることであります。

4.柔らかい心で

更に、柔らかい心を持たせて頂きた いのであります。もし反発があったとしたらそれを素直に受けとめ、悪 口も自分の糧にして、「成長させてください」 とさせていただきたいのであります。

玉川聖学院初代院長を勤めた谷口茂寿先生の伝記の中に、谷口先 生が学校と教会を両方兼ねたことで批判を受け、院長職を辞するべきだという意見が 上がりました。

そのとき先生は、「私の悪いところ を聞きましょう」と言いまして、実際に悪いところを聞き、お詫びしま した。職員の人たちの心を動かし、一致に至ったそうであります。

悪いところを言った人も言った人でありますが、それを聞いた先 生も聞いた先生だと思います。

お祈りいたします。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Tokyo Central Church ; Compiled by K.Otsuka/Aug-30-2003