礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年9月21日 新会堂での礼拝にあたって

「主は・・・大いなる事を!」

竿代 照夫牧師

詩篇126篇1-6節

中心聖句

126:3  主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。

(詩篇126章3節)


はじめに

1.新会堂の落成、移転の完了を心から主に感謝したいと思いま す。

2.私達の溢れる感謝を物語っているのは、詩篇126篇のよう に思い、メッセージのために選ばせて頂きました。

A.大いなる感謝(1−3節)

1.捕囚からの釈放ヘの感謝

詩篇126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは 夢を見ている者のようであった。

1)恐らくこれは、紀元前538年に布告されたバビロン捕囚か らの釈放による第一回の帰国のグループが、その感謝、感激を歌ったものと思われま す。ある人は作者としてハガイ、ゼルバベルに帰していますが、確定的ではありませ ん。586年にエルサレムが破壊され、根こそぎ外国に連れて行かれたイスラエルの 民にとって、半世紀ぶりの帰国という喜びは、ドイツの統一や北方領土の帰還に勝る 大きな喜びであった事が想像されます。

2)それは正に主のみわざでありました。人間的には到底想像も つかない、大きな歴史の転換が起きたからなのです。その転換とは、永遠的と思われ る栄華を誇っていたバビロンが、新興のペルシャ、メデア連合軍によって一夜のうち に滅ぼされたからです。

「バビロンを守っていた運河の水が連合軍によって他の水路に転 換され、空堀となった運河から、連合軍が易々と町に攻め入って、バビロンを倒して しまった」と歴史家は語ります。

3)しかも、その連合軍の指導者が、神を畏れる王クロスであっ たことも摂理でした。

彼は、特別にユダヤ人だけをひいきにした訳ではないのですが、 今までバビロンが取っていた宗教弾圧政策を改め、各宗教に対する寛容政策を取った のです。彼は弾圧ではなく、人々の信頼と協力によって新しい帝国を建て上げようと しました。その一環として、イスラエル民族を解放し、その復興の為に物心両面の援 助を約束し、実行したのです。私達が歴史を振り返って見ますと、神は生きて働いて おられる事を実感致します。エズラ記 1章1−4節を抜き読みします。

エズラ1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、・・・主はペルシヤ の王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言っ た。

エズラ1:2b 『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わっ た。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだね られた。

エズラ1:3  あなたがた、すべて主の民に属する者はだれで も、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上 り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神 である。

エズラ1:4残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこ に寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮 のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せ よ。』」

4)この歴史的な出来事は人々の想像を遙かに超えてなされたも のですから、彼らはそれを本当と信じることが出来ませんでした。正に彼らは「夢を 見ている者のようであった」のです。

5)これは余りにも鮮やかに、神のいますこと、神の憐れみ、神 の力の実証でありましたから、イスラエル人のみならず、周りの人々にも大評判と なったのです。

詩篇126:2 そのとき、国々の間で、人々は言った。『主は彼 らのために大いなることをなされた。』

のです。

1.捕囚からの釈放ヘの感謝

1) この会堂で守る最初の礼拝で私の心に溢れて参ります感慨 は、

詩篇126:3 主は私たちのために大いなることを なされ、私たちは喜んだ。

であります。

旧会堂からの移転を意識し始めたのは10年も前であったことで しょう。様々な検討と祈りと論議、OCC(お茶の水クリスチャンセンター)での集会 を含めた一連の動きへの導き、教会員諸氏および協力して下さった主にある兄姉、諸 教会の暖かいご協力、ほか不思議ないきさつ、建築中で事故もトラブルもなく守られ た大きな恵み、それらの数々を思い返しますと、本当にこれは人の業ではない、主の み業としか考えられない奇跡の連続でありました。

2) こう言うと、現代人は、あらゆる事を美化し過ぎる、あるい は神秘化し過ぎると笑います。でも、これらの一つずつを辿って、掛け値なしに、私 は「主は私たちのために大いなることをなされた。」としか言い様がありません。人 間が計画し、シナリオを書いたとしても、こんなにすべてが相働く訳がありません。 私は人間の働き、貢献、犠牲、努力、特に陰にあって労された方々のそれを本当に、 また充分に感謝し、評価します。

でもそれは、前に立って進み、導いて下さった主の大いなるお働 きに比べれば、万分の一以下でありましょう。ですから、私達はきょう、この場所に 立ち、柱の一つ一つを数え、ベンチの一つ一つを数え、神の業を賛美しましょう。 人間が栄光を取ってはなりません。ひたすら主 を賛美するものでありたいと思います。

B.祈り(4−6節)

1.より完全な釈放ヘの祈り(4節)

詩篇126:4a 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ 人を帰らせてください。

1) 帰って来た人々は、喜びに溢れ、歌に溢れ、賛美に溢れてい ました。けれどもそれらは捕囚民の総数から見ると少数派でした。エズラ記2章64節 から65節によれば約5万人であったと記されています。

エズラ2:64 全集団の合計は四万二千三百六十名であった。

エズラ2:65 このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七 名いた。また彼らには男女の歌うたいが二百名いた。

イスラエルの全人口は、ダビデ時代には400万人くらいと思わ れます。ですから、捕囚の民の1%前後ではなかったかと思われます。他の人は?と 言いますと、捕囚の初期の苦しさを忘れるような経済的な繁栄を外国で得始め、釈放 命令が下っても、おいそれと生活や商売をすてて、殆どのものが忘れてしまった故国 に帰る勇気はなかったものと思われます。

2)このような状況にありましたので、何としても、みんなが 帰って来て祖国の再建に協力して欲しいという願いが、「私たちの捕われ人を帰らせ てください。」という祈りとなったのです。

3)しかも、ネゲブの流れのように、というのは、パレスチナ南 部の枯れ川ですが、 雨期になると突然水量が増えて、人間が渡る事の出来ないような大河の流れのように という意味です。怒濤のような帰還と回復を与えて下さいと、現実の厳しさを見つめ ながら祈っているのです。この祈りは応えられ、エズラ、ネヘミヤらの帰還となって 続くのです。

4)この約束は種まきと収穫の譬えで補強されます。世界各地に 散っていったイスラエルは種に譬えられます。それが、厳しい試練を経て、豊かさを 伴って故国に帰ってくる姿を作者は脳裏に描いているのです。別な注釈者は、この譬 えを文字通りの経験から出たものと考えます。つまり、帰還の民が、その少ない食糧 の中から、敢えて食べる分を削って、将来の収穫を見越してその多くの部分を種まき に使うと、大きな収穫が期待できるという自分達の現実的な経験が一方にあります。 そこから、民族と国家の再建に苦労は尽きないけれども、その苦労はやがて報われる という確信をもっている、という解釈です。どちらにせよ、涙の種まきは報われると 言う貴重な真理を歌っています。

2.多くの魂の釈放のため

1) 私達も、この会堂が与えられたのは、ここに いるはよし、といって昼寝をしたり交わりをエンジョイするためだけではありませ ん。

多くの罪の中に沈んでいる同胞、乱れに乱れ切った社会の歪みに 喘いでいる人々、家庭崩壊の中で苦しんでいる夫婦や子供達、リストラにあって生き る当てもなく自分の命を断とうと考えている中高年の人々、淋しさの中に話し相手を 求めている高齢者の方々に向かって、私達の方から心 を開き、門を開き、笑顔を開いて、求道者を迎えたいものです。

2) そのためには真実な種まきが必要です。幸い、オープニング イベントが計画されました。これらを通じて、詩篇の作者のように涙の種まきをさせ ていただきましょう。私達もなかなか実らない日本の伝道の現実を見つめつつ、涙の 種まきを行っています。

私達の教会の側を流れる目黒川の桜は大変有名ですがこれにはエ ピソードがあります。

戦後何も食べるものがない時代に、ある青年が、子供のため、孫 のために桜を植えようと運動を起こし、そのボランティアに加わる少年に、僅かの芋 とかの食糧を与えて励ましたというのです。その結果、私達は毎年見事な桜を楽しん でいるのです。

3) この引っ越しの作業の忙しさの中に、それだけに没頭してし まう事なく、伝道の業に心を注ぎたいものです。その時はじめて、

 詩篇126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り 取ろう。

 詩篇126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束 をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

のです。この時の喜びは、一人の悔い改めを喜ぶ天の御使い達の 喜びに与る内発的、永続的なものです。

会堂が新しくなって素晴らしくなった事を素直に喜びたいと思い ます。でもその喜びは、会堂が古くなると次第に失せて行く喜びでしょう。会堂が与 えられた感激は、日と共に薄れていくかも知れません。

しかし、魂を主に導く喜びは、「喜びの叫び」となって顕れる、 質的に深い喜びです。会堂の新しさは喜びを与えますが、醒めた言い方をすれば、そ れは一時的です。

でも魂が主に導かれることは永遠の喜び、神と 共に喜ぶ喜びです。私達は、こんな喜びに加わらせて頂こうではありませんか。

おわりに

1.大いなる事を成して下さった主を心いっぱい誉 め讃えましょう。主に感謝し、主を讃美しましょう。

2.私達の残された大きな仕事である福音の伝達 を、地道に、そして弛みなく続けましょう。その時初めて私達は今日経験している以 上のもっと大きい喜びを経験することでしょう。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/SEP-21-2003