礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年10月12日 マルコの福音書連講(25)

「正気に返った「レギオン」」

竿代 照夫牧師

マルコの福音書5章1−20節

中心聖句

5:15  そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿 していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。

(マルコの福音書 5章15節)


A.はじめに−背景

1.嵐の克服(4章)

前回は嵐に見舞われた主イエス様とその弟子達、神に任せて平安 を保った主イエス様、それに比べて周章狼狽しイエス様のケアさえも疑うような弟子 達、ご自分の権威をもって嵐を鎮めなさった主イエス様の力と権威を学びました。嵐 が去ってほっとしたのも束の間、別な形での嵐が対岸で待っていたのです。

2.ゲラサ地方

嵐の後で一行が到着した場所は、ゲラサ地方、または、ガダラ人 の地でした。この場所が正確にどこであったのか、なぜ言い方が福音書によって異な るのかなどについては諸説があって、結論は良く分からないという方が正確でしょう か。ともかくガリラヤ西海岸よりも荒涼とした雰囲気であったことは確かです。

B.レギオンを持つ男

1.悪霊に憑かれた男の登場(2節)

マルコ5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊 につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。

舟が東海岸に着くや否や、騒がしい男が登場します。

前回の時も説明しましたように、イエスとその一行は大変忙しい 一日を対岸で過ごし、休むために、静かな東海岸にやってきたのでした。ですから、 こんな男の登場は迷惑至極のはずですが、主イエス様は全く迷惑気な素振りも見せ ず、彼に対応しておられます。素晴らしいことです。

2.男の生活と習癖(3ー5節)

マルコ5:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、 鎖をもってしても彼をつないでおくことができなかった。

マルコ5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引 きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかった のである。

マルコ5:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、 石で自分のからだを傷つけていた。

1)その住処:この地方にあった墓場が彼の住処でした。通常の 人間が最も忌み嫌うような場所、人気のない場所、何の楽しみも変化も潤いもない場 所です。パレスチナ地方の墓は、いわゆる崖の洞穴を利用したものでしたから、雨風 を凌ぐには最適と言えなくはないのですが、ここに住み着くこと自体が彼の心の異常 さを表しています。

2)その行動:自分を傷つけ、他の福音書を見ると他人をも傷つ ける乱暴さがその特色でした。

マタイ8:28b 彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れない ほどであった。

序でながら、マタイは複数と述べています。マルコはその内のよ り顕著に凶暴な男を代表させて単数で述べています。

3)その制御不能の力:なんとか力という表現がありますが、彼 の力は抜群で、近所の人が鎖や足かせをもって彼を押さえつけようとしても、たちま ちそれを砕いてしまう、正にサムソンの再来の様な力の持ち主でした。誰も彼を押え ることができない状態だったのです。

「押さえる」とは「従わせる」とか「(動物を)手なずける」と 言う言葉です。自分でも、他人でも手なずけられない、ひどい状態であったことを表 しています。

4)私達は、このような話を聞くと、何か現実離れした、昔々の 物語のように考えてしまいますが、本当にそうでしょうか。私達の時代のあり方をこ んなに克明に描いている記事はまたとないと言えそうです。

多くの人々は、自分で自分を傷つけています。悪い と分かっていても止められない酒の飲みすぎやたばこ、一旦はまるとはい上がれない 麻薬、性病が広く感染する可能性を知りながら止められないセックスなど、私達はこ の男に勝っていると言えるでしょうか。いや、否です。

私達は自分だけでなく、他人を傷つけます。少年の 犯罪の記事がメディアを賑わしています。他人の痛みが分からなくなってきている時 代です。ナイフや棍棒でなくても、言葉でもって周りの人を傷つける恐ろしい時代で す。

3.「悪霊に憑かれる」とは

1)2節の表現を見ますと、彼は「汚れた霊に憑かれていた」 (文字通りには「所有されていた」)のです。完全に彼の支配下にあったというので す。

2)汚れた霊−他の福音書では悪霊−とは何のことでしょうか。 わかりやすい言葉で言えば、悪の親玉であるサタンの 手下です。サタンは元々神に仕える天使の頭でしたが、仕える者という 身分に飽きたらず、神に挑戦して、多くの天使を引き連れて反逆を起こしました。そ れ以来、神に逆らうものの間に暗躍する勢力になった訳です。

現代人はこうした、霊的な世界のことをあまり信ぜず、即物的な ものだけが現実と考えていますが、聖書は、こうした 霊的な世界、霊的な宇宙的な人格的存在をはっきり認め、警戒を与えています。

3)エペソ人への手紙2章1−2節には、

エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた 者であって、

エペソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流 れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に 従って、歩んでいました。

と記されています。つまり、神を認 めないすべての人間は、彼の支配下にあって生きているのです。その意 味では、私達とこのゲラサの男とは五十歩百歩であります。

4)あえて、「憑かれた」という表現によって通常の人間と区別 しているのは、通常の罪人がサタンの支配下にありつつも、聖霊の直接間接の影響 (先行的恩寵−せんこうてきおんちょう−)によって、善への願望と意欲を与えられ ているのに比べて、この男はその考え方のすべてを完 全に悪霊に委ねてしまった、という違いです。

恐らく、はじめからそうではなかったでしょう。だからこそ、マ ルコは5章15節で、

マルコ5:15 悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿し ていた人が、着物を着て、正気に返ってすわっている

と、元の姿に戻ったと記しているのです。

5)まとめますと、私達はこの男が「憑かれた」というような全 面的な悪霊の支配にあるか、通常に見えるけれども大きな支配下にあるかの違いは あっても、悪の霊の影響を大きく受けている事は確か です。ここに私達の社会の、家庭の、個人の、根本的な問題があるので す。

C.イエスの対決

1.イエス来臨の目的

ヨハネの手紙第一 3章8節を見ましょう。

1ヨハネ3:8 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔 は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこ わすためです。

主イエス様が地上に来られたことに関する、何と明 白な、明快な声明でありましょうか。私達は罪の中を歩むならば悪魔の支配下にあ る、キリストはその悪魔の業を破壊して、私達を罪から釈放するというのです。

そのイエス様の大いなる釈放のミニエーチャーがこのレギオンの 釈放でした。

2.男の接近と悪霊の叫び

マルコ5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイ エスを拝し、

マルコ5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエス さま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。ど うか私を苦しめないでください。」

マルコ5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出 て行け。」と言われたからである。

男は「遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し・・・た」 のです。この中に幾つかの大切な事実が隠されています。

1)キリストの対決宣言:この男と主が出会うより遙か以前に、 主イエス様はこの男の存在を知り、その窮状を察知して、距離的には遠くにいたにも 拘わらず悪霊に追放を宣言されたのです。キリストの 悪霊に対する強い力と権威をこの中に見ます。この男に対する深い憐れみと顧みを見ます。

悪霊は「私を苦しめないで」と懇願しましたが、彼がどんなにこ の男を苦しめたかを全く無視した虫の良い発言です。

ケニアにいた頃のことですが、私も悪霊に憑かれた男を一人、女 性を一人対決しました。こういう場所で曖昧な態度は禁物です。勝つか負けるか、二 つに一つです。勝つにはただ一つ、キリストの聖名を 本当に信じ、その権威によって悪霊と対決するしかありません。私達の力ではなく、 キリストの力によってそれは可能です。

2)悪霊のキリスト理解:彼はイエス様を見つけ、「いと高き神 の子」と認めています。礼拝までしています。主イエス様と同時代のパリサイ人、 否、弟子達でさえも持ち得なかった崇高なキリスト理解です。このポイントを忘れて はなりません。

彼らは霊の世界に生きるものとして、主イエス様の神たる性質を よーく知っていました。恐れてもいました。その点では、悪霊の方が無神論者や自由 主義進学者よりも、もっと勝れた信仰を持っていました。イエスと共にいた弟子達で さえも、まだこのような見方で主イエスを見てはいませんでした。

それにひきかえ、悪霊達は、世の人々よりも遙かに高い尊敬をキ リストに表していました。そこまでは良いのですが、残念ながら悪霊は、真の意味で の服従を表しませんでした。そこが最大の問題点であったのです。私とあなたとどん な関係がありますか、とは、私を煩わせないで欲しいという悪霊の身勝手な願いを表 すものです。

私達は、キリストに対する崇高で聖書的な理解を持っているかも 知れませんが、従う気持ちがなければその信仰は虚し いものです。

3)悪霊と男との一体関係:私を苦しめないで、という発言は、 男の口から出たものです。

では、この男の持っていた本来の個性、この男の本来の人格を示 しているかというとそうではなく、悪霊の側に立った悪霊の願いであり都合でした。 その後の彼の発言を見ても、この両者が相混じったり、渾然一体となったりしていま す。

もしこれを男の気持ちを表した言葉としますと、そこに悩める人 格の叫びと取ることもできましょう。

4)レギオンについて

マルコ5:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになる と、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。

マルコ5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないで くださいと懇願した。

主は悪霊に対しては厳しく対決されましたが、この男に対しては 同情とやさしさをもって尋ねられました。彼の答えは、私は「レギオン」という悲し いものでした。

レギオンというのはローマの軍隊制度における一軍団のことで、 約6000人の編成でした。レギオンは10個の歩兵中隊、一個の歩兵中隊は6個の 小隊に分かれており、その小隊の頭がしばしば聖 書に出てくる百人隊長です。

さて、多くの悪霊がこの可哀相な男に取り付いていましたから、 彼の名は「レギオン」であったのです。もちろん、もともとの名前ではなく、悪霊に 占拠されたがゆえの、人々が勝手に付けた名前です。

5)悪霊の嘆願:彼らはこの男からは出ていくことには不承不承 同意したものの遠く には行かさないでくれと条件をつけたのです。往生際が悪いと いうか、図々しいというか、不思議な話です。

この地域が誠の神を恐れる人々によってではなく、異教の勢力の 強いところでしたから、居心地が良かったのでしょうが、これにあまりコメントを付 けることは止めておきます。ただ、この悪霊の中には、それに憑かれた男に対する同 情の一遍のかけらさえないということは確かです。

D.イエスの勝利

1.豚の存在と代替

マルコ5:11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあっ た。

マルコ5:12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中 に送って、彼らに乗り移らせてください。」

マルコ5:13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出 て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降 り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

いずれにせよ、彼らは、その地方で飼われていた2千匹ほどの豚 の群に入らせてくれと懇願しました。6千もの悪霊がいたとして、それが2千の豚に 入ったら、一匹当たり3個の悪霊かな、などと割り算で考えない方が良いでしょう。 悪霊付きの豚がどんな心理状態になるかなどと想像もしない方が良いでしょう。

ここでの要点は、主イエスは一人の 魂の価値を、2千匹の豚よりも重く見られたと言うことです。

日本で一匹の豚の値段というものは相当なものです。それが2千 匹ですから、これは莫大なる損失です。それを敢えて許しながら、一人の魂の大切さ をイエスは実物教訓で示されました。私一人が救われ るために、どれだけ多くの人々の犠牲が払われていたことでしょうか。それらを決し て過小評価してはなりません。

2.正気に戻った男 マルコ5:15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギ オンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしく なった。

今日は豚飼いの者たちの反応とか、村人の行動とか、レギオンの 生涯とかいろいろ触れたいこともありますが、これらは皆次に譲り、ただ一つ、レギ オンの変貌について述べて終わりに致します。

彼は「着物を着て、正気に返ってす わって」いたのです。裸になって自分の肉体を傷つけていた男が、きち んと着物を着るようになった、これは象徴的にノーマルな生活態度と見ることが出来 るでしょう。

正気に返ってとの表現は、このレギオン男が最初からおかしかっ たのではなく、人生のどこかで悪霊を歓迎したために彼のすべてが狂ってしまったこ とを示唆しています。それが元の姿に戻った、戻ったどころか、敬虔で熱心なクリス チャンに変えられたのです。

凶暴でだれも抑えられない、自分でも自分を抑えられない男が、 羊のようにおとなしく主イエスの前にちょこなんと 座っているのです。これを奇跡と呼ばないで何と呼んだらよいのでしょ うか。

終わりに

翻って、私達の生涯にもこのような鮮やかな変化が 主によってなされているでしょうか。勿論、その程度や表れにおいては、この男の ケースほど顕著でないかも知れません。

でも、キリストを離れた正しくない心の状態から、 キリストと共にある正気の状態に戻ったでしょうか。主は大いなる力をもって同じ業 を成し遂げなさいます。お祈りいたします。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/October 12,2003