プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


引用聖句は新改訳聖書・改訂第ニ版(旧新約聖書 =著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年10月12日

「素直になれたら・・・」

山口 謙 ユース・ディレクター

新約聖書 マタイの福音書 5章4,6節

該当聖句

Mt5:4,6  マタイ5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められる からです。

6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足 りるからです。

(マタイの福音書 5章4,6節)


先週に引き続き今週もイェス・キリストの山上の説教と呼ばれる ところからお話をしたいと思います。

この説教は3章にまたがり、一般的にも有名な『あなたの右の頬 を打つようなものには左の頬も向けなさい』というフレーズもそのなかに入っていま す。今日お話しするのは先週にと同じ、その山上の説教の最初の部分です。

イェスがこの説教をした時というのは彼が宣教をはじめて間もな くのことでした。ですから、みんなそのうわさを聞いて一度その人の話すことを聞い てみたいと思っていたと思います。おそらく、みんな「おい、あのイェスが来るらし いぜ。どうする?一緒にチェックしにいかねぇか?」というような感じだったと思い ます。それでそのイェスがいよいよ、話すことになりました。みんなかたずをのんで 見守っています。大きなコンサートが始まる前の東京ドームのような熱気だったと思 います。

皆さんはなにかの大きなコンサートって行ったことありますか?  僕は恥ずかしながら、東京ドームにマイケル・ジャクソンのコンサートを見に行っ たことがあります。

面白いもので、マイケルみたいな格好をしている人がいっぱいい ました。おそらく、このイェスがしゃべろうとしていたときもイェスと似たような髪 形をして、似たような服を着た追っかけもいたんじゃないかと僕は思います。とにか く会場は大いに盛り上がり、今か今かと始まるのをまっているわけです。

そのマイケルのコンサートの時もそうだったのですが、開始予定時間が近づ くとどんどん盛り上がってきて、突然ビートの聴いた音楽が始まるわけです。そし て、マイケルがどこから出てくるのかとみんながわくわくして見守っていると、なん と彼はステージの床から飛び出してきました。もうそうしたら大変です。みんな 「ワー!キャー!」と叫んで何を彼が歌っているか聞こえない状態になりました。

イェスがこの山上の説教をしたときもそこまではいかないにして も、こいつはいったい何を話すんだろうという期待と不安が入り混じった興奮状態 だったと思います。そしてその第一声が「幸せだ」です。聞いている人はみんなざわ めいたと思います。「一体こいつは何言ってんだ?」というのが彼らの正直な感想 だったでしょう。なぜならイェスが言ったこの8つの幸せ・祝福は彼らの思っていた こと、つまり固定観念と正反対だったからです。

それでは、今日お話しする2節を読みたいと思います。

"悲しむものは幸いです。その人は慰められる からです。・・・ 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからで す。" マタイ5:4,6

これはイェスの説教を直接聞いた人々にとっては彼らの持ってい る価値観とはまったく逆のことを言っていました。同様に私たちの持っている価値観 ともまったく逆だと思います。

悲しむものは幸い、つまり幸せだとか祝福されているといってい ますが、普通に考えるとまったく逆じゃないでしょうか?  

私たちの周りにいろんな悲しいことがありますが、できればそん なことは自分には起こってほしくないと皆さん思いませんか? 逆に楽しいことやう れしいこと、喜びがあったほうが幸せでないでしょうか? 実際私たちはそういった ものを求めています。

この中目黒は非常におしゃれな町です。ちょっと行けば代官山が あり、この教会の近くにもいろんなお店やカフェやレストランがたくさんあります。 そこに毎日人々は訪れ、おしゃれな服を買い、ものを買い、おいしいものを食べてい ます。それはみんな自分を楽しませるためでしょう。

自分が何かおしゃれな服を着て髪形が決まって、その姿がショー ウィンドーに映ってると、やっぱりいい気分になりますよね。またある人は仕事がう まくいくと自分を楽しませることができるでしょう。また別の人はスポーツや音楽か もしれません。そして私たちはそういった楽しいことをすることで自分を喜ばす、楽 しませることができると思っています。だから、何か嫌なことがあったり、ストレス がたまったりすると「あー飲みに行くか!」とか「気晴らしに買い物でも行くか?」 と言って出かけることが覆いと思います。

私たちはそうやって「悲しみ」に「楽しみ」でフタをしているの ではないでしょうか。つまり、本当の自分の気持ちにウソをついているのではないか と思います。もし私たちが自分に正直になって悲しんでいたら、弱いとみなされてし まうのがこの現実社会ではないでしょうか? 強くなくてはこの世の中では生きてい けません。だから、私たちは弱さを隠します。悲しみを喜びで隠します。

また、イェスは「義に飢え渇いている人も幸せだ」と言いまし た。同じように考えてみると、「義に飢え渇いている人」つまり「正義を求めている 人」は幸せだと言っています。

私たちはたとえば北朝鮮の拉致被害者のことなどのニュースを聞 くと怒りを覚えます。それは国際社会の正義が踏みにじられているからでしょう。ま た、イラク戦争のときは一体何が正義かという議論が盛んでした。アメリカは世界の 正義ということでフセイン政権を崩壊させましたが、戦争後のイラクの状況を考える と果たしてそれが正義だったのかと私たちは問います。

しかし、私たち自身も日常生活のなかで似たようなことを経験し ていると思います。たとえば私たちが歩道を歩いているとき、そこに放置自転車があ れば、「まったく困ったもんだ。一体何を考えているんだ」と大げさかもしれません が、正義をかざします。しかし、そこのスーパーに買い物に行くときはちょっと歩け ば駐輪場があるにもかかわらず、「少しならいいか」と歩行者のときの正義を簡単に ゆがめてしまいます。また、人に悪口を言われれば、「絶対に許せない」と正義の怒 りを覚えますが、日常的に人の噂話と悪口を楽しんでいます。

つまり、「正義を求めること」の逆を考えてみるとおそらく「正 義なんて報われない」とか「世渡り上手」とでもなるのでしょう。私たちは本心では 正義を求めつつも、自分の都合でそれをやめてしまいます。会社ではおそらく自分の 会社の利益を守るためにはウソをついてもかまわないことになっているでしょう。

僕自身、スキー会社で働いているときに、生産もしていないサイ ズのスキーを注文されて、それを断るのに苦労した覚えがあります。上司は平気でウ ソをつくように強いましたが、とてもこころが苦しかったのが覚えています。正直者 は馬鹿を見るというのが現実社会です。でも、私たちの心はそのたびに傷ついていま す。しかし、その傷を覆い隠すようにウソをつかなくてはいけません。そうでなけれ ば生きていけないのかもしれません。

だからこそイェスは「悲しむもの」、そして「正義を求めるも の」は幸せだといったのです。この現実社会の、この世の価値観や生き残り方ではな く、本来の自分の気持ち、自分自身に素直な人は幸せだ、祝福されているといったの です。イェスは決して「正義である人」を求めはしませんでした。彼は私たちが自分 の力で「正義」をつかむことができないことを知っていたからです。ただ、正しいこ とができない、自分の素直さを隠さないと生きていけない弱い自分と向き合うことを 求めました。

みなさんは自分と向き合っているでしょうか? 自分の弱さから 目をそらさずに見つめているでしょうか? 自分と向き合うということは神と向き合 うということと言っていいでしょう。本当の素直な自分を求めることは神を求めるこ ととい言ってよいでしょう。なぜなら、聖書の言っている創造主なる神は人を造り、 人の心を知っているからです。そしてその神は絶対的な、変わることのない正義その ものであると書かれています。

では、自分と向き合う、自分と素直になるとはどうしたらいいの でしょう。

先日、僕の友達がこんな話をしてくれました。彼は昨年の夏に救 われたクリスチャンですが、今はクリスチャンとしての喜びがないといっていまし た。でも、彼は聖書を読み続け、その喜びがいつか与えられると信じて祈っていると いいました。時に彼は「神よ、俺はあんたがいるかどうか分かんない。だけど、い るって信じたいから答えをくれ」と祈り、「この苦しい状況を何とかしてくれ!」と 叫ぶといっていました。食事の感謝も「神よ、あんたに感謝をする必要があるとは思 えない。でも腹がすいたから食べる」と祈るそうです。僕は本当に彼は自分に素直な 男だなぁと思いました。

みなさんはそんな自分に正直な、神に対しても正直な祈りをした ことがありますか? またもし、まだ神を信じていない方がここにいらしたら、今日 から「神よ、あなたは本当にいるのか?」と叫ぶことをはじめませんか? そう叫ぶ ことが「悲しむもの」、「義に飢え渇いている者」となることだと思います。そのよ うにして本当に自分の弱さと向き合い、それを受け止め、神を求めることが本当の 『強さ』になります。

おそらく僕のその友人は求めている喜びをあと少しでつかむで しょう。なぜなら、ここに書いてあるとおり、「その人は慰められるからです」。そ して「その人は満ち足りるからです」。


Message by Bro.Ken Yamaguchi, youth director of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/October 12,2003