礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年10月19日

マルコの福音書連講(27)

「主がどんなに大きなことを・・・」

竿代 照夫 牧師

マルコの福音書5章1〜20節

中心聖句

18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。

19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」 

20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

 (18-20節)

 


はじめに

 前回は悪霊に取り憑かれて絶望的な生活を送っていた「レギオン」という男が、 主イエスの力によって見事に変えられた物語を学びました。この主イエスが今も変わ らない力をもって、悪に捕らわれている私達の心を釈放して下さる救い主であること を感謝しましょう。

 今日はその続きでありまして、この鮮やかな男の変化に対する人々の反応を見 たいと思います。 先週は、「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」(34節)という御言葉を中心に、いやし主である、主イエスについて学びました。

 


A.一般大衆

1.豚飼い達(14節)

14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。

1)驚き

 2千頭もの豚を一気に失った豚飼い達の驚きは想像に余ります。彼らが「逃げ出していった」気持ちも分からぬではありません。でも、もう一歩立ち止まって、直接主イエスの所にやってきて、これはいったい何の事なんですか、私達の損害はどうしてくれるんですかとお願いしたら、事態は異なる方向に進んだと思います。 

 何でもそうですけれど、問題を見つけたら、その火元を確かめ、火元になった人と話し合う、これが大切です。

2)打算

 兎も角、豚飼い達が取った行動は、問題の核心ではない、周辺的な出来事を、しかも自分達の利害という立場から大きく伝えたのです。しかも、問題を解決しようと言う動機ではなく、問題をより大きくすることを願っての行動でした。残念です。

2.村人達(15-16節)

15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。

16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。

17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。

1)付和雷同

 村人達は、その豚飼い達の報道を一方的に信じて、彼らの見方で物を見、付和雷同しました。彼らの中に、マスコミの宣伝に乗って統一的な行動を取りやすい現代の大衆の姿を見るのは私だけではないと思います。

2)一人の魂の価値が見えない

 彼らが見逃した一番大切なポイントは、「悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て」いるのに、恐ろしくなっただけで、一つもその恵、その素晴らしさを評価しなかったのです。何故、一人の魂が救われたことを、天の御使い達と共に喜べないのでしょう。今まで、村人達の苦労と苦痛の元であった「レギオン」がまともになってよかったね、と喜び合えないのでしょうか。本当に悲しくなる大衆の反応です。

3)イエスを拒絶

 彼らの行動を解釈すれば、豚飼い達の宣伝に乗って、主イエスのことを悪霊の仲間と思ってしまったからでしょうか。或いは、豚に起きたことは私達の羊や牛にも起こるかもしれないと心配になったからでしょうか。私達も目先の利益だけで、人生や社会の中で本当に大切なものを見失わないように、自らの為に祈りたい者です。

 


B.「レギオン」と主イエス

18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。

19  しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

1.レギオンの願い(18節)

1)感恩からの献身

 一方、悪霊に憑かれた状態から釈放されたレギオン、正確には元レギオンはどう反応したでしょうか。かれは、「こんな惨めな私を救って下さって有り難うございました。私はあなたに身も心も捧げます。献身してあなたの弟子になります。」と申し出ました。切望した、という表現の方が相応しいと思います。今の言葉で言えば、「聖宣神学院に入学して、牧師になります。」といった願いでしょうか。本当に率直なまた、自然な反応です。

2)村人への不信も?

 ただ、その献身の動機の中に、自分が苦しんでいるときはひたすらに自分を押さえつけた人々、猛獣を押さえるように鎖に繋ぎ、足かせをはめて放っておき、しかも「レギオン」という不名誉なあだ名を付けて自分をからかった人々、正気に戻ったときでさえも喜んでくれるのではなく、ただ自分の利益を考え、損害を恐れてイエスの退去を求める人々、こんな理不尽な人々から逃れたいと言う動機も幾分かは混じっていたことでしょう。

3)イエスの保護の下にいたい

 もっと言いますならば、元レギオンは一人残されることに不安を感じたのではないかと思われます。また、悪霊に襲われはしないか、一人で信仰者として立っていけるか自信がない、それよりむしろ、イエスのそばにいてイエスの保護の下にいたいという単純な願望もあったと思われます。

2.イエスの指示(19節)

1)故郷での証を!

 主イエスのお答えは意想外のものでした。「そうか待っていたよ。私の弟子としてしっかり献身の生涯を全うしなさい。」と彼の申し出をお許しにならないで、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(19節)と言われました。本当に含蓄の深い言葉です。ここから教えられることを幾つかに纏めたいと思います。

@環境から見て自然: 主は私達の置かれた状況を良くご存知で、それに相応しい導きをなさるお方です。この「レギオン」との対比で考えられるのは、マルコ1章34節です。「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」ここで主は、ご自分がキリストであることが余り早く伝わることによって、政治的な解放をもたらすメシアを待ち望んでいたユダヤ人の間に政治的なセンセーションを巻き起こすことを避けなさったのです。それに引きかえ、ガダラ地方ではユダヤ人の比率も少なかったと言われています。デカポリスとは、アレキサンダー大王が開発した町々であり、多くのギリシャ人が移住していました。豚飼いの存在もこうした背景を考えると頷けます。いずれにせよ、メシアフィーバーの心配がここには余りなかったと考えられます。

A性格にも合致: それから、この元レギオンさんの性格も見抜かれたのでしょう。この人は確かに行動的で、弟子グループに入ったならば頭角を現すような可能性はあったかも知れません。でも、そうした積極的な活動よりも、当たり前の生活を送り、当たり前の人間らしく生きることが、この人のためにも、周りの人のためにも有益と主は御覧になったのでしょう。

B証の効果: もう一つ上げれば、この人の半生は余りにも暗く、抜きがたい悪評判に満ちていました。ですからこそ、こんな人間を造り変えなさった神の力を証しするのは、彼の親族、隣人、村々でこそ効果的と主は思われたのでしょう。主は、あなたの家、あなたの家族のところに帰り・・・と語られました。私達の事を良く知らない公共の場で証をするのはそんなに難しくはないかも知れません。でも私達の弱さ、短気なこと、いい加減なこと、意地悪なことをみんな裏も表も知り尽くしている家庭で証を立てるのは容易ではありません。主は、この男に対して、いきなり外に向かって伝道しないで、家に帰れと諭されたのです。主は私達の様子を皆ご存知のお方です。私達も同じでありまして、それぞれが置かれた環境、私達が持っている性格、私達がなすべき効果的な証の場所というのは、みんな異なります。私達の主は私達をステレオタイプで扱いなさることはありません。私達一人一人に相応しい証の環境を備え、道筋を示しなさいます。

2)証しの要点

 その証しの要点は、主の力と憐れみです。「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」私達は証というと、生い立ちから始まるライフストーリーを長々としゃべること、自分がどんな人間であるかを人々に示すことと勘違いをしてしまうことがあります。もちろん、ライフストーリーや自分らしさを欠いた証はとても機械的で聞く人の心を打ちません。ケニアで良く聞いた証は、恐ろしいほど画一的なもので、「私はジョセフと言います。救われています。イエス様は私の個人的救い主です。プレイズ・ザ・ロード!」と20秒も経ちません。これが、他の人にも伝染していきまして、みんな同じ口調で同じ内容の証が繰り返されます。何処から救われ、どんな風に人生が変わったのか、もう少しライフストーリーが欲しいなあと良く思いました。でも、日本の傾向はそれとは逆にライフストーリーが入りすぎるかなと思います。この主の証しに対する指示は素晴らしいものです。

@神の力: 自分ではどうしようもなかった性格、行動、自分では救えなかった徹底的な弱さを認めつつ、それを大きな力をもって変えて下さったその主の力を経験し、証ししましょう。その点で、まだ未熟者ですがとか、謙りすぎる用語は要りません。そんなことは先刻承知なのです。そんな者をも捉えて下さった、変えて下さった神の力を、飾らずに淡々と正直に証ししましょう。また、証し出来るように主を信頼しましょう。

A神の憐れみ: 私達は神に顧みられるような何の価値も取り柄もないものでした。特にレギオンは、鼻つまみ者でした。指揮者の岩城宏之さんが日経新聞に自伝を書いていますが、東京の空襲にあって焼け出され、金沢の伯父さんを頼って疎開した時の物語が心を打ちました。服はずたずた、顔は煤だらけ、着物には虱が貼っており、長い間風呂に入れなかった体から悪臭を放ち、もう難民状態の岩城母子を伯父さんは玄関払いをしてしまったと言うのです。それでもさすがに可哀相に思って、自分の秘書の実家に送って何度か風呂に入れさせ、やっとの思いで面会を許したという記事でした。私はそれを読みながら、私達と神様との関係はこのようなものではなかったかと考えておりました。何の取り柄もないものであったばかりか、罪と汚れに満ち、悪臭さえ放っていたものを、きよい神が諸手を広げて受け入れて下さる、それが神の憐れみです。レギオンよ、あなたはそのことを本当に心から感謝し、それを証ししなさい、と主は諭されたのです。

3.レギオンの証し(20節)

20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

 元レギオンは、議論無しに、素直に主イエスの導きに従いました。

1)証の場所:デカポリス地方全土

 その証の場所は自分の家庭、親族はもとより、デカポリス地方全土に及んだのです。これは後に、福音が宣べ伝えられ、教会が建てられるための種まき的な伝道となったと思われます。

2)証しの内容:「イエスが」なさったこと

 元レギオンは主イエスの言われたとおりの証をしたのですが、言葉遣いがちょっと違います。主イエスは「主が」なして下さったことを伝えなさい、と言われました。この場合の主は父なる神を指しています。でも元レギオンは「イエスが」なさったことを伝えました。彼には、主とイエスは同一だったのです。もっと言いますならば、イエスの弟子達でさえ長い時間かかったイエスの神性を、この男は直感的に捉えていたと言うことになります。

 


終わりに: 私達は証人(イザヤ書43:10)

 私達がこの地上の生涯を送っているのは、実は証の為なのです。イザヤ書43章には

10 あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ。――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

11 わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。

と記されています。私達は神が救い主であることの証人として今生かされています。の身、この口、私達の行動を通して神の救いの力と神の恵を周りの方に証しさせていただきましょう

  お祈り致します。

 


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.10.19