プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年10月26日

「クリスチャンは弱虫か?」

竿代 照夫 牧師

新約聖書 マタイの福音書 5章1−11節

該当聖句

Mt5:6-7 

マタイ5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。そ の人は満ち足りるからです。

7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受 けるからです。

(マタイの福音書 5章6-7節)


きょうはマタイの福音書の中の「山上の説教」からの三回目で す。

1.この主イエス様の山上の教えは驚くことばかりです。私達の 一般的価値観念で言え ば、強いものは幸い、人を押しのけてでも自分を前に出す人 は幸い、ということになるでしょう。喧嘩に負けて、泣いて帰ってくる子供には、 「何で泣いてんのよ、このいくじなし! 三つ叩かれたら五つ殴り返してらっしゃい !」というお母さんが偉いとされる感覚ですね。

2.それに引き替え、主イエスの教えは何と”やわ”なもので しょうか。

「柔和なものは幸いです」とありま す。ただ、この柔和という意味を単なる弱さという風に理解しないで頂きたいので す。いつも優しい顔をして、踏まれても蹴られても微笑をしている観音様のようなあ り方が幸いだというのとはちょっと違います。

3.柔和というのは英語ではmeekです。スワヒリ語ではpoleと言 います。この言葉が記されたギリシャ語ではpraeis(meek, gentle, mild)ということ ばです。柔らかい 光、風、音、病気などで、強くも なく、弱くもなく、中庸を意味します。さらに馬などの動物などがおと なしいと言うときに使います。人間では、怒りを激しくしないおとなしい性質の事を 指します。

4.クリスチャンの用語としては、当たりの柔らかさだけではな く、本質の柔らかさ、造り主である神の前に被造物 なる人間としてのへりくだった自覚を指します。これが対人関係では、 反対とか辱めを、神が私達の心を砕くために用いな さる手段として受け入れる心となります。

トレンチという人は「柔和とは、 神が私達を扱いなさる扱いは 常に善なのだと認めるような心の姿」と定 義しています。それがたとい一番低い状態 に私達自身が追い込まれようとも、動か ない神のみ心への服従精神です。

もう一人の聖書学者は「当然の権 利として主張できるにもかかわらず、神に対しても、人に対しても、自分のためには 弁解しないという、強い、毅然とした態度を示す言葉」と説明します。 心が砕かれた状態を指します。自分が、自分の、自分をと自己主張を突っ張った状態 ではなく、自分というものがどこかで砕かれた状態のことです。

5.今は本当に自己主張の強い時代です。「俺のための人生だ、 俺のやりたいことを俺のやり方で押し通すんだ」というむき出しの自己主張が通って います。そんな夫と妻とがぶつかりますから、家庭は壊れます。そんな親と子ですか ら、互いにキレルのです。男性と女性がそのような自己主張でついたり離れたり、傷 つけ合います。

6.聖書が、そしてイエスが語られるのは正反対の生き方です。 「その自己中心を砕かれなさい。砕かれた柔らかさ をもって人と接しなさい」というものです。今日の質問は、「そんなこ とが出来るだろうか、仮に出来たとしたら、その人は損ばかりする人生の敗北者にな らないだろうか」というものです。第一の質問から始めましょう。

7.そんなことは出来るか?自分では出来ません。どんな修業を しても、我慢をしても、努力をしても、自分を砕くなんて出来ません。

でも神は砕いて下さいます。多くの 場合それは人生の挫折経験からなされます。大きな病気をするとか、事業に失敗する とか、人々の非難の矢面に立たされるとか、そんな辛い経験を通して起きます。英 語ではhumiliating experience−ヒューミレイティ ング・エクスペリエンス=私達をへりくだらせるような経験−と言いま す。

この前お話ししたチャールズ・コルソン(注)もその一人です。 プロゴルファーの中島常幸さんもゴルフクラブが振れないほどの病気を通してそんな 経験をしました。私の知っているアンドリュー・ルサカさんも、ボディビルの先輩が 大病した時の見舞いを通して自分のはかなさを愕然と悟りました。

ある種の挫折経験を通して、自分の弱さ、はかな さ、醜さというものに直面させられたら、それはチャンスです。その時強がらない で、全能なる神の前に自分は土塊に等しいものだという謙りを学びたいものです。

日本に大きな宣教の足跡を残した宣教師にメーベル・フランシス という方がおられます。彼女は日本に来た当初、批評と誤解を受け、宣教師らしい取 り扱いは何一つ受けないで、それでも自我を押さえつけて、これ以上自分を低くする とはどうすることなのかと神に問いかけました。

その時、キリストと共に死ぬ という深い経験を獲得しました。それ以来、彼女は自分の身に起きるこ とは一切神の御許しの下にあるのだという事が理解できました。誰かが彼女に対して 失礼な態度を示すことも、神の御許しとするならば、問題は相手の態度の是非ではな く、自分の心がそれに対してどう反応するかが大切 と分かりました。それ以来彼女は真の意味で神の命を内側に持って生き る人となり、多くの人を主に導きました。

8.心砕かれて、譲ってばかりいたら、損失の連続だろうと多く の人は考えます。そう言うときもあります。でも、 神が私達を祝して下さるという確信があると、案外あっさり譲ることが出来、長い目 で見ると、それは損失ではなく大きな利益となって跳ね返ります。

旧約聖書にイサクという人物が登場します。彼はまさにこういう 道を通りました。外国人として住んでいた土地の人々が井戸を巡って理不尽な主張を 行ったときも、あっさりと自分の権利を譲って他の場所に引っ越しました。でも結果 としてはそれが勝利だったのです。負けるが勝ちという諺も日本にありますが、正に そうなのです。

9.時として、自分の権利主張と言うよりも、社会正義の為に はっきりと自説を主張せねばならぬ事はあります。でも本質的にその主張の時さえ も、柔和な心でそれをすることが出来ます。 相手を徹底的に追いつめるのではなく、 間の故に正す、悔い改めの道を残す、こういった主張の仕方です。

10.柔和なものは幸いです。その人は、「地を受け継ぐ」、つ まり、神の祝福の継承者となるのです。 現世においても、また、来るべき世に於いてもであります。お祈りいたします。

編者注:チャールズ・コルソン:リチャード・ニクソン米大統領(故 人)政権時の大統領補佐官。ウォーターゲート事件関与のため7ヶ月の実刑に服し、服 役中に洗礼を受ける。出所後、犯罪者の更生やキリスト教伝道のための団体『プリズ ン・フェローシップ・インターナショナル(Prison Fellowship International)』を 創設、現在に至る。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/October 26,2003