メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年11月2日(午後) 特別伝道会メッセージ

「安息への招き」

竿代 照夫牧師

マタイの福音書 11章28節

中心聖句

11:28  すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたし があなたがたを休ませてあげます。

(マタイの福音書 11章28節)

アウトライン

1.イエス・キリストは、私達に条件をつけることなく安息に 招き、病・思い煩い・罪という重荷を私達の代わりに背負って下さるお方である。

2.イエス・キリストが安息に招くのは、私達に揺るぐことの ない平安をお与えになるためである。

3.私達が安息を得るためには、イエス・キリストのところに 行き、様々な重荷を下ろし、信じることである。


はじめに

皆さんこんにちは。ようこそいらっしゃいました。この中目黒教 会の主任牧師であります竿代(さおしろ)といいます。

人間誰でもそうですが、人から招かれるのは嬉しいことです。 「家に来てお茶でもどうですか」という軽いお招きがあるかと思えば、先週持たれた 皇居外苑での園遊会のような素敵なお招きもあるでしょう。もっとも、私の所にはそ んな招きはありませんでした。「我と来て遊べや親のない雀」と雀でも招かれれば嬉 しいでしょう。その招きの中でも最も素晴らしい招き、安息への招きが私達にかけら れているのです。

A.招かれた人

1.「すべて」

社会一般の招きは大抵、条件が付いています。音楽会には高い入 場料の払えるもの、園遊会などでは社会的に地位のある人々、などなどです。でもイ エス・キリストという方の招きは「だれでも」 なのです。例外なく、人種、性別、年齢、社会での地位、全 く関係なく、すべての人に向けられています。

2.「疲れた人々」

当時の疲れた人々とは、経済的には貧困、病、宗教的には律法に よる束縛、政治的にはローマ帝国による圧迫など、苦しみ抜いていた時代でした。そ れがイエスの念頭にあった疲れた人であったようです。現代でも、疲れた人は多く見 受けます。生きていく事自体に疲れてしまった人、肉体的に精神的にストレスによっ て疲れてしまった人、子供でも、もう受験や付き合いやその他のスケジュールによっ て疲れてしまっています。

3.「重荷を負っているもの」

私の母教会にYさんという方がいます。この方が神田駿河台を歩い ていたとき、「すべて労する者、重荷を負う者は我に 来たれ」という声を聞きました。「変だなあ、誰が重荷なんか背負って いるんだろう」とまわりを見回したそうです。でもその言葉に引かれて伝道会に行 き、人生の重荷を取り去っていただいてクリスチャンになりました。徳川家康は、 「人の世にあるは重き荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」と言ったそ うです。後段が言いたかったのでしょうが、前段も確かですね。旧約聖書のなかで、 ヨブという人は「人が生きていくのは戦いのようなもの」と言いました。本当にそう です。

1)私達には病という重荷 があります。小さな疾患でも心の重荷となります。まして、難病と言わ れるような病気は大きな重荷です。

2)思い煩いという重荷 もあります。老後はどうなるのだろうか、年金はもらえるのだろうか、 リストラが間近に迫っているがどうしようか、なかなか就職口が見つからないがどう しようか、まあ、本当に深刻な悩みが私達を取り囲んでいます。

3)罪の重荷はその中でも一番大きなものです。すべての重荷の原因であるのが罪です。取ろう取ろ うと思っても、おんぶ鬼のようにしっかりくっついて離れないのも罪の重荷です。

3千年前のイスラエルにダビデという偉大な王様がいました。と ても立派な、神を畏れる指導者でしたが、ふとした弾みに女性問題で過ちを犯してし まいます。その程度ならば、当時の権力者は誰でもやっていることでしたから、ほっ かむりをしても不思議ではなかったのですが、彼の良心が赦しませんでした。彼は、 旧約聖書の『詩篇』のなかでこう言っています。

詩篇32:3私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の 骨々は疲れ果てました。

32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の 骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。

32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませ んでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。すると、あなたは 私の罪のとがめを赦されました。」

B. 招いている人

いろいろなお招きが私達にはありますが、やっぱり誰が招いてい るかによってその重みが違ってきますね。先ほどの園遊会にこだわるわけではありま せんが、社会的地位という角度から言えば、私の生涯で一番重い招待は、ケニアの大 統領からの招待でした。アフリカ福音教会の指導者達数人が大統領を囲んで昼食をし たのですが、ともかく素敵な午後であったことは確かです。でも、ここで招いて下さ る方は、大 統領以上のもっと素敵なお方です。それは「私」と仰 る主イエス・キリストのことです。

1.この方は、自分で私達の荷を負って下さる方、一緒に人生を 歩んで下さる方、ともにある神です。キリストは神であるご自分の栄光を捨てて、ク リスマスの時に人間の姿を取り、私達と同じ労苦を味あわれました。貧乏も、労働 も、人から捨てられるという苦しみも。単に私達を同情して下さるだけではなく、そ の痛みを担い、癒されました。

マタイの福音書8章には、主イエス様が多くの癒しの業をなさっ た記事の締めくくりに、

マタイ8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就 するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負っ た。』

と記されています。長い間出血が止まらずにいた婦人を癒された とき、ご自分の力が自分からでていってしまったのを感じたとも記されています。キ リストの力ある癒しは、自分の骨身を削っての業 だったのです。

2.そして、その生涯の終わりには、私達の身代わりに罪の重荷 をその両肩に背負われた方です。聖書の中に、

ペテロの手紙第一 2:24 自分から十字架の上で、私たちの罪 をその身に負われまし た。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆ えに、あなたがたは、いやされたのです。

とも記されています。キリストの十字架というのは、単なる殉教 の死ではありません。もちろんその様な面もなくはありません。

むしろ、私達の負わなければならな い罪の重荷を肩代わりして下さった自発的な行動 だったのです。キリス ト誕生の600年ほど前、イザヤという預言者がいて、救い主が顕れる、その方こそ 私達の罪のすべてをその身に負い、私達に赦しを与えると約束しました。

イザヤ書53:5 彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通さ れ、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の 打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分 かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

その預言を意識しつつ、主イエス様は十字架の道を選び、その苦 しみと死によって預言されていた救いを完成されました。ですから彼は十字架上で、 「事は終わった、完成した」と叫んで息を 引き取られたのです。

3.それを分かりやすく説明するとこう言うことです。

私の左手を私自身としましょう。この本が私の生涯を記した記録 簿としましょう。そこには私の行ったこと、思ったこと、しゃべったことのすべてが 記録されています。実際、聖書には、私達のすべての行動は記録されており、やがて の日にそれらが読み上げられると記されています。

なんと恐ろしいことでしょう。「やめてくれ!もう沢山だ」と叫 びたくなる第一号は私自身でしょう。

それが十字架の事が終わったという一言でひっくりかえったので す。私達の罪の重荷が彼の手に渡ったのです。お分かりでしょうか。

重荷を負う者、私はあなた方を休ませようというのは、カウンセ ラーの方が、来談者の悩みを聞き、聞き尽くし、来談者はすっきりした気持ちで帰っ ていくという人間同士のやり取りを遙かに越えたいわば本質的な安息なのです。

このイエス・キリストというお方は、十字架から甦り、今も生き て、私達の重荷を背負い給うお方です。その方が「あ なたの代わりに荷物を担うよ、だからいらっしゃい」 と招いて下さって います。そこにこの招きの重さがあり、有効性があり、価値があるのです。

C.招く目的

1.あなた方を休ませる、つまり、平安を与えるとキリストは約 束していて下さいます。心の平安とは、何も不自由しない環境で、安心立命、波風の ない穏やかな人生ということでは必ずしもありません。そうではなくて、戦いや問題 や試練にもみくちゃにされながらも、動かない土台を もって、そこに落ち着き所を持っている人のことです。

2.その平安の中心は、心に偽りのない生涯です。先ほどのダビ デという人の話をしましたが、彼は罪の重荷を取り去られて、

詩篇32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれ た人は。

32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺 きのないその人は。

と叫びました。ダビデは沢山の幸いを経験しましたが、その何物 にも勝って、罪を赦されたことの幸いを語りました。

私もそうでした。クリスチャンの家庭に育ち、教会に通い、他の 子供達とは違って悪いことはしない、といういわば真面目な生活をしていましたが、 兄弟を憎む者は人殺しだという聖書のことばが引っかかりました。そういえば、私は すぐ上の兄を憎み、従姉妹をばかにしていました。成績のよいクラスメートに嫉妬し ていました。それだけでなく、悪口を言いふらしたりして間接のいじめをしていまし た。そんな自分が大きな重荷でした。

ある時、それを一つ一つ神の前だけではなく、兄貴やクラスメー トにも謝り、十字架を信じました。私の心に「いま私は受け入れられた」という平安 が与えられました。

私の大好きな歌は『オー・ハッピー・デイ(O Happy Day)』で す。

O happy day, O happy day, when Jesus washed my sins away.

(オーハッピーデイ、オーハッピーデイ、 ウェン ジーザス ウォッシュド マイ シンス アウェイ−幸いな日よ、なんと幸 いな日よ、イエス・キリストが私の罪を洗い流して下さった)

という歌詞ですが、心から歌えるようになりました。

D.安息の条件

1.主イエス様の下に来ることで す。 目に見えない主イエス様のところにどうやって来たらよいのでしょ う。これは取りも直さず、主イエス様を受け入れることです。イエス・キリストの人柄を信じる、身を任せることです。 医者 に行くときには、医者にすべてを委ねてしまうでしょう。それ以上の信頼をもって彼 に私達の人生のすべてをあずけてしまいましょう。主イエス様はそれをされるに価す る確かなお方です。

2.重荷を下ろすことです。 自分の不安も、心配も、失敗も、恥ずかしがらずにありのまま彼に告白 し、重荷を下ろしてしまいましょう。

おわりに

私の父親の物語を申し上げて終わりたいと思います。

彼は茨城県霞ヶ浦の豪農の三男坊として何不自由ない生い立ちを し、よい就職をし、前途洋々と言う人生を送っていました。それが、結核にかかり、 更に、その父親が霞ヶ浦沿岸干拓事業の完成間近に破産をしてしまうと言うダブルパ ンチに遭います。

自殺して世間の同情を引こうというところまで追いつめられた時 です。その九年前にクリスチャンとなった叔母から聖書を貰います。その時に叔母が こう言いました。

「『すべて労する者、重荷を負う者、われにきた れ、われ汝らを休ません』-キリストには一切の解決がある、一度教会に来なさい よ。」

彼は「騙されたと思って教会に行ってみよう。そこで解決が得ら れなかったら教会で自殺するまでだ。」と決心して、病床を抜け出して上京し、教会 に通い始めました。

九日間通ったけれども、さっぱり説教がわからない、手許のお金 は尽きてくる、絶体絶命です。

ある夜牧師と対座して三時間真剣な質問を試みました。その結果 天地創造の神、清い神の前に自分という者が貧弱かつ醜悪であることを示され、心か らの悔い改めとイエス・キリストを信じるという信仰告白をしたのです。

彼は、「私の心には大きな変化が生 じたのだ。夜の12時、人通りの途絶えた戸塚通りの下宿までの7,8丁の道も、足 取りはきわめて軽かった。翌朝、私は薬を全部捨てて床も上げてしまった。神は暗黒 と絶望の中に苦吟しておった私を見事に救って、平安と希望を与えて下さった。・・ ・」と記しています。形こそ違いますが、同じような平安を経験する方 が一人でも起こされることを祈ります。

今日、どのような形であれ、大きさであれ、重荷を 感じながら人生を歩んでおられる方はありませんか。「私があなたがたを休ませる」 と語られた主イエス様の下にその重荷をどっこいしょと下ろして、安らぎの心をもっ てこの場所を立ち去ろうではありませんか。

お祈りしましょう。私の祈りの前に、一人一人、主イエス様に荷 を降ろして下さい。それから私がお祈りします。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/November 2,2003