プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年11月16日

「平和な人間関係は可能?」

竿代 皓子牧師

新約聖書 マタイの福音書 5章9節

該当聖句

Mt5:9 

マタイ5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は 神の子どもと呼ばれるからです。

(マタイの福音書 5章9節)


1)NHKの番組に「私の小さな旅」というのがあります。最近の放 送で一人の男性の投稿がありました。それは糖尿病(それもかなり重症)にかかって いるから、医者に歩くことをすすめられた人の話です。

会社までの片道4キロを朝早く歩いたとき、今まで気が付かな かった道の花の可憐さや、駐在所のおまわりさんと一言の挨拶をするようになったこ とを言っています。

何年か過ぎて定年でもうその道を歩かなくなったとき、ある日贈 り物が届けられていました。それは駐在所のおまわりさんからのものでした。毎朝の 一言「ごくろうさん」が大きな励ましとなっていたとのことです。全く期待していな かったこの贈り物をこの男性は本当にうれしかったと述懐しています。

もし「糖尿病」がなかったら、この男性はこの様な人生の大切な 人とのかかわりを 持つことはなかったでしょう。人は自分の弱さを通して初めて他人との関わりを平和 に保つことが可能ということを暗示しているように思います。

2)日常の自分たちの生活での人間関係を見るとき、なかなか苦 労しているお互いではないでしょうか。

ある婦人は「十数年前から仕事をしていますが、自分の時間がと れず、忙しい毎日で、職場での人間関係が悪く、心のゆとりがなくなっていまし た。」と述懐します。多かれ少なかれ私たちの人間関係はこの様なものではないで しょうか。

職場だけではなく、平和であるはずの家庭の中でも不和がまかり 通っています。毎日の新聞を見る時その例はたくさん見出すことができます。子を殺 す親、またその逆の例などなどです。どうしてそうなのでしょう。本当にこのような 生き方が人間の定めなのでしょうか。いいえ、そう思わないのは皆同じです。

3)それではどうしてそうなのでしょうか? まず考えられるのは、あの人がいるからうまくいかないという理由付けです。あの人 が私の悪口を言った。あの人が意地悪だから私が苦労している。あの人さえいなけれ ばすべてはうまくいく。あの人、あの人、と他者がいつも悪いということですが、本 当にそうでしょうか。

もしその人あなたのことを同じように考えていたらどうでしょ う。お互いが責め合っているのですから、決してうまくいく筈はありません。この考 え方がいつの場合でも、どこでも、人類の歴史を通して争いの原因となって来まし た。

次に考えられるのは、「私が皆悪いのよ」という考え方です。こ れは当然私たちを心の病に導きます。自分のことを信じられない、何をやっても自身 がない、自分を信じられないのですから、当然他人も信じられないのです。心の死を もたらします。大変不幸なことですが、これが現代の病です。

4)こうして見てくると人間関係の不和の原因はどうも「自分」 にあるようです。いかがでしょう?

というのは、「あの人が悪い」といっている自分は、あの人から 見ると「あの人」になるからです。屁理屈はこの辺にして、やはり問題の解決は「自 分」にあるようです。この自分は自分ではどうすることもできない自分です。という のは、「嫌い」という感情をひとつ取っても、私たちはなかなかコントロール出来な いからです。相愛し、互いに平和に生きることはとても難しいのが現実です。努力で は限界があることを私たちは知っています。では、どうしたら解決できるのでしょ う。

そこで、一番初めにお話した、ある男性の場合に戻ってみましょ う。彼は自分の「死」を自覚させられた「糖尿病」という重い病(弱さ)を経験して 初めて、自分の限界を知ったと思います。そのときに「道端の花」や名もない「おま わりさん」を感謝し、労い、頭を下げて「ご苦労さまです」といったのです。ここに 鍵があります。

十字架は人間の弱さ、病、醜さ、のもっとも無残な形で表された ものです。あそこに人間の醜さが凝縮されているのです。イエス・キリストは十字架 に手足を釘付けにされるという最も残酷な死刑になったのです。何の死刑の理由もな しにです。彼は自分の罪状のゆえに死んだのではありません。聖書を調べれば調べる ほど、イエス・キリストには落ち度がなかったことが分かります。キリストが十字架 にかかったのは、人にその持っている弱さや罪の実情を教えることと、その人間の現 実の醜さを身代わりにその身に受けてくださり、私たちを解放し、赦されたものとし てくださるためだったのです。

人は偉い人からの忠告は聞きません。同じレベルのものとして、 ありのままの自分を受け入れてくれる人に心を開きます。責めたり叱ったりする親に は子供はますます反発しますが、やさしく、理解を示し、そのまま受け入れてくれる 親には素直になるものです。

十字架もそれと同じです。キリストは私たちの弱さそのものに なってくださったのです。私の醜さそのものになってくださったのですから、なにも 取り繕うこともなく、ありのままの姿で、キリストを信じ、受け入れましょう。その とき私たちは「神の子」とされ、キリストの心を頂くのです。キリストの持つ神の大 能の力が私たちに与えられ、さらに神の愛が私達の心に注がれるのです。そのときに 初めて私たちは自分の力ではなく、神の力によって人との関係を平和の中に作り上げ ていくことが出来るのです。

ローマ人への手紙5:5b 神の愛が私たちの心に注がれているか らです。

ヨハネの福音書1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すな わち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

このことを体験している多くの人々がおります。あなたもその仲 間に加わってみませんか?


Message by Rev.Hiroko Saoshiro, pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/November 16,2003