礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年12月7日 待降節第ニ講壇

「光が世に来たのに・・・」

竿代 照夫牧師

ヨハネの福音書1章1−18節

中心聖句

ヨハネ 1:9  9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

(ヨハネの福音書 1章9節)


はじめに

1.どの時代も暗い時代でなかったとは言えないような人類の歴 史ではありますが、その中でも今日の暗さは深刻なものでありましょう。経済の見通 しも、やや光が見えてきたとは言いながら、失業率は改善しませんし、銀行を含む企 業の倒産は続いています。世界情勢も泥沼に近いイラクに象徴される憎しみの連鎖が 続いているように見られます。社会道徳においても、最近頻発している殺人事件の件 数とか質とかが示すように、人間として当たり前の基準が音を立てて崩れ去っていく ような気が致します。

2.そのような時代に、もう一度、キリストの誕生を祝うクリス マスが巡ってきました。彼は、「世を照らすまことの光として来られた」と記されて います。さらに、ヨハネの福音書12章46節には、

ヨハネ 12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信 じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

とも語っておられます。光なるキリスト来臨の意味を、ヨハネの 福音書1章に心を留めて考えたいと思います。

A.光なるキリスト

この分節で、光に関する記事を拾ってみます。

1.命を与える光(4,5節)=創造に関わる光

ヨハネ 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

ヨハネ 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち 勝たなかった。

1)すべての命の源:キリストの中に命があり、その命こそ人の 光(人を照らす光)である、と4節は述べています。全部抽象的な言い方のように感 じますが、彼が言おうとしていることを、少し具体的に言いますとこうなります。

主イエス様は1−3節に記されているように、世界と宇宙の起源 である、つまり生きているものすべては彼によって造られた、生命の源は彼である。 私達の生命も彼に依存している、ということです。

2)人の光:人間の心を社会を暗くする要素は沢山ありますが、 命の源であるキリストがその本来の力を発揮されると、闇はその力を失うということ が5節の意味です。

2.人を照らす光(9節):救いの光

ヨハネ 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来よ うとしていた。

1)神の命を分けもっているはずの人間がどうして闇の中に沈ん でいるのか、それは罪というものが世に入ってきたからです。アダムが神に背き、そ の罪が人類全体に拡がってきたからだと聖書は簡単明瞭に説明しています。それ以 来、人は暗きに生き、暗きを愛するまでになってしまいました。 2)その状態に光を照らす者として、真の光を携え て主イエス様が世に来られました。それがクリスマスです。

3.独り子としての栄光(14ー18節)=人となられた神

ヨハネ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれ た。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた ひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられ た。

ヨハネ 1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言っ た。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからであ る。』と私が言ったのは、この方のことです。」

ヨハネ 1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中 から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

ヨハネ 1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、 恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

ヨハネ 1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふとこ ろにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

1)神が人となる:人を照らす光として来られた具体的な方法 は、当たり前の人間として生まれるというものでした。

全く普通の赤ちゃんとして生まれ、普通の少年として育ち、普通 の大人として生活されました。その生活環境も世間一般のそれと全く変わらない普通 のものでした。ですからヨハネは「私たちの間に住まわれた。」とわざわざ付け加え ています。特別製の人間ではなく、ヨハネやペテロと何にも変わらない人間として生 きられたのです。

それは主が、真の意味で私達弱く 罪深い人間の気持ちを理解し、人間生活に含まれるあらゆる悲しみを出来、最後には その罪の贖いとして己の肉体を犠牲にするために必要なことでした。当 たり前として生まれながら、彼の中には隠しようが ない神の栄光(光)が満ちていた、というのです。

これを書いたのはヨハネという人物です。彼は、普通の人間とし てのイエスを良く知っていただけではなく、その最後の三年間寝起きを共にし、十字 架を目撃した人です。

2)栄光の輝き:その彼が、「私たちはこの方の栄光を見た。」 と証言しているのです。もちろん目に見える光が彼の体から発せられたという神秘的 なものではなく、彼はその栄光を「恵みとまこと」という風に説明しています。

ヨハネは主との三年半の生活を通し、特に変貌の山で主の栄光の 姿を見た経験を通してこの証言をしていると思われます。

完全な人間でありつつ、完全な神たるご性質を保持されたと言う ことは、私達小さな頭では理解できないことですが、それが聖書の語っていることで すから分からないままでも「神の奇跡として」受け入れる以外にありません。

3)恵みにみちていた:恵みと は、愛と置き換えることも出来ましょう。人間イエスの中にあった不思 議な暖かさ、包容力、やさしさの中に神が愛するとはこのようなことか、という恵み を感じ取ったのです。ヨハネはイエスに一番近いところ、懐にそば近く居続けた弟子 です。価値のない者、裏切る者、頼りない者をもとことん愛する愛の塊であった主イ エス様を身近に見たのです。

4)まことにみちていた:更に、ヨハネはその栄光は真に満ちて いたとも書いています。何が正しく何が誤っているかを権威を持って明確に示す明瞭 さが彼にあったのです。hear sayではなくて、「私はこういう」という権威はヨハネ だけではなく、主イエス様の説教を聞いたものが皆感じた感想でした。

5)見えない神が顕わされた!:キリストが人として世に来たの は、見えない神を見える人間の在り方をもって示す ためだったと18節に締め括られています。ものすごい大胆なステート メントです。もっとすごいステートメントは、主イエス様ご自身が、

ヨハネ 12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした 方(父なる神)を見るのです。

と語り、更に、

ヨハネ 14:9b わたしを見た者は、父を見たのです。

と語っておられることです。この声明はは誇大妄想の然らしめる ことなのか、本当に文字通りなのか二つに一つしか答えはありません。目撃証人であ るヨハネは、自分は後者だと言い切っています。

B.世の反応

1.光を拒絶した人々(10、11節)

ヨハネ 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方に よって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

ヨハネ 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分 の民は受け入れなかった。

1)現実のクリスマス:クリスマスというのは、神が人となられ た、不思議で偉大な、すばらしい出来事を祝うものなのですが、それは今になって言 えることであって、当時の人々からは、何万人と生まれてくる赤ちゃんの一人が加 わった以上の何事でもありませんでした。

ですから、最初のクリスマスは本当に普通の日常的な出来事の延 長だったのです。宿屋が一杯で、驢馬小屋しか空いていなかったというキリスト誕生 日の出来事がまさにそれを象徴していましょう。

ベツレヘムの住人にとっては、旅の夫婦が一人の赤ちゃんを生ん だ、正に混み合った宿屋に入る余地はなかった、彼らの生活の片隅にでも入り込むこ との出来なかった、エピソードにしか過ぎませんでした。

2)キリストを拒絶:私達から見ると、こんなに素晴らしい受肉 の主イエス様が、人々から受け入れられなかったということは不思議以外の何物でも ありません。ヨハネは痛む思いをもってこう付け加えています。

ヨハネ 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方に よって造られたのに、(キリストの普遍的な内在)世はこの方を知らなかった。

ヨハネ 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分 の民は受け入れなかった。

3)無関心をもって:10節は無関心な世の人々を表していま す。この方(キリスト)は元々世におられ(世界と隔絶した場所に住んでおられた訳 ではなく、世界と宇宙に内在するお方として存在しておられた)、それだけではな く、世界と宇宙はキリストの被造物であるのに、(その造り主であるお方が、被造物 と同じ姿をもって来られたときには)被造物である人間は彼を正当に認識しなかっ た、とヨハネは言っているのです。一面から言えば不思議、他面から言えば当然とも 言えましょう。造物主が被造物と一体化するということは私達の想像を超えた出来事 だからです。

4)暗きを愛する故に:あからさまな拒絶(1章10−11節) その理由は3章19−20節に記されています。光の前に出ることが恐ろしかったか らです。

ヨハネ 3:19 光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを 愛した。その行ないが悪かったからである。

ヨハネ 3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明 るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

ユダヤ人はイエス様が神から派遣された教師であることは分かり ました。しかしそのような認識をわざと否定しました。彼がメシアであること、救い が彼から来ることを信じませんでした。その原因は、イエスに近づけば近づくほど自 分の醜さが分かってくるからなのです。

弱い光の中では気が付かなかった埃やチリが、明るい光の中で はっきり見えてくるように、教会に来て、聖書を読 み、聖言の説教を聞くと、自分の弱さ醜さが分かってきます。説教が自分の事を指し ているように感じます。それは実は良い兆候です。その時、病の可能性を疑っている 患者が医者を避けるように、光を避けるか、光に来るかによって運命が分かれます。 残念ながら多くのユダヤ人は、そして世界の民は、光を拒絶する方を選 びました。

2.光を受け入れた人々

ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、 その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ヨハネ 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や 人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1)少数派:「しかし」 という言葉は、多くの人々の(一般的 な)拒絶にも拘わらず、少数派であることを恐れずに一人神の前に出て、自分が信じ た信仰をはっきりと告白する人を表しています。ヨハネ自身はまさにそ うであったし、クリスチャン達はその様な人々でした。

2)受け入れるとは:「受け入れる」とは、「その名を信じる」 と同義語として繰り返されています。イエスを約束 されたメシアであると認識すること、キリストを自分のための救い主として受け入れ ること、彼に信頼し、より頼み、彼の導きに沿って歩むことです。

3)個人的決断:その決断は自分 自身によるものであって、家族や血統によらないものです。みんなで一 緒にという思想はとても私達には強く存在しています。大勢が信じているから大丈夫 とか、家族中がクリスチャンだから私も自然にというのではないのです。 神の前には皆一人一人として出るのです。生まれる のも一人です。死ぬのも一人です。信じて神の子となるのもひとりです。

4)神の子となる特権:「神の子となる権利」が与えられる。神 の子というのは養子のアイデアから来ています。養子というのは、その親のすべての 所有、特権、地位、名誉を引き継ぐ者です。 私達も、天地宇宙を造られた偉大な神のすべての所 有と特権と地位と名誉を引き継ぐ者です。何という大きな恵み、幸いでしょうか。

終わりに

1.今日ここに集ったすべての者が、キリストの恵みを受け入 れ、恵みあふれるクリスマスを迎えたいものです。隠れていたり言い表わしていない 罪がありましたらオープンにして−硝子張りのような形で−、「間違っているところ がありましたら正して下さい」とするクリスマスにしたいものであります。お祈り致 します。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/December 7,2003