プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年12月14日

「信じること、受け取ること」

山口 謙 ユース・ディレクター

新約聖書 ルカの福音書 1章26-38節

該当聖句

  ルカ 1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツ も、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今は もう六か月です。

ルカ 1:37 神にとって不可能なことは一つもありませ ん。」 (ルカの福音書1章36-37節)

ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すな わち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハ ネの福音書 1章12節)


もう今年も後残すところ半月という感じですが、クリスマス楽し みですよね。やはり自分がクリスチャンということを抜きにしてもワクワクします。

クリスマスが何でわくわくするかといえば、やっぱりプレゼント がもらえるからです。僕も毎年とても楽しみです。今年は僕はほしい靴があるんです が、それをうちのサンタさんにお願いしようかなと思っています。やっぱりほしいも のが予想していない形でもらえるととてもうれしいですよね。

僕はサプライズパーティといって、本人には秘密で誕生日のパー ティを企画して驚かすのが大好きです。今年もいくつかやったのですが、傑作だった のは、本人には知らせずに直接自宅に押しかけたのです。その人の自宅前で、ケーキ にろうそくを立てて、ひをつけて、ピンポーンとドアベルを鳴らしたんですが、当の 本人はホントにびっくりして、開けたドアをまた閉めちゃったんですよね。

同じように何かの授賞式って面白いですよね。年末はレコード大 賞とか色々ありますが、何人かノミネートされた人が画面に映し出されるか、ステー ジに上がるかして、ドラムロールが鳴って、暗転して・・・、で司会者が「大賞は○○ さんです!!」と言うと、その受賞者はたいがい手で口ふさぎますよね。何で人は、特 に女性はこうびっくりすると手で口をふさぐんですかねぇ? おそらく何か心理学的 な説明ができるんでしょう。

まぁそれで、受賞者はトロフィーとか賞状を受け取るわけですよ ね。信じられないくらいうれしいとか、驚くようなことをそれが現実なんだというよ うな感じで徐々に受け止めていくのだと思います。で、色々僕は考えていて面白いな と思ったのですが、こういった賞の受賞者はオリンピックのメダリストたちと違っ て、とても驚くんですよね。それは当たり前で、オリンピックのメダリストたちは ゲームやレースが終わった時点で結果が分かっているわけですから、授賞式はただう れしいだけで、驚きはしないわけです。自分でその賞を勝ち取ったわけですから。も ちろん両者とも賞を取ったという意味では違いはないのですが、賞を受けるときに大 きな違いがあります。

クリスマスの物語の一番最初は処女マリアが人によらず、聖霊に よって子を宿すというところから始まります。その聖書の箇所−新約聖書 ルカの福 音書 1章26-37節−を読みたいと思います。

ルカ 1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエル が、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

ルカ 1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のい いなずけで、名をマリヤといった。

ルカ 1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

ルカ 1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどっ て、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

ルカ 1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。 マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

ルカ 1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産み ます。名をイエスとつけなさい。

ルカ 1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼 ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

ルカ 1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わ ることがありません。」

ルカ 1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそ のようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

ルカ 1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨 み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神 の子と呼ばれます。

ルカ 1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの 年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か 月です。

ルカ 1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

ルカ 1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはした めです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使 いは彼女から去って行った。

何かの本で読んだのですが、マリヤはおそらく15,6歳であった と考えられるそうです。そのマリヤに突然天使が現れて、「あなたは妊娠します」と告 げられたのです。まさになにかの賞の受賞者じゃないですが、「ウッソー!信じられ ないと」口に手を当てて驚いたでしょう。15歳ですよ。中学三年生です。個人差は あるでしょうが、まだ彼氏が、彼女がと恋に恋する少女が突然妊娠を告げられたら、 それは今も昔も大変なことです。だからマリヤは、

"どうしてそのようなことになりえましょ う。私はまだ男の人を知りませんのに。" ルカ 1:34b

と答えています。当時の彼女の生きていた時代背景を考えると、 その年でお嫁に行くのは普通だったようです。マリヤはヨセフの「いいなずけ」といっ て当時の文化では今の婚約と結婚の中間のような関係でした。二人は同じ家には住ん ではいませんでしたが、現在のわたしたちの婚約よりはより強い結びつきの関係にあ りました。おそらく彼女は将来の結婚生活に色々と夢を見ていたでしょう。新居には こんなソファーを買って、こんなじゅうたんでと色々と思い描いていたでしょう。で も突然のお告げです。

彼女が何より驚いたのは彼女が生まれる2000年以上も前から 預言され続けてきた救い主、メサイヤが自分のおなかに宿って自分の子どもとして生 まれるということを告げたことです。本当にそれはわたしたちの想像をはるかに超え た驚きであったと思います。

中目黒の駅前で年末ジャンボ宝くじを売っていますが、買ってい る人は当たったらいいなぁとは思っているでしょうが、まさかあたるとは思っていな いでしょう。マリヤもいっしょで、救い主が生まれることにはそれほど驚かなかった でしょう。昔から聞いていた話だし、自分も信じていました。しかし自分がその救い 主の母親になることは3億円の年末ジャンボが当たるのとは比較にならないほどのも のすごく驚きであったことでしょう。

おそらく多くの人は思っているでしょう。そんなことはない。処 女からイェス・キリストが生まれたのはただの昔話だ。そんなこと信じられないと人 は言うでしょう。

しかし、マリヤはそんな信じられないことを徐々に現実のことと して受け入れていきました。なぜでしょう? それは、まさにオリンピックのメダリ ストのように彼女が自分から信じるということを勝ち取りにいったのではなく、言わ れたことを純粋に事実として受け入れていったからではないでしょうか?  

"ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツ も、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今は もう六ヶ月です。神にとって不可能なことはひとつもありません。" ルカ 1:36-37

まず、彼女は御使い・天使を受け入れました。そしてその天使が言 う二つのことを受け入れました。ひとつは親戚のエリサベツというおばあさんが今ま でまったく子どもがなかったのに妊娠しているという事実。もうひとつは神に不可能 はないという天使の宣言でした。そして、彼女は自分の身に起きようとしていること も本当だと、現実だと受け入れていきました。彼女には自分におきていることを現実 として受け入れていく根拠があったのです。そして彼女はこれが本当に素晴しい、恵 まれたことだということを知りました。

よく、聖書に書いてあることが現実だとは信じられないという話 を聞きます。信じるという行為を考えると二つの側面があると思います。ひとつは自 分から能動的に信じるという選択をする側面です。それはまさにメダリストがメダル を勝ち取るように自ら手を伸ばしていくというような側面といってもいいでしょう。 それと同時にもうひとつの側面があると思うのですが、それは最初にお話したように 何かの賞を受賞するといったような受け取るという側面です。それをよく表したこと ばが聖書にはあります。

"しかし、この方を受け入れた人々、すなわ ち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。" ヨハ ネの福音書 1:12

「すなわち」ということばがあるので、ここでは「受け入れる」と いうことばと「信じる」ということばが同じ意味として使われています。このことば は聖書の原文では"得る"、"選ぶ"といった能動的な訳と"受け入れる"、"信じるよう になる"、"それが真実だと受け止め、そのように振舞う"とどちらかといえば受動的 にも訳されていることばです。

私たちは普段、この信じるということば、または行為をつかむと か、選ぶといった能動的な意味でとらえ、考えていることが多いと思います。しか し、信じるということばを受け取る、受け入れるという意味で使うことは少ないよう に思います。

では、わたしたちは何を受け入れれば、何を信じればよいので しょうか? 聖書中に書かれている奇跡でしょうか? いいえ。今読んだ聖書に「こ の方」とありました。その「この方」こそがマリヤのおなかに宿った神のみ子、救い主 イェス・キリストです。聖書はこのイェス・キリストが自分の罪を肩代わりして十字 架にかかって死んでくれたと信じ、受け入れるだけで、神の子どもとなる、つまり神 と関係を持てるといっています。

みなさんはどうでしょうか? 聖書のことばを信じて、受け入れ ているでしょうか? 私たちクリスチャンは毎週教会に来て、聖書からメッセージを 聞き、自分でも聖書を読み、祈っています。私たちはこの処女マリヤに起こった出来 事が歴史的な事実であったと信じています。そして、ここにあるように"神に不可能 なことはない"と信じています。でも、なぜ私の生活は変わらないのであろう、何で こんな大変なことやどうにもならないようなことが起こるのだろうと思ったりしませ んか? 僕自身、そう思っていました。自分の将来がまったく見えなくて、「毎週教 会に行ってるのに、俺の人生何もうまくいってない!」と思っていました。

マリヤは自分の身に起こっている、信じられないようなことに直 面したときどうしたでしょうか? 僕は決してマリヤが救い主を宿すことを望んでい たとは思いません。それ以上にそれがどんなに大変でリスクをともなうことであった かと創造します。マリヤがここで受け止めたのはこれは神が与えてくれた素晴しいこ となんだということです。その証拠に少し後のところでマリヤは、。

"主はこの卑しいはしために目を留めてくだ さったからです。本当に、これから後、どの時代の人々も、私を幸せものと思うで しょう。" ルカ1:48

と言いました。また、マリヤは

"どうぞあなたのみことばのとおりにこの身 になりますように" ルカ1:38

と天使に答えています。マリヤは自分の身におきていることが、 自分の願っている自分のベストではなかったのですが、みことばのとおりに、つま り、神が願っているとおりのことが自分に起こることこそが自分のベストだというこ とを理解しました。そしてそれが大きな恵み、与えられる資格もない者に与えられる プレゼントだと理解しました。マリヤは神を信じたのです。神にとって不可能なこと はひとつもないのです。ただ、それを受け取るかどうかです。

皆さんは聖書に書いてあることが信じられないでしょうか? 書 いてあることは知っていてもそこにある神の力が自分のものになるとは信じられない でしょうか? 聖書の言う「救い」が自分のものになるとは信じられないでしょうか?  それはもしかしたら自分たちで、自分の力で一生懸命信じようとしてるからかもし れません。今までお話したとおり、信じるのはもう一面受け入れるという要素がある ことを忘れないで下さい。ただこう、両手を広げて受け取ればいいのです。受け取る ためにはその送り主、神のことをもっと知る必要があるかもしれません。マリヤがし たようにだんだんと自分の受け入れる範囲で受け入れていったらよいのでないでしょ うか? 信じるとは私たちが思ってるよりももっと簡単なものかもしれません。

こうして、マリヤが天使からのメッセージを受け入れたことに よって、イェス・キリストが2000年前にこの世に誕生したのです。彼こそが、こ のクリスマスのプレゼントなのです。このプレゼントを受け入れる人には神の子ども となる特権が与えられていると先ほどの聖書の箇所にありました。そうです、神の救 いは、神の約束する豊かで実りある人生はすでに私たちの目の前に用意され、差し出 されているのです。ですから、どうぞ受け取ってください。それが神からの私たち人 間に対する最大のプレゼントです。


Message by Bro.Ken Yamaguchi, youth director of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka on December 19,2003