礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2003年12月28日

年末・聖餐式に臨む

「感謝をささげて後」

竿代 照夫 牧師

ルカの福音書22章17,19-20節 

 中心聖句 

17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。

19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

 (ルカ 22章 17,19-20節)


始めに

 この一年を締め括る大切な聖日、聖餐式をもってこの一年を感謝して締め括ることは、大変大きな意味があると思います。というのは、聖餐式という言葉は、日本語では聖なる食事の式という意味で造られたことばなのですが、教会歴史では「感謝式」と言う言葉で親しまれてきました。

 英語で聖餐式はLord's Supper (主の夕餐), Holy Communion (聖なる交わり), Lord's Table (主の食卓)等とも呼ばれますが、最も一般的な言葉はEucharist (ユーカリスト:感謝すること、感謝する式)だからです。これは、ギリシャ語のeucharisteesas (give thanks)から来た言葉です。

 主イエスが聖餐式を制定なさったその時、パンのために感謝し、杯の為に感謝された事(17、19節)からこの言葉が生まれました。聖餐式の始まりについてのルカ伝記事については、昨年の受難週の始まりにお話ししましたので、物語そのものは敢えて詳しく述べませんが、聖餐式が制定された主イエスの最後の晩餐について、おさらいするところから始めたいと思います。


A.聖餐式の始まり

1.時

 紀元30年春、受難週の木曜日の夜、それはユダヤの伝統的な「過越の食事」を兼ねていました。ちょうど日本人にとって元旦の雑煮が一番大切であるように、ユダヤ人にとって一年で一番大切な食事は過越の食事でした。過越とは、イスラエル人が出エジプトをした時に、天使が全てのエジプト人の長男を滅ぼしましたが、小羊の血をドアと鴨居に塗ったイスラエルの家々を過ぎ越したことに由来しています。その小羊の肉と、イースト菌を入れないパンと、苦い野菜を食べてそれを思い出すのが、今に至る迄の習慣です。主イエスは明日十字架にかかるというその前夜を過越食と定め、最後の晩餐となさったのです。

2.場所

 エルサレム市内のある家の二階の大広間、多分福音書記者マルコの実家と思われます。

3.過越食

 種無し(イーストの入らない、かたい)パン、苦い菜、葡萄酒、干した果物で出来たフルーツケーキ、そしてパンを浸す酢、そしてメインは小羊の肉でした。

4.聖餐の制定

 聖餐の儀式は過越食の最初ではなく締めくくりの時に行われました。過越食において祝杯は四回に亘ってなされましたが、最初のものは祝福の杯と言われていた、と説明されています。その祝福の言葉が記録されていますので引用します。

  「われらの神、世界の王、ぶどうの実をも造り給える主はほむべきかな。汝は諸国民の内より我等を選び、我等を高きところに置き、そのおきてをもって我等を聖め給えり。愛をもって汝は、喜びのために祝祭の季節を定め給えり。殊に、種を入れぬパンの祭、我等に自由を与え給える記念の日、出エジプトの記念の日を感謝す。イスラエルを選び、祝福し、守り給う主の聖名はほむべきかな。」

 実に長いお祈りです。これから過越の食事が始まるのです。そして、一通りのコースが終わった後で、イエスはパンは裂いて(というよりは割って)一人一人に分け与えられました。葡萄酒は一つの杯で回し飲みされました。主はこの行為によってご自身が捧げる供え物の肉と血とを象徴されたのです。

5.聖餐の意味

1)新しい契約を結ぶ

 それまでの古い契約とは、律法に基づくもので、行為による救いを示しています。これを行え、そうすれば生きる、というものです。十戒はその典型です。しかし、この契約はうまく行きませんでした。契約が悪かったのではなく、人々が契約を破ってしまった、もっと言えば契約を守る力がなかったのです。ですから、新しい契約が結ばれなければならない、とエレミヤは語っています。(エレミヤ31:31-34)

31見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。―― 

33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

34 そのようにして、人々はもはや、「主を知れ。」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

 これは、生ける神との交わりによって律法を守る心と力が与えられる、律法が心の中に直接書き込まれる(刷り込まれる)、律法を守ることが喜びとなる、これが新契約です。それを可能にするのが主イエスの贖いの血潮です。

2)その新契約が血によって保証される

 神と人との約束は、血を流す事によって有効とされました。その意義は、約束は絶対に違反しない、違反したら、命を持ってそれを償うと言う責任の大きさを象徴していました。契約というヘブル語はベリットといいます。これは「切り裂く」という意味です。約束を守らなかったら、その肉体を切り裂いて償うという重大な決意を顕わしています。

 同時に、これは、主イエスが全人類の全ての罪を背負って身代わりとしての血を流すという決意の表明でもありました。私達が負わなければならない罪の罰を、キリストが十字架の上で全部引き受けて下さった、それが「血によってなされる新しい契約」でした。


B.主イエスの感謝

 イエスは何を感謝されたのでしょうか。パンが与えられたこと、杯が与えられたことだけなのでしょうか?もっと深い意味があったように思えます。

1.晩餐の感謝

 最後の晩餐の冒頭に主イエスは、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(15節)と、その感慨を述べています。忙しい日程の主イエス、迫害の嵐の中で、その迫害の渦の中心地であるエルサレムの真ん中で、静かな別れの食事会をすることが出来た感謝、感慨はひとしおであったと想像されます。私達家族も、世界中あちこちと散っての生活が続きましたが、折々に5人が集まって食事をするときの楽しさ、感謝を忘れることが出来ません。

2.過越の感謝

 この食事は第一義的に過越の食事であったことを思い出して下さい。そこでは、何度か区切り毎に繰り返し出エジプトの出来事が思い出され、感謝されていました。出エジプトと言えばその時から千年以上も前の話です。でも時を乗り越えて、イスラエル人は神の贖いの恵を思いだし、感謝していました。主イエスもその形式に則って感謝を表されたのです。

3.ご自分の贖いの感謝

 この場合では、パンについて感謝し、杯について感謝しています。これは食事が始まるときの感謝とも異なって、丁寧すぎる様に感じます。

 実は五千人の給食の時も、主は魚について感謝し、パンについて感謝しておられます。(マルコ8:6-7)

6 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。

7 また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。

これは、聖餐式制定の序曲とも言われています。

 さて、この晩餐についてですが、パンについては、ご自分が裂かれようとする肉を、杯については、ご自分が流そうとしておられる血潮を象徴したものです。ご自分の血肉が貴い贖いの為に用いられる事に対する感謝が籠められていたのではないでしょうか。勿論人間的には、肉が裂かれ、血が流されることに対する本能的な恐怖が渦巻いていたことは確かです。でもそれを乗り越えて、主はその苦しみが人類の救いのために用いられる事への感謝を強く持たれました。


C.私達の感謝

1.一つ一つに対する感謝

 クリスチャンである私達も食事の時に感謝していただきますが、どうもその感謝は粗雑すぎる嫌いがあります。「主よ、今日の諸々の恵について感謝します」という感謝も、感謝しないよりは良いでしょうが、詳しさが足りません。そこへ行くと子供の感謝は即物的で単純ですね。ある子供のお祈りは、「ご飯を感謝します。おつゆを感謝します。肉を感謝します。野菜を感謝します。」と丁寧に感謝していきます。

 私達がこの一年を締め括るときに、こうした丁寧な感謝の表し方を主の前でしようではありませんか。数えよ、主の恵、数えよ一つずつ、という讃美歌がありますように、丁寧な感謝を主に表しましょう。

 私は年末には日記帳を一枚ずつめくって1月からの出来事を思い出し、ああ、あの時も守られたなあ、この時も助けられたなあと思い出しつつ感謝の時を持つ習慣を持っています。それぞれ習慣の違いはあるでしょうが、詩篇103:2に「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とありますように、主のみ業を一つ一つ感謝するときと持つことは本当に恵の時です。

2.犠牲となられたイエスへの感謝

 主は感謝を捧げて後パンと杯を回されました。私達の感謝は、キリストの貴い犠牲に対してです。聖餐に与るとき、贖いの恵みを心から感謝しましょう。イエス様、あなたの血潮はどんなに厳しい痛みの代価として与えられたものでしょうか。あなたの清らかな御手が、御足が、脇腹が裂かれる痛みはどんなものだったでしょうか。あなたの犠牲に対して感謝しますと、素直に告白しようではありませんか。

 私達は大なり小なり、病気や怪我を通して、耐え難い痛みというものを経験します。その痛みをどう捉え、どう解釈するかで同じ痛みでも、苦い経験か、恵の経験かに分かれます。どうして私だけが、というような憾み節を唸るのではなく、イエス様、感謝します。私の歯痛も耐え難いものではありますが、あなたの十字架の苦痛はそれの何千倍も苦しかったでしょう、主よ、感謝します、あなたはそれを私のこの罪のために忍んで下さった、という気持ちを持ちたいものです。

3.成し遂げられた救いに対する感謝

 私達の罪と過ちがどんなに大きくても、それら全ては十字架の上で解決済みであります。主イエスは十字架の上で、事は終わった、救いは成就したと叫んで息を引き取られました。

 この年を振り返って、私はあそこで失敗してしまった、あの人を傷つけてしまった、あの言葉は言わなければ良かった、あの態度は傲慢だった、あの行為は忘れてしまいたい、という後悔を感じることはないでしょうか。私は、そうした気持ちがない方が不思議だと思います。

 でも、その一方で、イエス・キリストの血は全ての罪を清める、という約束に立って、それらの全ての過ちをきれいにご破算にして下さるキリストの贖いを信じ、感謝しましょう。成し遂げて下さった十字架の贖いに対する感謝、自分の罪が文字通り、徹底的に赦され、清められているという確信を、聖餐式につらなるとき、私達の信仰告白として、心から表したいものです。


終わりに

 終わりに、感謝を捧げて後、パンと杯を回された主イエス様にならって、私達も大い 
なる感謝を捧げて後、聖餐に与りましょう
。お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2003.12.29