プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年1月4日 山上の垂訓(説教)シリーズ

「輝くクリスチャン」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マタイの福音書 5章14-16節

該当聖句

Mt5:14-16 

マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上 にある町は隠れる事ができません。

マタイ5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下 に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照ら します。

マタイ5:16 このように、あなたがたの光を人々の 前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父を あがめるようにしなさい。

(マタイの福音書 5章14-16節)


1.はじめに−光である主イエス

私達は二週間前にクリスマスを祝いました。そこでお祝いしたの は光としてこられたキリストです。

ヨハネの福音書1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世 に来ようとしていた。

そのキリストがご自分について、

ヨハネの福音書8:12 「わたしは、世の光です。わたしに従う 者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

と語られました。

2.光とは

1)方向を示します。 私達が進むべき道は何か、光がなければ分かりません。キリストは私は 道であり真理でありいのちである、と語られました。彼の生き方の中に、このように 生きればよいのだという指針があります。彼の言葉 の中に、人間とはこうあるべきだという基準があります。例えば神を愛 すること、隣り人を自分の様に愛することが最高の道徳であるというようにです。

2)暖かさと喜びを与えます。 太陽の光は暖かさをもたらします。光がなければ心は沈んでしまいま す。恐怖に包まれます。でも一条の光が射すと心が暖まるのを感じます。

トム・ソーヤーの冒険の物語で、鍾乳洞に入って閉じこめられた トムとベッキーの心細いシーンというものを子供ながらに胸締め付けられる思いで読 んだものです。

光が射し込んでくるときのあの喜び、それが正にキリストの光で す。私達の心から罪という暗い部分を取り除き、永 遠の命を与える、そうした命に満ちた光をキリストは携えて下さいまし た。

3.光を与えられている弟子達

1)主イエスが弟子達に向かって「あなたがたは、世界の光で す。」と語られました。彼らは本当の意味では光源体ではないかも知れないが、 キリストの光を照らし映す光なのです。

2)主は弟子達の貧しさ弱さを良くご存知でした。彼らはそんな に光り輝くような教養も、知性も、生まれの良さも、財産も、名誉も持っていなかっ たでしょう。でもつだけの取り柄は、光である主イ エスに従おうとしていたという点です。その点で彼らは光り輝く存在と なり得たのです。

3)同じ意味で、私達も光なのです。この暗い時代にあって光り 輝く存在なのです。 私は光っている光っていると意識しなくても、聖書は,

ピリピ人への手紙2:15 あなたがたが、非難されるところのな い純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとな り、

ピリピ2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世 の光として輝くためです。

と言っています。私達がきよい存 在であること、神の言葉に従って生きていくことが「光」なのだと語っ ているのです。

4.存在を通して輝こう

クリスチャンはクリスチャンとして存在するだけでも光り輝くも のです。山の上にある町が周りのまちまちから隠れて存在する事はあり得ないのと同 じです。

ある看護婦さんが、いつも明るく患者さんに接しているのを見 て、あなたはクリスチャンではありませんか、という質問を受けたそうです。いい話 です。私達が存在しているだけで周りが明るく、楽 しくなるようなそんなクリスチャンとなりたいものです。

5.言葉をもって輝こう

光は自然にも輝きますが、主イエス・キリストは光を升の下に置 かないで、高いところに置くと当たり前の事を語っておられます。自分がクリスチャ ンであることを誰にも話さないという主義の方もあり、それはそれでよいのですが、 一般的に言えば、クリスチャンであることを良い機 会を捉えてはっきりと周りの人々に語ることは大切なことです。

電車に乗っているときに聖書を読んでいて、それは何ですか、と いうことから自分の信仰を証しする機会が与えられたことがあります。

6.行動をもって輝こう

それらと共に、それ以上に大切なのが、清い生活と、積極的な愛の行動をもって神の愛を顕わしたいものです。 わざとらしい善行という意味ではなくて、真の意味で人を愛する愛を具 体的行動で顕わすのは良いことです。

日本人はとかく恥ずかしがり屋であり、電車の中で席を譲ったり する等の行為はわざとらしい善行として控えてしまいがちです。でも、私達の主はその恥ずかしさを乗り越えた行動のことで す。

7.私達は本当に光か?

より強い光を放つためには、反射板からくもりを除かなければな りません。心を貧しくしてイエスの福音を受け入れる者でありたいと思います。光を 照らされるのが嫌な部分を残したままでもいけません。嫌な部分も含めて照らしていただき、キリストの救いの力で清めていただい て、本当の意味で「光」となろうではありませんか。

あなた方は世の光です、と語られたときに、内心、ちょっとそれ は言い過ぎだと感じるものがあるでしょうか。それこそ、光であるキリストの照射を 頂いて、汚れを除いていただき、本当に私は光で す、と言い切れるクリスチャンとなりたいと思います。

8.おわりに

始められた2004年、私達にとって光り続ける一年となること を祈り、その様に行動したいものです。お祈りいたします。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/January 4,2004