礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年1月11日

「魅力ある教会」

竿代 照夫牧師

使徒の働き2章37-47節

中心聖句

使徒2:47  神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加え てくださった。

(使徒の働き 2章47節)


はじめに

1.教会総会を二週間後に控えています。この一月の講壇で、も う一度教会のあるべき姿を、原点に立ち返って学びたいと導かれています。

2.原点と言えば、ペンテコステ後に誕生した教会の姿です。初 代教会といえども、いろいろな問題や弱点を持っていたことは確かですが、聖霊の著 しいお働きの中に生まれ、成長した姿から、教会の雛形として多くを学ぶことが出来 ます。今日は、使徒の働き2章に示された教会の姿を原型と捉えて、三つの角度から 学んでまいります。

A.教会の形成

1.聖霊が産みの親

エルサレム教会は、ペンテコステにおいて聖霊が弟子達に注が れ、その伝道によってキリストを信じる者が起こされた結果誕生しました(使徒2: 4、41)。このことは、教会が聖霊によって産み出された ものという真理、さらには主イエスが聖霊を通して教会を建てなさるという真理 を示します。マタイの福音書16章において「私が私の教会を建てる」 と主は語られましたが、教会を建てるという具体的な過程は、キリストのエージェントとしての聖霊のお働きによったの です。

2.教会の構成員

初代の教会のメンバーは、ペテロの説教によって心刺され(2: 37)、罪を悔い、バプテスマを受けた(2:38、41)人々でした。この群のこ とを、今日のテキストは三つの言い方で表わしていますので、それに沿って説明した いと思います。

弟子という言葉は福音書では200回以上出てくる言葉ですが、 そのほとんどは主イエス様に従う者達を指していました。その内十二使徒を指すもの もありますが、多くは十二使徒の周りの広いグループを指しています。ですからこれ は主のご在世当時は「イエスを信じ、従う者達」のグループを指す言葉でした。それ が主のご昇天後も引き続いて使われた訳です。ペンテコステの時、

使徒2:41 彼(=ペテロ)のことばを受け入れた者は、バプテ スマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

のです。ここに福音書と使徒の働きとの継続性を見ます。教会は 聖霊によって生まれた全く新しい共同体という側面も持ちますが、地上にあられたイ エスに訓練された弟子仲間の継続という側面も見逃してはなりません。

1)「弟子」(41節)

弟子という言葉は文字どおりには「訓練されたもの」、「従うも の」という意味です。先生である主イエスに従う人々、その 弟子の生き方に従う孫弟子、ひ孫弟子という風に教えが継続される所、それが教会 なのです。クリスチャンという言葉が使われる遙か前から、教会は弟子 の群と呼ばれていた事実を覚えたいのです。フルタイムに主 の仕事をするかどうかに関わりなく、私達はみんなキリストの弟子であります。

2)「信者となった者」(44節)

使徒2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさ いの物を共有にしてい た。

何を信じたのでしょうか。イエスを神の 子、救い主キリストと信じたものでした。それまで、彼らはユダヤ人で したから、唯一まことの神は信じていました。でも、人間であるナザレのイエスを神 と等しいお方として信じるには大きな飛躍が必要でしたが、 ペテロの説教を通してその事が理解され、信じるものとなったのです。 37節に、

使徒2:37a 人々はこれを聞いて心を刺され、

と記されています。鋭い切っ先で刺されるということで、この場 合は、ペテロの説教で引き起こされた鋭い痛みの伴う感情である。彼らは、慈愛に満ちた主イエス様を「十字架につけよ!」と叫んだその行為を本 当に申し訳ないと感じたのです。特にその主イエス様が甦って救い主と なられた事実は彼らの大きな過ちを愕然と悟らすのに充分でした。その罪をはっきり と悔い改め、そのしるしとしてパブテスマを受けました。

3)「救われる人々」(47節)

これは信じるものが与えられる結果から指している言葉です。

使徒16:31 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあ なたの家族も救われます。

とありますように、キリストを信じることによって、私達は過去 の罪を赦され、現在の罪から清められる、つまり「救われる」のです。救われるかも 知れない、そうでないかも知れない、という曖昧な状況に私達が置かれることはあり ません。

エペソ2:8a あなた方は恵みのゆえに、信仰によって救われた のです。

とありますように、救われたという経験を持つことが出来るので す。もちろん、究極的な救いは天国に到るまで続くのですが、救われた状態に今ある という自覚を持つことは可能であり、必要です。初代教会のメンバーは救われたもの の集まりでした。

B.教会の働き

彼等の教会生活を短くまとめた記録が2章42節です。

使徒2:42 彼らは使徒達の教えを堅く守り、交わりをし、パン を裂き、祈りをしていた。

ここに4つの要素が汲み取れます。

1.教え

1)キリストについての教え

使徒達の教えとは、キリストの生涯と教え と救いについての教えでした。使徒達が覚えている限りのキリストの言 葉、行いを、新しく信者となった人々に伝えました。こうした教えが繰り返され、定 式化することによって信徒達の記憶に留められ、伝承されて行きました。これが福音 書の基礎になったと考えられています。初代教会が、その営みの第一に「教え」を据 えたことは重要です。

彼らの集会の主な部分がキリストの教えに 関する説教であったこと、彼らが集会を重んじて、休まずに励んでいたこと が分かります。私達が集会を重んじるのは 何のためでしょうか。それは、神の聖言が正しく解き明かさ れ、私達の日常生活に当てはめられるからです。

2.交わり(コイノーニア)

1)霊的な分かち合い

交わりとは「共通の、共同の」(コイノス)という言葉から来て います。教会でなされていたコイノーニアは単なる社交でなく、霊的な分かち合いの ことを意味していました。神の恵みを称え、互いを励ますことを目的とした会話で す。

私達にとって、話を霊的に保つと言うことは簡単なことではあり ません。人間の会話は噂話を交えないで30分以上は続かないとある人が語りました が、正にその通りです。でも初代教会における会話は、その分かち合いを通して互い を建て上げるようなものでした。

建徳的と言う言葉が私は好きです。どんな 会話でも、どんな状況に置かれていても、私達の話の内容が他人を建て上げるもので ありたいと思います。

2)共同的な生活

更に、この分かち合いは、食事を共にし、持ち物を共にした共同 的な生活でした(45節)。もちろん所有の権利をも放棄した(あるいは集団の圧力 でさせられた)ものではなく、自発的な喜びと感謝の心から出た愛の行いとしての助 け合いでした。44節の、

使徒2:44a 信者となった者はみないっしょにいて、

という言葉はあまり拡大的な解釈をしない方が良いと思われま す。3千人前後の弟子達が一カ所に集まって共同生活をすることは事実上不可能だか らです。そもそも初代教会には会堂がなかったのです。ですから、家ごとの集まりが 教会であったわけです。三々五々、適当に家々に集まったと言うのが正確でありま しょう。

3)物質的な分かち合い

使徒2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要 に応じて、みなに分配していた。

とあります。これは、愛の心からなされた自発的な行動であっ て、或る狂信的な宗教団体が個人の所有を処分させて共同生活をルールとするのとは 根本的に違います。特に、エルサレムの住人が置かれていた貧しい環境とプラスし て、ペンテコステ以後、ガリラヤ出身の弟子達が継続的に滞在する事によって、その 生活を支える心配があった。世界中からのペンテコステへの巡礼がそのまま残って信 仰生活を続けたという特別な事態への対処と考えられます。

それにしても、このような愛の献金が進んでなされたことは偉大 なことでした。さらにある聖書注解者は、彼らの愛の施しはクリスチャン内部のもの だけではなく、他の人々にも及んだと考えます。私も同意します。

3.聖餐

1)食事の度に主を記念

使徒2:46・・・パンを裂き、

というのは食事を共にする以上の意味が籠められていました。も ちろん主イエス様の死を記念する聖餐を事ある度に行っていたのです。食事の始めに パンを裂くことによって、キリストの十字架を覚える儀式を行ってから始めるという 習慣が初期のクリスチャンにありました。

彼らの置かれた環境を考えますと、ペンテコステの僅か2ヶ月前 に、イエスは辱めの象徴である十字架に架けられたのです。けれども彼らは十字架を 恥ずかしいとは思わずに、却ってそれを誇りとし、十字架の記憶を新鮮に保とうとし たのです。十字架を前面に押し出して、信仰の基盤と考えた のです。

2)聖餐式の定式化

しばらくすると、この不定期的な習慣も定式化され、週の始め (日曜日)に集まって、この復活を記念し、活けるキリストの現存を感じつつ聖餐を 行うものとなりました(使徒20:7)。

ある神学者が、「聖餐とは・・・キリストとの生命の交流、生け るキリストとのふれあいである。・・・ゆえに聖餐にこそキリストは現臨したまう。 しかも体をもって現臨したまう。」と述べています。私達はこの「教会に臨在し給う」お方としてのキリストをより強くと らえたいと思います。

4.祈り

1)個人の祈り

教会は正に祈る群れとして出発しました。個人的な祈りは当然な されていました。それは神殿における定期的な祈りに表れていました。時間を決めて 宮に集まってきて祈りました。それはモスクでの祈りのようにかけ声に合わせてみん なでひれ伏すというものではなく、個々の信仰者がそれぞれ祈るというタイプの祈り 方でした。彼らの場合、ユダヤ教の神殿礼拝に参加したわけで、特にクリスチャンだ けが他の人々 と別れて祈ったわけではないのですが、クリスチャンだけの祈り会は家庭家庭で行わ れていました。

2)集まっての祈り

42節に述べられている祈りとは、家庭での祈り会と言う意味で す。ペンテコステに向けて、聖霊の満たしを求める祈りにおいて心を合わせ(使徒1 :14)、迫害にぶつかっては心を一つにしてに祈り(使徒4:24)、ペテロの捕 縛の時にも皆が夜遅くまで熱心に祈りました(使徒12:5)。 私達の家庭が祈る家庭であり、近隣のクリスチャン達を集め て祈る祈りの場であったならば、どんなに素晴らしいことでしょう。この教会の集ま りの前後にも、三々五々共に祈っては集まり、祈ってはわかれる、そういう集まりで ありたいものです。また、祈祷会を愛し、祈祷会に励み、祈祷会で勝利を得る私達で ありたいものです。

C.教会の成長

1.恐れという反応(43節)

使徒2:43a そして、一同の心に恐れが生じ、

1)奇跡の業に対して

まわりの人々の反応はどうかと言いますと、第一の反応は恐れで あったと記されています。使徒達が行った様々な奇跡の業に対して、どうしてこんな ことが可能なのだろうと、驚きに似た恐れを持ちました。

2)異質性の故に

同時に、彼らは自分達にはないものをみて、半ば羨ましく、しか し、半ばは脅威を持ちました。特に最初から反感を持っていたパリサイ派とその影響 を受けた民衆はこの反応を示しました。十字架で決着がついたはずのイエス問題がし つこく残っている、そういった苛立ちも感じられたことでしょう。

残念ながら現在の日本においては教会が脅威になっている 様には思えません。16世紀に100万を越えるキリシタンが生じ、そ れが遼原の火のように拡がった時代に、秀吉始め封建制度の指導者達はこれを脅威と 感じて禁教令を発しました。私達は迫害は望みませんが、 人々に恐れを生じさせるくらいのインパクトを持ちたいものと思います。

2.教会が魅力に(47節)

使徒2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさ いの物を共有にしていた。

使徒2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要 に応じて、みなに分配していた。

使徒2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパン を裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

使徒2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎 日救われる人々を仲間に加えてくださった。

反感を持った人々もいましたが、もっと物事を素直に見る大多数 の人々は、新しいグループを好意と尊敬と羨望の眼を持って見るようになりました。

彼らにとって十字架のつまずきが簡単になくなったとは思えませ ん。大衆の多くは十字架につけよという叫び声に加わった人々だったからです。

でも、風向きが変わってきました。十字架につけられたイエスこ そキリストだという(平均的なユダヤ人にとっては奇異に映る)クリスチャン達の主 張が、彼らの生活を見ると、肯けるようになってきたのです。その魅力は三点です。

1)賛美と感謝のこころ

使徒2:47a 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。

と47節に記されています。初代教会のメンバー達が持ってい た、絶えず祈り、常に喜び、すべてのことを感謝するスピリットが好意を持たれない はずはありません。

2)明るさ、朗らかさ

さらに、彼らの明るさ、朗らかさが魅力でした。

使徒2:46b 喜びと真心をもって食事をともにし、

と記されています。彼らが食べていた物は粗末なものであったか もしれません。でも如何にも楽しそうに、おいしそうに食べていた姿が周りの人の魅 力となったようです。

私達の教会もガラス張りのホールで食事しています。たとえどん な内容の食事でも、楽しそうに食べている雰囲気というものは伝わるものです。 「ああ、あのグループに入ってみたい」と思われる ような交わりでありたいと思います。最も大切なことは、私達のこの教会がどんな方でも喜んで入って来られる様な魅力 に満ちた存在となることであります。

3)互いの愛

使徒2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要 に応じて、みなに分配していた。

貧しい人々が退けられないで、受け入れられ、食事を分配されて いる姿も麗しいものとして他の人々に映ったことでしょう。この施しは信徒の群に対 してだけではなく、その他の人々にも及びました。

3.毎日救われるものが加えられた

1)主の働き

ルカは「主が加えなさった」と神の主導権を強調しています。も ちろん上にのべた教会の姿が人々をひきつけたという人間的要素を見逃すわけには行 きませんが、究極的に、魂を導かれるのは主ご自身です。

ヨハネ6:44a わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎ り、だれもわたしのところに来ることはできません。

と主イエス様も語られたとおりです。その神ご自身が人々を加え て下さったのです。

2)毎日の増加

ルカはそれが毎日起きた、と記しています。大げさではなかった と思います。 主がその様な驚くべき大漁をこの日本に起こして下 さることを信じますか?信じましょう。

おわりに

1.原点に戻ろう!

私達の方策や計画も大切ですが、もう一度単純な教会の活動、そ の基本に戻りましょう。集会における説教、小集会での学びを大切にしましょう。交 わりを本当の意味で建徳的な霊的なものに保ちましょう。キリストの活きたご臨在を 覚えましょう。祈祷会に励みましょう。

2.置かれた場所での宣教師

置かれた場所を宣教地と心得て、周りの人々に良き生活、明るい スピリットを証ししましょう。

3.他の人のために祈ろう!

この一年、どなたかの救いのために祈りましょう。もう祈り始め ておられますか。皆さんの祈りの手帳に書き込んで、毎日その方のために祈りましょ う。主は答えて下さいます。皆さんでご一緒にお祈りしましょう。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/January 11,2004