礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年1月18日

第一礼拝

「新しく造られた者」

井川 正一郎 牧師

第2コリント5章11-21節

中心聖句

24 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

第2コリント5章17節)


始めに

1.「いも虫」がチョウチョに

 第2コリント5章17節を、もう1度読みます。

17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

昨年末の土曜日の時、クリンアップの御奉仕が城南地区の方々の時のことでした。酒井姉とそのお子様、元気君と香代ちゃん。ちょうどその時、酒井さんたちがチョウチョか何かの幼虫、すなわち緑色した芋虫を10数匹捕まえて持ってきておられました。3、4センチの長さがあったでしょうか。また、これは何の幼虫だったのでしょうか。

翌日の日曜日、酒井姉が、それが早くもさなぎになっている、どうしようかしら、ということになり、家の外に置いておきました、言うことでした。まだあの長さだから、1週間くらいはまだ、芋虫状態で10センチくらいまで大きくなると思っていたのですが、すでに、さなぎになったというのです。家内に連絡すると、それはそのあたりの長さでさなぎになるモンシロチョウの一種で何とかという名前のものではないかということでした。

先週の日曜日、酒井姉が私のところにやって来られました。それはモンシロチョウになり、また黄色のモンキチョウになったということでした。酒井兄姉の家の中を可愛く飛んでいるとのことでした。 

2.新しく造られた者=新しい性質に変貌

 きょう、別にチョウチョの話しをしようと思っているわけではありません。でも、あのグロテスクな格好をしている芋虫が、きれいなチョウチョになるという変化・変貌についての話しをしてみたいと思っております。


テーマ:「新しく造られた者」の意味内容

 きょう、お開きした第2コリント5:17のみことばの「新しく造られた」との「新しい」とは、今までのものとは違う全く新しい性質に変化・変貌するとの意味です。私共人間が古いものから、全く新しい性質を持った者に変貌するというのです。

きょうは特に、この「新しく造られた者」とは、具体的にいかなる意味内容を持つのか、思い巡らしたいと思っております。一言で言えば、おことばにあるように「キリストのうちにあるから」、そうなるということですが、もう少しこの箇所の内容文脈から具体的に4つの点から学びたいと思っております。


1.新しい経験=キリスト経験

1)主を恐れる(畏れる)

  第一に、「新しい体験を得た者」ということです。先程も言ったようにキリストのうちにあるなら、とのことばにすべて言い尽くされるものなのですが、11節の主を恐れることを知っているとのことばもそれを意味します。まず「恐れる」とは、恐怖ではなく、主を畏敬することなのです。主を畏れるとは主イエスを知った者、キリスト経験を得た者です。主を知らなかった者が主を畏れる者に変貌。まさに新しく造られた者とは、たしかなキリスト経験をした者なのです。

11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。

 この「主を恐れることを知っている」のでとのことばが言われた背景を少し学んでみます。

そもそも、コリント教会は多くの問題のあった教会でした。コリントはギリシャの港町です。アテネに並ぶ当時の大都市です。近代都市です。流行にも敏感です。世俗の波が教会内にも押し寄せてきていたのです。分派争いがある、不品行がある、あるいは知識あることを誇るのです。特にギリシャ文化の影響で、弁説=口の達者なもの、説教の上手なものを尊ぶ傾向があったようでした。

ともかく、パウロは伝道者としてそれらの多くの課題を何とか解決しようと試みました。コリント第1の手紙で扱われています。それに対して、第2の手紙はパウロの働き、あるいはその立場に対して批判する者たちへの弁明の書です。私パウロは、こういう者だから、正しい立場にあるとの弁明なのです。第2の手紙は“We are(私たちは・・)”の書と考えています。

その流れから、あるときは自分自身を売り出すような言動もあります。あなたがたはこういうことを誇っているようだが、誇ろうと思えば、あんたたちより、よっぽど私のほうが誇れるわけです。自慢話しのような話を展開するのです。自己推薦のようなことをいうのです。この箇所もそういった背景で言われています。主を恐れることを知っているからこそ、言い換えるとキリスト経験、神経験をしたからこそ、神の御前でハッキリ言うのです。新しく造られた者だからなのです。 

2)キリストのうちにある 

 主を恐れることを知る。キリスト経験、体験です。17節ではそのものずばりに表現されています。「キリストのうちにあるならば」です。キリストのうちにあるとは、キリストとの生きた結びつき、つながり、交わり、関係を言っている者との意味です。もともと、「ある」とのことばは元来、場所を示す前置詞として使われるものですが、ここでは場所的という以上に、人格的にキリストにつながり、交わり、信頼するとの意味なのです。 


2.新しい動機、人生目的(方向)

1)キリストの愛に取り囲まれる

  第2に、新しく変貌したのは動機・原動力と、それに基づく人生目的あるいは方向性です。動機、すなわち、思いの源です。それが変貌したのです。動機がどう変わったのでしょうか。自分中心がキリストの愛という動機づけとなったのです。キリストの愛が取り囲んでいるのです。こんなふうに気が狂っているかのように思えるほど奉仕しているのは、そのためです。熱い心、動機を持つ者に変えられたのです。キリストの愛に取り囲まれている、文語では「キリストの愛我に迫れり」です。どういう意味でしょうか。

 2)キリストのために

「追い込む、圧迫する」との意味もある。要は、キリストの愛は迫ってきてわれらをがんじがらめに捕縛して動けなくするのでなく、迫り、追い込んでくるキリストの愛は新しい方向(ベクトル)を私に与えてくれるもの、ということです。

今までは自分自分という方向で動機づけがあったが、今は違う動機づけとなったのです。キリストの愛に押し出されて、神のため、あなたがたのためという方向付け、動機づけとなったのです。

ですから、その人生目的も新しく変貌したのです。15節です。自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるのです。キリストがそうされたのだから、この私もなのです。人生の目的が変貌したのです。 

15 またキリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。


3.新しい価値観(判断基準)

1)人間的標準ではない 

第3に、その価値観も変貌しました。16節です。今後は「人間的な標準で人を知ろうとはしない」のです。人間的な標準とは、世的なものの考え方、見方のことです。自分中心にものを考えるということです。 

16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

2)キリストの観点から

今後はものの見方、考え方、判断基準が違うのです。財産があるかどうか、社会的立場といった肩書き、学歴、家系、血のつながり、家庭的背景などからの基準で人を判断、ものを判断すのではありません。キリストを知ることだって、世的な見方がありえます。パウロも以前はイエス・キリストを違う見方をしていました。迫害対象のものと考えていたのです。しかし、今は違います。そういうのをやめた、新しい価値観を与えられた、のです。 


4.新しい立場

1)キリストの使節

そして最後、第4に、「新しい立場」です。和解の務めです。キリストの使節という立場に変貌したのです。 

2)和解の務め

今までお話ししてきたキリストのために生きるとの具体的な生き方=使命は、キリストの使節として和解の務めを果たすことなのです。キリストの使節(大使)とは、主牧の書いた書籍にも説明がありますが、今で言う大使の意味でないのです。当時のローマ帝国皇帝の権威を帯びてローマ帝国の直轄地や占領地などでの事件折衝について、全権をもっての処理をまかされた使節を意味するのです。まさに、同じように、キリストの権威を帯びて、そして全権をゆだねられて和解の務めを果たすのです。

20、21節の内容をあなたのものとしなさい。それが新しく造られた者なのです。それはみな、神から出たことです。神がなさることなのです。われらは新しく造られた者でありたい。そうなるための条件はキリストの内にあり続けること、そして加えて「古いものは過ぎ去って・・」なのです。

20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

今まで申し上げたことの裏返しが古いものです。主を恐れない、知らない、動機の点では自分のため、人生目的も自分のため、価値観は世の中の判断基準、そして立場はキリストの使節でもなんでもない。肉的、世の中的生き方です。

一言でいえば、罪の生涯です。それを「過ぎ去らせる」のです。このことばは一度限りの意味です。すなわち、人生のある時点できっぱりと古いものを去らせる転機的出来事を予想しているのです。


しめくくり

1.古いものを過ぎ去らせよう!

一つ、古いものを過ぎ去らせよう!古いものとは、罪の生涯です。

2.一皮一皮むけよう! 

二つ、一皮一皮むける者でありたい。芋虫が蝶に変貌するようにです。この新しさは継続が意味されているのです。

最後にもう1度、17節をご一緒にお読みしたいと思います。

17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 お祈り致します。


Written by S. ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2004.1.18