プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年01月18日

山上の垂訓(説教)シリーズ「憎 むことは殺すこと」

竿代 皓子牧師

新約聖書 マタイの福音書 5章21-22節

該当聖句

Mt5:22 

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向か って腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能 なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような 者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

(マタイの福音書 5章22節)


1.「怒り」に対する神のスタンダード

この聖書の言葉にによりますと、ナイフを持って人を殺すと同じ重 さで神は心の中の殺人を扱っておられます。「ちょっと待ってください、神様!」と言 いたくなりますね。「心の中ぐらいは自分の自由にしてもいいじゃない」と思う人は大 勢いると思います。本当に正直に言って、表面はにこやかでも、心の中は鬼のように憎 しみで一杯ということは良くあることです。心は人間同士の営みでは見えないからこそ 、この社会が平和に保たれているのは本当です。もし、相手の本心が見えるとしたらも う平和は望めません。にこやかな顔の表情に覆われ、滑らかな言葉によって包まれてい るからこそ、社会は偽りの平和で保たれていると言えましょう。このような神の標準で 私たちの心の営みを計るとしたら、私たちは何人の人を殺しているでしょうか。考える だけでも恐ろしいことです。

2.なぜこのように高い標準を神は人間に要求なさるの か?

(1) 理由1  人間が抱えている問題の深刻さを教 えるため

私たちは正直に人の現状を見るときに、人は癒しがたいほど「憎し み」に支配されていることを認めないわけにはいきません。聖書に書かれている一番最 初の人類の罪は、「兄弟殺し」です。創世記4章1節から16節に兄カインが弟アベル を殺した記事が書かれています。その殺人の動機は 「カインの捧げ物よりもアベルの捧げ物のほうが神に 受け入れられた」ための嫉妬でした。この兄カインの心の動きを観察する ときに、心の中に生まれた嫉妬の感情を正しくコントロールしなかったゆえに、ついに 自らの手を持って弟を殺すと言う行為にまで至ったことが分かります。このことからも 分かるように心の中のこの暗い嫉妬の炎は人間にとって最もコントロールの難しい課題 です。私たちも「嫉妬」の炎に身を焼かれるような経験をしている人は大勢いると思い ます。

嫉妬の感情ばかりではなく、人を馬鹿にすること、能無しと言った り、愚か者と言ったりする高ぶりの気持ちも−口には出していわなくても、時々口で言 ったりしますが−神は厳しく戒めています。なんと多くの場面で私たちは他人を心ひそ かに裁いて、馬鹿にしている者です。これも人を殺す行為であると言っています。夫婦 の間で、親子の間で、兄弟で、仲間同士で、私たちはお互いを馬鹿にし合っていること が多いのではないでしょうか。普段は上手に隠していても、なんかの拍子に「あんたは 馬鹿ね」と言って、本当に傷つけてしまう大失敗をして、心から悔やむ経験をなさった 方も多いのではないでしょうか。到底回復しない人間関係は私たちを苦しめます。

このように神は心の中にあるこれらの憎しみや高ぶりがどんなに危 険な事態を引き起こすかご存知なのです。隠していればいいという程度では済まされな い非常に危険な罪を心の中に養っている恐ろしい状況にあることを神は教えようとして おられます。私たちも「言葉が人を殺すこと」を良く知っています。

この憎しみの感情が自分に向かったらどうなるでしょうか。自分が 嫌い、自分を愛せない大勢の人は、鬱になったり、果ては、自殺をしたりとなるのです 。これらの危険な状況をまず知らせようとの意図がこの高い要求となっていると言えま しょう

(2)理由2 これらの高い要求は自分たちではなく、 神へと導くため

ある老クリスチャンが、「信仰を持ってすぐの時、この山上の教え に来たとき、到底人間には不可能であると知った。どうしてこのように人間に不可能な ことを神は要求なさるのか、本当にそれに到達できない自分に苦しんだ」と述懐されま した。その後5年ぐらい苦しみつつも信仰の先輩方に励まされ、ようやく神はそれを可 能としてくださることができるからこそ、私たちを招いておられると知ったということ です。

神は人間の現状を良くご存知です。自分ではどうすることも出来な い恐ろしい心の動きの奴隷になっているのです。人類はこの奴隷状態から開放される救 いが必要です。神は人の現状を知らせることによって、神に目を向けるようにしておら れるのです。そのために遣わされたのが主イエス・キリストです。彼は私達に自分の力 によってではなく、彼の命に、彼の人格につながるこ とによって恐ろしい憎しみから解放され、神の愛によって生きるものと変えようとして おられるのです。       

キリストは私たちを招いておられます。マタイの福音書11章28節か ら30節を開きます。

マタイの福音書11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人 は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた方も 私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからで す。

3.おわりに

私のくびきを負って、私から学びなさいという招きに応じるのが解 放への道です。主のくびきを負うとは彼の教えと導きに従うことです。これ以外に私た ちは「憎しみ、嫉妬」から解放される道はありません。主に従いましょう。


Message by Rev.Hiroko Saoshiro, pastor of IGM N akameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/January 18,2004