礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年2月15日

マルコの福音書連講(30)

「少女よ、起きなさい」

竿代 照夫 牧師

マルコ5章35-42節

中心聖句

41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ(少女)、クミ(起きなさい)。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

(マルコ5章41節)


始めに

 前回は、病気の娘を直して欲しいと懇願した一人の会堂管理者の物語でした。その家に急いでいたイエスとその一行が、娘の死という報告に接したときのイエスの落ち着き、その落ち着きを会堂管理者にも分かち与えようとした言葉を鍵として学びました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」誠に私達の腹の底にずんと響くような聖言です。

 今日は進んで、イエスの行われた奇跡に焦点を当てます。


A .励ましなさるイエス(35-37節)

35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。

1.娘の死のニュース

 道を急ぐ主イエスとヤイロ達、でも長血の女性の一件で少し時間が取られてしまって、気が気でないヤイロ、そのヤイロの所に最悪のニュースがもたらされました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。」でもこのニュースをもたらした人は余分な言葉を加えました。「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。

 よく考えると、こんなコメントは余分です。彼は事実を報告するためだけに家から遣わされてきたのです。主イエスがこれによって訪問を止めなさるか、なさらないか、それは主イエスのご判断に委ねればよいのです。ああ、如何に屡々私達も「神様、あなたはこの辺まではお出来になるでしょうが、この辺を過ぎたらあなたといえどもご無理でしょうね」と言って、神の全能を制限するようなお祈りをしてしまうことでしょうか。反省させられます。

2.主イエスの励まし(恐れないで、信じていなさい)

 家からの使いは、小声でリポートしただけの積もりであったと思いますが、イエス様には聞こえてしまいました。その否定的なコメントも一緒に。「恐れないで、ただ信じていなさい。」とは、恐れと動揺、失望と悲しみの色をヤイロの顔の中に見られたからなのでしょう。

 この物語だけではありませんが、色々な出来事に接する時の主イエスの不思議なような落ち着きを感じます。取り乱すような所が一切無い、あらゆる悪しきニュースにも、落ち着いて対処なさいます。詩篇112:7に「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」とあります。私の大好きな聖言です。

 主イエスは父なる神の最善の摂理を信じておられたからこそ、「悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがなかった」のでしょうね。この落ち着いた気持ちをヤイロにも求めておられます。「恐れないで、ただ信じていなさい。」、つまり、「悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」ようにと励まされたのです。主イエスはキリストであって、死人をも活かす力あるお方であると信じなさい、と語っておられるのです。更に、「ただ信じていなさい」、と「信じ続けなさい」というのが主イエスのご命令です。

3.三人を選ぶ

 このニュースを聞いて、主が取られた行動はやや不思議です。随行する12弟子、その他の群衆を皆止めてペテロヤコブとヤコブの兄弟ヨハネに絞り、そのほかは、「だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。」のです。多分、これから始まる大きな霊的な戦いを覚悟しての行動であると思われます。興味本位で、噂好きの群衆がどのような誤解をするやも知れず、真剣勝負には心を許した3人の随行で止めなさったのです。

 この三人は後の記録の為の証人という役割をも期待されていました。ついでながら、この三人が特に選ばれてイエスと行動を共にした事例は他にも幾つかあります。変貌の山(マルコ9:2 「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。」)、ゲッセマネの園(マルコ14:33「そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。」)、などイエスが真剣な営みをしようとするときにこの3人がインナーサークルとして選ばれました。


B.叱りなさるイエス(38-40節)

38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、

39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。

1.軽薄な嘆きを叱る

 会堂管理人の家に到着された主イエスは、「人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり」ました。ユダヤ人の習慣として、人々の死を悼んで大声で泣きわめくのが正しいマナーと考えられていました。中には悲しさを演出する為に泣き女を雇ったり、笛を吹く人を雇ったりしてムードを盛り上げる、そう言った場合もありました。

 主イエスが叱られたのは、こうした空騒ぎ、嘘泣き、ムードの演出です。しかし、それ以上に主は「子どもは死んだのではない。眠っているだけです。」という不可解な言葉を加えられました。ある注解によると「死んではいるが完全に死の力に支配されていない。つまり、眠っている状態に近い」という意味と解釈します。

2.人々の嘲笑

 何だこの客人は、何も分かってはいないで涼しい顔をして、と言わんばかりに人々は嘲ったと記されています。主イエスの力、主イエスのどなたであるかを全く知らない人々の反応としては自然かも知れません。でも、彼らはイエスの評判に全く無知であったとは考えられません。少なくとも「あのイエス様がああおっしゃるのだから、何か意味があるに違いない」位の控えめさがあって良いのではないかと思いますが如何でしょうか。

3.少女の部屋へ

 ともかく主イエスは、この空騒ぎを鎮め、みんなを追い出したのです。この逐い出したという言葉は、宮聖めの時に商売人を追い出したと同じ動詞です。厳しい権威のある言葉に、人々は圧倒されて従ったのでしょう。中に入ったのはイエスと3人の弟子、ヤイロとその妻、合計6名であった、と記されています。大きな奇跡が起きようとしていました。


C.命令なさるイエス(41-43節)

41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ(少女)、クミ(起きなさい)。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

1.「タリタ・クミ」(少女よ、起きよ)

 主は直ちに少女の所へ進み行き、固くなった少女の手を取って、一言「タリタ・クミ!」(少女よ、起きよ)と命じられました。この言葉が余程ペテロにとって印象的であったのでしょう。ペテロの弟子マルコは主の使われたアラム語をそのまま記録しています。

 序でながら、イエス様の言葉はアラム語です。でも聖書の読者を意識してそれを殆どギリシャ語に置き換えて記録しているのですが、この時ばかりはアラム語を残したのです。少女はたちまち起きあがり、歩き始めたのです。その驚きはたちまちそこに居合わせた人々に電撃のように走ったとマルコは活き活きと描写しています。たちまちというマルコ特有の言葉がこの節に2度も使われていることから、その劇的な様子が彷彿と伝えられます。

2.「誰にも語るな」

 誤ったメシア待望に、しかも時ならぬ時に火を付けることを警戒されたイエスは固く口止めされました。この記録は後になって語られ始めたと見るべきでしょう。

3.「食事を与えよ」

 奇跡の興奮に浸ることなく、淡々と実際的な道を歩み給うたイエスの平常心を見ますね。奇跡によって復活したけれども、奇跡に頼って生活するのでなく、当たり前の栄養補給で生きて行くのだよ、と非日常から日常への切り替えをさっさとなさるのです。

 五つのパンで五千人を養いなさったその直後に、余ったパンを集めなさいとの命令をされた出来事とも共通しています。偉大な信仰が常識とマッチして進んで行かれたイエス様なのです。みんなが興奮して手を取り合っているときに、「食事を与えなさい」等と、実に心憎いまでの配慮です。マルコだけがこの言葉を記録しています。

 私はこんなイエス様が好きです。マルコのニュースソースであったペテロもこの言葉は印象深く覚えて居たのでしょう。大きな奇跡を涼しい顔をしてやってのけ、またいつもの道を進み給うイエス様。譬えては申し訳ないのですが、マリナーズのイチローがホームランを打った時のインタビューと似ていますね。イエス様のケースはもっと素晴らしいのです。


終わりに

 余り比喩的に捕らえてはいけないかもしれませんが、このイエス様のご命令の中に「特別と普通、奇跡と日常、転機と継続、神の干渉と人の役割」という幾つかの対比を見る思いです。

1.命を与え給う主を捉えよう(エペソ2:1-6)

 私達は霊的な意味では、罪と咎との中にあって「死んでいた」ものです。しかし主は大きな憐れみの御手を伸べて、「タリタ、クミ」(ではなくて、「おじさん、またはおばさん、クミ」)といって死から命に移して下さいます。エペソ2章はこの出来事を生き生きと描写しています。

エペソ 2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、---あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。 -- 6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

私達の魂を活かして下さるキリストの御力を信じましょう

2.聖言のご飯を日々頂こう

 この魂を活かす奇跡を行いなさる同じ主イエスは、「食事を与えなさい」と、普通の営みの大切さを強調なさった主である事も覚えましょう。奇跡によって活かされる面と、日々の地道な養いによって成長する面と、私達クリスチャンは二つの成長要素を持っている事を覚えたいと思います。

 み言葉と言う御飯によってのみ私達は成長できます。強くなれるのです。私達はとかく神の特別な干渉を祈ってそれだけで終る事があります。主は祈りに応えて助けて下さいます。同時にその同じ主が、ちゃんと食事をして強くなりなさい、と命じておられます。日々の聖書の学び、思いめぐらし、祈り、という地道な営みによってのみ私達は強くされるのです。この事を忘れずに、進みたいと思います。お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.2.15