プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年2月15日

山上の垂訓(説教)シリーズ「目に は目と歯を」

山口 謙 ユース・ディレクター

新約聖書 マタイの福音書 5章38節

中心聖句

  マタイ 5:38『目には目を、歯には歯で。』と言われた のを、あなたがたは聞いています。

5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者 に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい 。(マタイの福音書 5章38−39節)


旧約聖書にヤコブという人がでてきます。知っている人も多いかも しれませんが、彼は自分の兄を出し抜いて、長男の権利を奪い取ってしまいました。そ れだけでなく、父親からの祝福まで奪い取りました。怒った兄のエソウは彼を殺そうと しました。それを知ったヤコブを偏愛している母親は、ヤコブを自分の兄、つまり彼の おじさんの家に逃げるように仕向けました。その途中で彼が野宿をしていると夢を見ま した。長い、長いはしごが天と地上を結んでいて、天使たちがそれを上り下りしていま した。ふと気がつくと,彼の傍らに神様が立っていました。そして「あなたを祝福し、 あなたの子孫を祝福し、いつでも、どこでもあなたとともにいて、決してあなたを捨て ない」と言いました。彼は本当にびっくりしたでしょう。さんざんお兄さんを出し抜い て、悪いことをしてきて、なんとかそのお兄さんから逃げている途中なのに、神が夢に 現れて、「お前を祝福する」というのです。おそらく彼の持っていた神様のイメージは 怖い、裁く神というイメージだったのではないでしょうか? 彼は自分の兄から逃げて いましたが、その怖い神からも逃げていたのかもしれませんね。しかしその神が、そん な彼に「お前とともにいるよ、祝福するよ」と言ったので、彼の神に対するイメージは まったく変わってしまいました。

イェス・キリストもそんな既成概念をくつがえす人でした。という よりもその当時の常識をまったくひっくり返すような存在でした。わたしたちは昨年の 秋から、彼の説教を一緒に学んできていますが、その説教はわたしたちの常識とも異な りますよね。その当時の人々はそれまで、ユダヤ教の教えに従って、一生懸命そのキマ リを守ることによって救われると信じていました。今でも厳粛なユダヤ教徒は色々なキ マリを守っています。たとえば彼らは安息日(土曜日)には仕事をしません。単純に仕事 が休みなだけでなく、いわば動くことをしません。旅行はもちろん、車に乗らず、料理 は作らず、電気器具は使用せず(またはスイッチをさわらず)、金は使わず、ペンも持 たず、この一日を他の週日と区別します。もともと旧約聖書の時代には電気はなかった わけですが、火を使うことを禁じていたので、それを拡大解釈して、電気を使ってはい けないことになりました。そうすると、どういうことになるでしょう。例えば、安息日 に電気のブレーカーが落ちたとします。でも、彼らはそれを元に戻すことはできないの です。だから土曜日が終わるまで待つか、ユダヤ人でない人を探さなくてはいけません 。大変ですよね。で、実際にこういったことがホテルとかでも平気で起こるそうです。 その当時の人たちも、そういった細かなきまりをひとつひとつ守れば神に受け入れられ ると信じて、一生懸命調べて守っていました。

でも、イェス・キリストはそんな彼らのユダヤ教的既成概念をぶち 壊しました。そして神は本当は律法を通して何を表そうとしていたかということを身を もって示していきました。そして神が神のレベルで神のルールである律法を守ることを わたしたちに要求していることを示しました。

もしわたしたちが人をにくいと思ったら、『殺してはならない』と いう律法を実際に犯してはいないけれども、心の中ではすでに人を殺しているのと同じ である。また、情欲を持って女性を見たならば、それは実際に姦淫を犯したのと同じで あると語りました。

そしてイェスは同じように有名な律法について語りました。『目に は目で、歯には歯で』という律法です。これは旧約聖書の出エジプト記というところに でてきますが、争いごとについて、特に殺傷事故について書かれているところです。

もし誰かが目を失ったら、失わせた人は目を持って償わなければな らない。同じように歯を失ったら歯で償うということです。しかしこれに対してイェス は『右の頬を打たれたら、左の頬を。下着を取るものには上着を。そして、1ミリオン 行けと強いるものには、一緒に2ミリオン行け』と言いました。

すごいことを言ってますよね。僕の知ってる牧師で、アーサー・ホ ーランドという牧師がいます。彼はアメリカ人と日本人のハーフで、もと全米のレスリ ングチャンピオンという経歴を持つ人なのですが、牧師です。いつも革ジャンを着てジ ーンズで、蛇革のブーツを履いて、ハーレー・ダビッドソンというおっきなバイクに乗 って走り回ってます。しかもしゃべるととんでもないと思うようなことを言います。彼 が言わせると、今日の聖書の箇所のところは『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさ いなんて、俺にはできない。俺は殴られたら何倍にもして返して、ボコボコにしてから 、神よ彼を哀れみたまえって祈る』だそうです。まぁ実際にはそうするかは別として、 彼はすごく自分に正直だと思います。彼は建前をいわないで、本音をズバッと言うタイ プの人です。まぁ、彼もそういった意味では、今までの牧師という既成概念を打ち壊し てますよね。

彼の言っていることはある意味本当だと思います。だって、普通に 考えて、右の頬を打たれたら、反射的に殴り返すかなにかの反応をしてると思うんです よ。皆さんも小さいころにけんかをして泣いて帰ったら、親に「殴り返してらっしゃい !」って言われたことありませんか? また、すごく強い復讐心を持っている方もまれに いますよね。「自分がこんな風になったのは例えば、親のせいだ!」と思って、いつか 復讐してやると心に誓って生きている人って少なくないですよね。やられたらやり返す 。それが現実のわたしたちの姿だと思います。

実は神様もそういう方です。そういうと皆さんびっくりするかもし れませんが、神様の原則のひとつに因果応報というか『刈り取りの原則』とでもいうべ きものがあります。種を蒔けばその実を刈り取るという原則です。

"人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、"ガラテヤ人への手紙 6:7b‐8a

"罪から来る報酬は死です。" ローマ人への手紙6:23a

しかしこれら二つのことばはここで終わってません。続きはなんと 言っているでしょうか?

"人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るので す。"ガラテヤ人への手紙 6:7b‐8

"罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリスト・イェスに ある永遠のいのちです。"ローマ人への手紙 6:23a

これら二つの聖書のことばは何を言ってるのでしょうか? それは、 わたしたちは自分の罪の刈り取り、神からの復讐を受けなくてはならない存在なのに、 神はイェス・キリストの十字架での死を私たちの身代わりの死として、つまりイェス・ キリストが神からの復讐、罰をわたしたちの代わりとして受けてくださって、わたした ちはただそのことを信じるだけで、永遠のいのちを与えられるというのです。そんなう まい話があるわけがないと思うかもしれません。でも、神は自分のひとり子であるイェ スを犠牲にしてまでわたしたちを愛し、救いを用意してくださったのです。神の愛はそ こまで深く、完全なのです。

だから、あえて神はわたしたちに自分で復讐をするなといっている のです。神は復讐されるべきあなた方を自分の御子を犠牲にするほどの愛で愛してくだ さっているのだから、復讐はしなくてもいいだろう?とわたしたちの語っているのです 。別の箇所で  

"愛する人たち。自分で復讐してはいけません 。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのするこ とである。わたしが報いをする、と主は言われる。」" ローマ人への手紙 12:19

神が復讐よりもわたしたちに求めたのは神と同じ完全な愛で他人を 愛することだったのです。

実際、自分のことを嫌いな人がいて、陰で自分の悪口を言ったとし ます。それを聞いたあなたは頭にきて、その人の悪口を倍にして、おそらく必要以上に 悪く言うでしょう。そうすると相手はさらに悪く言ってくるでしょう。わたしたちは実 際には『目には目をで』で収まらず『目には目と歯を』というかたちで必要以上に返し て、神のルールを破っているのかもしれません。果たしてその関係が平和をもたらすで しょうか? その選択が豊かな生き方につながるでしょうか?

それよりも何か悪いことを言われたときに、フゥーッと深呼吸して 、ひとこと「神よ」と祈り、『自分もその人も弱さをもった人間で、罪人なんだ、自分 はただ赦されている罪人に過ぎない』と思えたら、その人との関係が平和に一歩近づく のではないでしょうか? その関係に神の愛が表されるのではないでしょうか?

さぁ、わたしたちはどちらの生き方をすべきでしょうか? 『目には 目、歯には歯』の生き方ですか? それとも『左の頬も向け、上着も与える』ような神 の愛を表す生き方ですか?

"わたしたちは愛しています。神がまず私たち を愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人 は偽り者です。目に見える兄弟を愛していないものに目に見えない神を愛することはで きません。"  ヨハネの手紙第一 4:19−20


Message by Bro.Ken Yamaguchi, youth director of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka ;Feb.15,2004