礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年2月22日 マルコの福音書連講(31)

「郷里で福音を伝える」

竿代 照夫牧師

マルコの福音書6章1-13節

中心聖句

6:4  マルコ6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、 親族、家族の間だけです。」

(マルコの福音書 6章4節)


はじめに

1.前回は、12歳の少女が生き返らされた出来事から、私達に命 を与え、保ちなさ る主イエスについて学びました。今日は進んで、イエスの郷里伝道に焦点を当てます。

A .ナザレへの帰還(1節)

マルコ6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たち もついて行った。

1.ナザレ

ナザレは、ゼブルンに属した豊かな耕作地帯の一部、しかし旧約聖 書には一 度も出てこないへんぴな町でした。

ヨハネ1:46「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

という言葉に代表されているように、ナザレとは軽蔑の対象でもあ りま した。しかし、ナザレは世界から隔絶されていたわけではなく、肥沃なエズレル平原 の一部であり、メギドの丘も見渡す豊かな自然に恵まれていました。町の近くの街道 は東北はガリラヤからダマスコへ、南はサマリヤからエルサレム、そしてエジプト へ、西は地中海沿岸のトレマイへと続く交通の要衝でもありました。

2.主イエスの故郷

ナザレは主イエス様の故郷でした。両親がナザレの人であり、誕生 の時は別とし て、幼少期から青年期をそこでひっそりと過ごしました。自然に恵まれ、世界から隔 絶はされないが、巻き込まれもせずと言う環境で、静かに、しかし世界の動きを良く 見ながら成長されました。友達も大勢いたことは疑いもありません。

その故郷へ青年預言者として戻って説教することを計画されたので す。マル コのこの記事とルカの福音書4章は大変類似していますので、それを同一事件と見る聖 書学者 と、別々の出来事と見る学者がありますが、私は別々と見て良いのではと思います。 細かい点で大きな差があり、順序から言っても、ルカのそれは伝道の初期、マルコの それは中期にあるからです。別々とすれば、マルコの記事は、二度目のそして最後の 故郷伝道の記事と言えましょう。としますと、ガリラヤ全土で広まったイエスの評 判、多くの人がこれこそ神の子キリストではなかろうかと囁き始めた、その名声を背 景にした故郷帰りと言うこともできます。

B.会堂での教え(2−3節)

マルコ6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それ を聞いた多くの人 々は驚いて言った。『この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に 与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何で しょう。

1.安息日の礼拝

1) 礼拝への出席 ルカの福音書4章にも記されていますように、主 イエスは、安息日にユダヤ人会堂で行われる公的な礼拝を大事に考えておられました。 そこでは(旧約)聖書が読まれ、 詩篇などが歌われ、説教がなされていました。最初は礼拝への招き、シェマー(「イス ラエルよ聞け」から始まるユダヤ人の基本信条の唱和)、定型的な祈りから始まり、 祝祷で終わる極めて儀式的なもので、今日のキリスト教会の礼拝の原型です。形式主 義に陥っていた嫌いがなくはないのですが、それでもイエスはそれを重んじておられ ました。郷里であるナザレに戻り、30年近く通い慣れた会堂に入り、小さいときか らの仲間である人々と共に守る礼拝は、イエスにとってどんなに大きな喜びであった ことでしょう。

2)説教の当務 パウロの場合もそうでしたが、主イエスもラビ( 教師)という、律法をしっかりと学び、それを人々に教えるという資格です。そのラビ は 普通の人と違った服装、肩掛けのようなものを来ていました。誰も客人がいない場合 には、会堂管理人が地元のラビに輪番を頼むのですが、特別な講師が現れると、その 人に勧めを頼むというのが一般の習わしでした。それを主イエス様も利用し、パウロも 利 用したわけです。

2.人々の驚き

1)その知恵に対して:主イエス様が話し始められると、人々は、彼 の知恵深さに感動しました。主イエ ス様の語られる言葉の一つ一つに、深い聖書の知識と洞察とその中に貫かれている神の 恵を感じたのです。ルカの福音書4章22節には「恵みのことば」とも記されています 。聖書を 知っているというのは聖書の字面をなでているのではなく、その根本である神を知 り、神の命に溢れ、神の恵みを一杯に受けているという不思議な感動を与えるものなの です。

2)その不思議と力に対して:更に人々が驚いたのは、主イエス様の 力です。彼らの目の前では、慎み深く振る 舞っておられましたが、離れたところでは病人を癒し、足の悪い人々を歩けるように してやり、盲人の目を開くなど、多くの良き業にはげんでおられたことはユダヤ、サ マリヤ、近隣の町々、村々に有名でした。その片鱗をみた思いだったのでしょう。一 体どうして、という思いが彼らのこことに入り込んだのだ事実のようです。ですから 彼らのディレンマが良く分かります。

3.人々の躓き(3節)

マルコ6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤ コブ、ヨセ、ユ ダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるでは ありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

1)平凡な地位の故に:故郷の人々は主イエス様の知恵と恵みと力に 感服しました。そこで神を誉めれば良 かったのです。主イエス様を神の子、キリスト とまでは認めなくても、偉大な預言者、何 か良く分からないけれども、神の力が加わって偉大な人になったものだ位には考えら れなかったでしょうか。残念ながらそこまでも行かなかったのです。主イエス様が平凡 な 大工であった、自分達と一緒の学校で学び、野山を駆け回り、魚を釣ったあの普通の イエスが、こんなに立派な説教をする人間になったことが理解できなかったのです。断 っておきますが、大工が特に卑しい仕事だったからではなく、変わり映えのしない普 通の仕事だったからでした。こんな普通の人間が、神の権威を帯びて堂々と人々の 前で語り、あっと驚くような奇跡を行うことが理解の外だったのです。

2)平凡な出自の故に

更に、彼らはイエスの母や弟や妹たちを良く知っていました。どう してヨセ フの名前が出ないかというと、彼はかなり早く他界していたようでした。いずれにせ よ、私達と全く変わらない家庭背景をもったあのイエス君が変われば変わったもの だ、と言う認識しか持てなかったのです。悪いことには、分からなければ分からない なりに、不思議だなあ、後で分かるだろうという所当たりで止めれば良かったもの を、こんなことは有り得ない、あるとすれば、それはイエス君が気が触れたからに相違 ない、という結論に短絡したことなのです。それが彼らが主イエス様に躓いたと言う意 味 です。

C.主イエスの嘆き(4−6節)

マルコ6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されない のは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

5:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず 、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

5:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近 くの村々を教えて回られた。

1.「預言者は故郷で尊敬されない」

1)この反応に主イエスは大いに嘆かれました。予想された反応で あり、しかもルカ 4章の出来事が前にあったと仮定しますとそれが繰り返されたからです。「預言者は 故郷で尊敬されない」と言う言葉は旧約聖書には出てきません。ですから、主がここ で言われたのは、人々の間で言われていた諺の引用であると思われます。灯台もと暗 しと言う諺もありますが、大きな光の一番近くにある灯台の真下が一番くらいと言う ことはあり得ます。私達クリスチャンはイエス様のことを良く知っている、という自 負を持ちがちですが、良く知っていると思う人ほど盲目である、という逆なりの真理 もあることを警戒したいと思います。

2)ただ、例外なくそうであるかというと例外は多くあります。た とえばパウロの例 です。かれは救われた後故郷のタルソに戻って自分の証をし、多くの人は彼の故に神 の聖名を崇めました(ガラテヤ人へ手紙1章21−24節)。逆に郷里以外の所では必 ず尊敬さ れるかと言うと、そうでもありません。アナトテ出身のエレミヤは、エルサレムで迫 害されました。このように、「預言者は故郷で尊敬されない」という言葉は一般的傾 向を指すものではあっても、例外のない鉄則ではないようです。主もその意味で使っ てはおられません。

2.ナザレ人の不信仰

主が嘆かれたのは、ナザレ人の「不信仰」です。主イエス様はあま りにも人同 じ姿になられた、そのイエス様が同時に神の子であると言うことがあるはずもない、あ るべきでない、想像もできないと決めつけている態度なのです。それはありとあらゆ る奇跡をなし給う神の全能への不信仰です。私達も、小さな常識と過去の経験から、 こんな事は置き得ないと決めつけて、神の全能を疑ってしまうことが如何に多いこと でしょうか。反省させられます。

3.イエスの業の限界

その不信仰故に、主は力ある業をなすことが出来ず、数人の病人に 手を置い て祈るのみであった、とマルコは淋しげにコメントしています。主イエスはもっと淋 しかったに相違ありません。

おわりに

1.身の回りに福音を伝えることは易しくない

私達の主イエス様でさえ、郷里伝道に困難を覚えられたのですから 、まして 私達が私達を良く知っている友達や家族に伝道することに困難を覚えない訳がありま せん。

2.しかしこれは重要であり、不可能と諦めてはならない

では、難しいから諦めるべきなのでしょうか。決してそうではあり ません。

友達や家族は私達にとって貴い、愛すべき存在です。それらの人々 が滅びに向かうこ とは本当に悲しい、辛いことです。困難はあっても、それらの愛すべき魂に福音を伝 えましょう。私もこの年になって、中学や高校などの同窓会に出るようになりまし た。その様なときに遠慮なく福音を語ります。教会に誘います。機会を逃してはなら ないと思うからです。

3.郷里伝道は大きな祝福をもたらす

困難と思える郷里伝道ですが、大きな祝福をもたらすことは間違い ありませ ん。主イエス様の母、弟たち、妹たちは、イエスの復活後、熱心なクリスチャンにな り、教会の柱ともなりました。希望を捨ててはなりません。真実に福音を伝え続けま しょう。お祈りいたします。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/February 22,2004