プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年2月22日

山上の垂訓(説教)シリーズ「敵を 愛する」

井川 正一郎牧師

マタイの福音書5章43−48節

中心聖句

マタイ5:43   『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いてい ます。

5:44   しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈 りなさい。

(マタイの福音書5章43−44節)


はじめに

みなさんこんにちは。プレイズ・ワーシップでは山上の説教の話が 続いています。山上の説教は一言で言えば、天国の民=御国に相応しい民の基準はどう いうものかを示すものであります。

目には目を、歯には歯を。山上の説教でクリスチャンが求められる 姿が描かれています。意地の悪い人は、クリスチャンに「左の頬を打たれたら、その反 対の頬も打たれるのだよね。それじゃ、今から殴るから、殴ったら、もう一方の頬を出 せよ。クリスチャンって、そういうものなんだろ!」と迫ります。

人々はキリストが知らせたい真の意味をなかなか理解しないのであ ります。

きょうの箇所もなかなか理解しがたいところです。「自分の敵を愛 する」、「迫害する者のために祈りなさい」。クリスチャンの人でもなかなか理解でき ないのです。あるいはいかなる意味で、どうすることがこのみことばにふさわしいこと になるのか、理解しがたい、本当にできることなのか、疑問に思います。敵を愛すると は、迫害する者のために祈るとはどういうことでしょうか。

まず主イエス様がこのみことばを仰せになったその意味を、そして 、その上でこのみことばの内容を具体的にできるものかどうか、考えたいと思います。

1)自分の敵、迫害する者

まず、自分の敵、迫害する者についてです。このような者を愛する ことは難しいのです。

直訳は「あなたがたの敵」であります。敵とは誰かと言いますと、 これはあなたがたから見ての敵ではなく、あなたがたを敵とみる人々の意味。御国の民 にとって本当のところ敵はいません。ただ、自分達を敵とみなす人々がいるだけです。 主はそのような人々に対してでさえ、愛し、祈るように励まされました。愛するとは、 感情的なものよりも、自らを犠牲にしても相手の益を図ることであります。

迫害は政治的権力によってするものもありますが、同時に有人や家 族といったみじかな人々によってなされるものもあります。特にこのみことばは、現在 形で「現に迫害しているものたちのために」であり、「祈りなさい」も現在命令形。つ まり、主は一般論を言っているのでなく、具体的な人々を想定して語っておられるので あります。

2)相手の態度、状況などに左右されない

第二番目に、このみことばの意味は、相手の態度、状況、いかなる ことに対しても、御国の民は決して左右されないということであります。相手がどんな 態度を取ろうが、どんな状況にこちらを追い込んできても、これに対する我らの姿勢が 変わらないことが求められています。悪いことば、態度で臨んでこようが、良い好まし い態度で臨んでこようが−このほうが気持ちがよいことはたしかですが−その人に対す る姿勢は変わらない。すなわち、愛の心をもって接することです。具体的に言えば、悪 い態度で接する人に対しても、心寛大に接することなのであります。

3)相手の人に対しても、イエス・キリストが十字架 にかかって下さったと理解する

三番目ですが、相手の人に対しても、キリストが十字架にかかって 下さったと理解することであります。同じ様なことが5章45節にあります。神は彼らの 上にも変わらずに、平等に雨を降らせ、太陽を上らせます。彼らの収穫は良いものの収 穫と同じくらいに豊かです。神の態度は私たち人間の中に何があるかというものにとら われずに、むしろ私たちの状態とは全く関わりなく、変わらない姿勢をもって愛するの であります。神は私たちをみて、美しいものがあったからとか、愛するに相応しいもの があったから愛したのではなく、かえって、その存在自体に愛を感じて注いで下さいま した。外部の何かに左右されない、まったく変わらない愛なのであります。

4)可能にするのは、御国の民として造られること

結局、これを可能にするのは、御国の民として造られることであり ます。主イエス様を信じ、キリストによって、そのような神の愛を知り、これが神の愛 と知り、それを注ぐことができるように変えられることであり、それが出発点なのであ ります。すぐに完成するのではなく、失敗を重ねながら、でも、キリストに変えられな いならば決してできないことを、変えられることによって可能になる第一歩をすすめる ことができるのであります。

しめくくり

最後に、私達はなぜこのようにすべきか付け加えたいと思います。

相手を友人とするために、そうするのでしょうか。「あなたが親切 にすれば、きっと相手も親切になる。ヒットラーを相手にしてもそうできる」と考えた 人がいます。果たしてそうでしょうか。

申し上げたいことは、我らに求められていることは実は、相手を友 人にする、親しくなるようにするため、こちらに取り込むためのものでありません。我 らはこうすれば必ず相手がこちらを認めてくれるとか、悔い改めてくれるとの結果を考 えなくともよいのであります。もとより結果論として、そうなることはあるが、我らが 求められている姿は、きょう申し上げたことであります。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」、これがき ょうのメッセージです。お祈りいたします。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/Feb. 22 ,2004