礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年2月29日 マルコの福音書連講(32)

「悔い改めを説き広め」

竿代 照夫牧師

マルコの福音書6章1-12節

中心聖句

Mark 6:12  こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、

(マルコの福音書 6章12節)


はじめに

1.前回は、イエスの郷里伝道に焦点を当て、私達の身の回りの人 々に良き証を立てるべき事を学びました。

2.今日は進んで、主イエス様が十二弟子を伝道の為に派遣された 記事から学びます。

A.派遣(7節)

マルコ6:7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼 らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。

1.誰が?=主イエス様が

6節の後半を読みますと、主イエス様自ら、「近くの村々を教えて 回られた(in circle=円を描くように、つまりしつこく、徹底的に)。」と記されてい ます。 ご自分は郷里のナザレで排斥され、いわば落ち込んでおられた時です。でもイ エス様は落ち込みの中に長くは居られませんでした。積極的に村々を巡って教えをなさ いました。そのご自分の模範があって弟子達を派遣なさったのです。ご自分は引っ込ん でいて、弟子達にだけああしなさい、こうしなさいと口だけ動かしていたのではありま せん。序でながら、この派遣の後の主イエス様の行動を見ると、

マタイ11:1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを 終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。

と、猫の手も借りたい主イエス様がその助け手として弟子達を遣わ しなさったのです。

2.誰を?=十二弟子を

この時弟子団は人数的にも教えの面でも成長しており、主は彼等を 信任されたのでしょう。

3.どのように?二人ずつ

二人二人の6組が出来上がった訳です。弟子達のリストを見ると、 二人ずつの組み合わせて載っています。マタイの福音書では、

マタイ10:2 ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベ ダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

マタイ10:3 トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダ イ、

マタイ10:4 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ ユダである。

とあります。私達も神学院時代のミッションには二人二人で派遣さ れました。ウマの合う人合わない人いろいろありましたが今では良い思い出です。二人 ですと、途中で会話が出来ます。一人が困ると他方が助けると言った助け合いが出来ま す。罪に陥る機会も少なくなります。さらに二人の協力関係そのものが福音の証です。 主イエス様の知恵をここにも見る思いです。

4.何のために?=汚れた霊を逐い出すために(その権威を与えて )

主が与えられた権威は悪霊を逐い出す権威−正確には「悪霊の上に 立つ」という意味−です。この時の弟子たちは未だ頼りなく、信仰も乏しいものでした が、主イエスと共にあったというその権威で充分だったのです。それが病を癒し、悔い 改めを齎す力ともなったのです。私達も弱いものですが、「我弱くとも恐れはあらじ」 という権威がイエス様の故に与えられているのです。素晴らしい事です

B.注意(8−11節)

マルコ6:8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖 一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行 ってはいけません。

マルコ6:9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはい けません。」

マルコ6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家には いったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。

マルコ6:11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あな たがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言 として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

1.シンプルライフ

1)持ち物:杖一本(つまずくことのないため、犬を退けるため) 、くつ(サンダル)、下着一枚だけ

杖一本とは、二人で一本、それに小さな荷物を括り付けるためでも ありました。サンダル(サンダリア)とは、靴底だけでできており、皮紐で踵と足を縛 るタイプのものでした。もともと、これは女性の履き物だったのですが男性にも使われ るようになっていました。マタイの福音書10章9節で持つなと言われているのは、簡便 なタイプではない、今の私達の履いている靴(クルッソン)のようなものです。シンプ ルでよいのだ、と主は語っておられます。

2)持ってはいけないもの:パン、旅行袋、お金、余分な下着

ずいぶん乱暴な派遣のしかたです。配慮のかけらさえないように見 えます。でもここに弟子たちが学ぶべき教訓−ミッションの緊急性と信仰−がありまし た。

まずミッションの緊急性ですが、急いで出発しなさい。準備のため にぐずぐず時を費やすべきではありません、人々が待っているのですから、という緊急 性を感じます。弟子たちもそれを感じたことでしょう。

もう一つは信仰です。福音をまっすぐに伝えれば、感動してパンの 一つや二つ恵んで下さる方が現れるに違いない、それを信じて無鉄砲に見えても進みな さい、という誠に痛快な信仰に立った命令です。三年の神学院時代の夏期実習で和歌山 、浜田、鳥取、佐賀と4ヶ所の開拓を命じられましたが、教えら れたのは、この信仰でした。主は生きておられます。その弟子たちが飢え死にしなけれ ばならないような目には合わせなさいません。

2.泊まる家

家についても主は保証を与えませんでした。クレジットカードもな しに、ホテルの宿泊予約もなしに、ただ行きなさい、だけだったのです。つまり、ある 町には行ったら最初にぶつかった家にアプローチして、その家での居候をあてにしなさ い、と仰られたのです。でも無理矢理の居候ではなく、喜んで彼等を迎え入れることを 約束なさった上でです。マタイの福音書では、もう少し詳しく述べています。

マタイ10:11 どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な 人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい、

マタイ10:12 その家にはいるときには、平安を祈るあいさつを しなさい。

マタイ10:13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はき っとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところ に返って来ます。

と平安の約束を伴わせています。

3.去るべき場合(11節)

マルコ6:11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あな たがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言 として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

1.誰が?=主イエス様が

1)「足の裏のちりを払い落とす」とは、何とも挑戦的な仕草でし ょうか。イスラエル人は外国を旅行した後、自国にはいる前に異教的な汚れを落とすた めに靴の塵を払うという習慣を持っていました。福音を聞かない人を、異邦人と見なし なさいという勧めです。

2)かつて、エバンジェリズム・エクスプロージョンのクラスでは 、sweet exitをする ようにと教わりました。福音を拒む人、受け入れを躊躇する人、どんな人とでも別れ際 は気持ちよくしなさい、後味の悪い別れ方をすべきではない、という意味です。

3)イエス様がここで言われた「足の裏のちりを払い落とす」とい うのはニュアンスが違います。私の責任は果たしましたよ、後は自分で責任をとりなさ い、という証のためなのです。怒りや裁きの心が交じっているわけではありません。こ の教えを実行した例としてパウロを挙げることができます。かれはコリントの町で、

使徒18:6 しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは 着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任 がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。

のです。

C.実行

マルコ6:12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、

13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

1.出ていった

彼らは文字通り、すぐに出発しました。準備もそこそこにさっさと 出ていったのです。何という単純さ、なんという気持ちよさでしょうか。

2.悔い改めを説き

悪い習慣や考え方を悔い改め、ヨハネがしたように、また主イエス が伝えたように、福音を信じるべき事を説きました。しかも「説き広め(=ケーリュッ ソー) 」とありますように、この福音の説教を公に、大胆に、喜ばしく伝えたのです 。

3.悪霊を逐い出し

このために権威づけられていたのですから、悪霊に憑かれた状態の 者達には格別な闘争心をもって近づき、彼らと戦いました。

4.病人を癒した

油を塗ってという表現は聖書では、この他にヤコブの手紙(5章14節 )にあるだけですが、ユダヤ人の間ではかなり一般的に行われていたようです。それは 神の恵と力とを病人に伝達する象徴と考えられていたからです。

5.イエスの評判がいよいよ広まった

6章14節に「イエスの名が知れ渡った」と記されていますように、こ の結果、主の評判が広まっていきました。ルカの福音書1章には、次の伝道旅行ではあ りますが、そこから帰ってきた弟子達の勝利の報告が記録されています。

ルカ10:17 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った、「 主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」。

おわりに

きょうの箇所全体を通して伝わってくるのは、伝道のスピリットの 中でも「喜び」です。涙と共に種を蒔くという面もありましょうが、全体として言える ことは喜 びの精神です。主は喜びをもって村々を廻り、その喜びを味合わせるために 弟子を派遣し、弟子達はその喜びを経験した、とこういう訳です。そのイエス様が私達 をも派遣しておられます。しっかりと神学校で聖書を学んでからでしょうか。違います 。このままの格好で、構えることなく、単純に神の恵と力を証しできます。

1.私達の実践−−−何を?

の苦しみの下に喘いでいる人々、悪霊に魂を明け渡してしまってい る者、病魔に苦しんでいる人々が多くいることを覚え、切迫感をもって福音を伝えまし ょう。私のために救いをなして下さった主を伝えましょう。

2.誰の権威で?

私達を遣わしなさるのは、主イエス様ご自身です。その主イエス様 の権威をもって伝えましょう。自分は小さく価値のないものです。でも遣わして下さる 主は偉大なお方です。愛に満ちたお方です。この方を、知恵と勇気を持って伝えましょ う。お祈り致します。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/February 29,2004