プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年3月7日

山上の垂訓(説教)シリーズ「善行の落とし穴」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マタイの福音書 6章1-4節

該当聖句

Mt6:1 人に見せるために人前で善行をしないように 気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられま せん。

Mt6:2 だから、施しをするときには、人にほめられ たくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけ ません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っている のです。

Mt6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしてい ることを左の手に知られないようにしなさい。

Mt6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうす れば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(マタイの福音書 6章1-4節)


1.プレイズ・ワーシップにようこそおいで下さいました。イエス ・キリストの山上の説教も6章に入りますと、より深く、鋭く私達の心の在り方を探る ような説教になってきます。今日は「貧しい人に施しを与える」という善行がどんな動 機で行われる傾向があるか、どんな動機で行われなければならないか、ということに焦 点が当てられます。

2.主イエス様が第一に述べなさったのは「警戒」です。ユダヤ人達 は神への信仰は一 定の形としての善行に現れるべきと信じていました。例えば貧しい人々への施し、寡婦 や孤児をたすけること、公的な目的のための募金に参加すること等がそれらに含まれて いました。

3.主イエス様の教えは、それらの善行を止めなさいというのでは なく、それらを見せ びらかさないようにという勧めなのです。外形ではなくて動機の問題なのです。他の人 に見られて賞賛を受けるためにするのか、心を見給う神を意識してそれを静かに行なう かの問題なのです。

4.人に誉められるための善行は、非常に自己中心的なものになり やすいのです。それは偽善という悪でさえある、と主イエス様は言っておられます。偽 善とは英語でヒポクリシーと言いますが、これはギリシャ語のヒポクリノマイから来て います。仮面の下で答える、ということで、当時の役者が仮面を被って劇をしたことか ら来る面白い言葉です。ヒポクリテースはその名詞で役者という意味です。役者は自分 がどんなに悲しくても笑いの仮面を付けて楽しそうに演技し、自分がどんなに楽しくて も、悲しい仮面をつけて悲劇を演じることもできる、つまり、自分の本質を偽って表現 することができるのです。そこから、自分の本質を隠して本質とは違った印象を与える 行動を取ることを偽善者をも指すようになりました。

5.イエスの時代の宗教指導者であるパリサイ人達は、善人を気取 ってシナゴーグと か通りの中心とか、人々の集まりやすい所で文字通りトランペットを吹き、関心を集め 、それから貧しい人々にこれ見よがしにお金を施しました。トランペットは慈善のため の資金集めという意味もおっていたと思われます。その目的は明らかに人々の賞賛を得 るためなのですが、イエスは賞賛を得ることが彼らの目的ならばその目的は達せられた ではないか、もう報いは充分に受けたよ、だからこれ以上の報いは期待できないよ、と 語っておられるのです。ケニアではハランベーという金集め大会がなされますが、正に こんな調子の金集めです。世間的に「偉い人」が賓客となり、人々は列を作ってその人 の前に並び、一人ずつ献金をします。その賓客は一人一人について名前と金額をマイク で叫びます。金額が大きいと大拍手、小さいとまばらといった、大変即物的な金集めで す。悪いことには、教会堂を建てるときもこの方式でやる場合が少なくないことです。

6.右の手の業(わざ)を左の手に知らすな、という主イエス様の 勧めは、ことほど左様に、私達の善行は他人に知らせないようにするどころか、自分自 身でも気が付かないくらい、静かに行いなさい、という意味なのです。私達の行為だけ ではなくその心までも見ておられる神に喜ばれることのみを純粋に願ったものでなけれ ばならない、と語っておられます。「隠れた所で見ておられる神」という言い方はとて も含蓄のある言葉です。もちろん、目立つような奉仕とか活動も見ておられるのですが 、格別に、他の人が誰も見ていない状況での行動、誰も見ることのできない心の動きを 見て、探って、心に留めることが得意であられるのが父なる神です。「隠れた所で見て おられる神」をどれだけ意識するかしないかが、その国民の道徳水準を決める決定的要 素だと思うのですがいかがでしょうか。

7.ですから私達の善行に、報いを求めるような卑しい動機がひと かけらも混じってはいけないのです。報いを求めるのではなく、善行そのものが、神の 恵に対する感恩の表れであるべきなのです。誰が見ていてもいなくても、誰が評価して もしなくても、そんなことは問題ではありません。クリスチャンの奉仕において、この ことをしっかりと覚えたいものです。       

8.話題を少し変えて、世の中で行われているいわゆる慈善活動は みんな駄目なのでという問題を考えてみたいと思います。慈善は偽善に通じるから、止 めた方がいいのでしょうか。私はそう思いません。私はケニアにいるころノンクリスチ ャンが半分以上のロータリークラブのメンバーでしたから、いわゆる善行を見せびらか すような活動を見たり、聞いたり、行ったりしてきました。それらの多くは価値あるも のであり、クリスチャンでない人々にとって、ただ自分を喜ばせるための活動よりはず っと良いと思いました。偽善的な要素が入っていないとは言いませんが、そうしている うちに、純粋な動機に目覚める可能性もあるからです。

9.人々の善行を賞賛したり、表彰したりする行為についてはどう でしょうか。それもイエス様のスピリットに反するでしょうか。動機と方法によっては 必ずしも悪いことではないでしょう。でも最終的には、報いを下さるのは神ご自身であ ることに人々の眼を向けさせていただきたいものです。

10.しめくくりに、今日、隠れたところをよく見ておられる神を 意識したいと思います。そのお方の前に喜ばれる動機、態度、行動をもって人生を送り たいと思います。 お祈り致します。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/March 7,2004