礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年3月14日

マルコの福音書連講(34)

「殉教の系譜」

竿代 照夫 牧師

マルコ6章17-29節

中心聖句

25 そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」

26 王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。

(マルコ6章25-26節)


始めに

 前回は、イエスの評判がヨハネのそれと重なり、それが当時の支配者であるヘロデに大きな影響を与えた記事を学びました。

 今日はそのヘロデによって斬首されたヨハネに焦点を当てます。


A.ヨハネの生涯

1.奇跡的な誕生(BC5または6年)

 バプテスマのヨハネは、年老いた祭司ザカリヤと妻エリサベツの子供として、主イエス誕生の半年前に生まれます(ルカ1:26)。誕生自体が大きな奇跡で、ヨハネ(神の恵)という名前はその象徴でもありました(ルカ1:60)。彼は幼少期を過ぎると、荒野に行き、そこで蝗と野蜜を食しながら修行を致します(ルカ1:80)。質実剛健な性格が形作られたのでしょう。

2.公の活動開始(AD25年当たりか)

 ヨルダン川の近くで自らを顕わしたとき、昔の預言者エリヤを思わせる風貌と、はっきりした悔い改めの説教の魅力で、パレスチナ全土に大きなセンセーションを巻き起こします(ルカ3:1-3)。特に彼の説教の特色は、自分に人々を惹きつけるのではなく、来るべきキリストに焦点づけられたものでした。

マルコ1:7-8 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。 

3.イエスにバプテスマを授ける(26年)

 ヨハネが公的な奉仕を開始して約一年後、イエスが登場します。ヨハネはイエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と紹介し、バプテスマを授けます(マルコ1:9)。その後も、ヨハネはイエスと並行して奉仕を継続しました。イエスはユダヤの地で、そしてヨハネはヨルダン川のガリラヤ湖からの出口に近い北方で・・・(ヨハネ3:22、23)。

 この期間に興味深いエピソードがあります。人々がイエスへイエスへと靡いていく傾向にヨハネの弟子達が嫉妬して、ヨハネに文句を言うのです。その答えが素晴らしいものです。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と。ヨハネの謙遜のエピソードですね。
 
4.捕縛(
27年)

1)捕縛と投獄

 この後直ぐに、ヨハネはヘロデによって捕縛され、ヨセフスによればマケラスという死海の東海岸の牢獄に入れられます。彼の奉仕の年数を数えますと、デビュー以来僅か2年、しかもその内にイエスと競合した期間が1年、つまり単独で脚光を浴びたのは僅か1年です。そして牢獄生活は2年弱、本当に儚い生涯でした。イエスが彼を指して「燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願った」(ヨハネ5:35)と評しているのは確かです。

2)イエスへの疑い

 この捕縛以来イエスはガリラヤでの大伝道を開始されます。「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」(マルコ1:14、15)

 この間、ヨハネは苦しみます。それは、イエスが本当にキリストなのだろうか、という疑問です。「獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。』」と(マタイ11:2、3)

 あれほど確信に満ちて、キリストは間もなく来られる、そしてイエスを指差して「この方こそ神の子羊」と示し、洗礼まで授けたお方を、彼は一時ではありますが疑ったのです。それは、キリストが来られたにしては事態が好転していない、自分は牢屋に繋がれたままだ、という弱きに負けてしまったのではないかと思われます。

 私はこのエピソードを見ると、逆に励まされます。ああ、ヨハネも揺れ動く葦のような人間だったのだ、という認識です。かれは鉄人ではありませんでした。弱さを持ち、時には疑い、悩む私達と変わらない普通の人間としての側面を持っていたのです。そのキリストはヨハネを激賞します。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と。

5.殉教(29年)

 ヨハネが殉教した時期は、イエスの十字架の一年余り前であったと考えられます。その物語は次の項に譲にしまして、彼の殉教後の一つのエピソードを紹介します。イエスがユダヤ地方で最後の期間を過ごされたわけですが、その時人々が「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方(イエス)について話したことはみな真実であった。」と言って、イエスを信じたというのです(ヨハネ10:41、42) 地味なヨハネの奉仕を物語る心暖まるエピソードですね。


B.殉教の物語

 さて、今日の本題でありますマルコが語るヨハネ殉教の物語に入ります。先週のお話と重複する面がありますが、お許し下さい。

1.ヨハネ投獄の経緯

1)ヘロデ、イエスの評判を恐れる(14-16節)

2)ヘロデ、ヨハネを投獄する(17-20節)

 ここでもう一度、ヘロデ家の家系図を見ていただきたいと思います。ここで出てくるヘロデとは、ヘロデ・アンティパスといって、ガリラヤ西部とペレヤ地方の領主でした。その兄貴であるヘロデ・ピリポがガリラヤの東部を治める領主であり、彼の姪に当たるヘロデヤを妻としたこと、後にアンティパスがそれを横取りするというヘロデ家独特の権力闘争、近親結婚、不倫の泥仕合については先週お話ししました。

 その不道徳に対して正義を説き、攻撃をしたのがバプテスマのヨハネでした。彼はレビ記18:6に「あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることである。」と記されていることに基づいて、ヘロデ家の悪行を非難する説教を行い、その結果投獄されました。マケラスという死海の東部沿岸に立てた牢獄に封じ込めるのです。聖書にマケラスという名前はでてきませんが、一応ここがヨハネの入っていた牢屋であると歴史家であるヨセフスは伝えています。もっともここは、アンティパスの居城であったテベリヤ(ガリラヤ湖の西岸)からは三日の道のりですので、物語の成り行きから考えるとヨハネはテベリヤの牢屋にいたとも考えられます。恐らく双方を経験したのでしょう。

3)優柔不断なヘロデ

 でも優柔不断なヘロデは処刑もできず、釈放もできず、ヨハネを繋ぎっぱなしにしておいたのです。ヘロデヤはしばしばへロデに対してヨハネ処分を願うのですが、ヘロデは民衆を恐れて死刑には踏み切れません。人々がヨハネのことを、来るべきメシアの先駆者と見ていることが痛いほど分かっていたからです。ヘロデは、一方ではヨハネの直截なメッセージを恐れ、他方では、彼を処刑することによって民の間に起きる人気喪失を恐れたのです。

 マタイ14:5「ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。」正にジレンマとはこの事をさすのでしょう。それだけではありません。彼は個人的な悩みごとを投獄中のヨハネに打ち明けてアドバイスを求めました。彼はヨハネの真直ぐな悔い改めのメッセージを聞いて心探られる思いを持ちつつも、周りの目を恐れて悔い改める事も適わず、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」のです。ヘロデは非常に複雑な人間である事が分かります。頭で分って入るが実行できない、こういうタイプは本当に扱いにくいですね。

2.処刑の時(21-29節)

21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、22 ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」と言った。23 また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」と言って、誓った。24 そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか。」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首。」と言った。25 そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」26 王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。27 そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。29 ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。

1)ヘロデの誕生パーティ

 21節の「良い機会」とはヘロデヤにとってはそうでしたが、ヨハネにとっては全くの災難でありました。それはヘロデの誕生パーテイだったのです。昔は誕生パーテイなど祝ったのでしょうか。今日のように、庶民も皆誕生日を祝うという風習は、ごく最近のことです。昔は、権力者、有力な人々のみのものでした。聖書に出てくる誕生日の祝いは、ヨブの7人の息子の「その日」という以外記述はありません。このパーテイには、重臣=地方の首領達、千人隊長(ローマの軍隊の隊長)、知名人(特に行政的な役割は無いが大切な肩書をもった名士達)が集められました。

2)少女のダンス

 ディナーの終った頃、或いはその終わり頃と思われますが、座興に踊りが披露されます。踊った場所はヘロデの宴会ホール、踊り手として呼ばれたのはヘロデヤの娘、正確にはヘロデ・ピリポとヘロデヤの娘、歴史家は彼女の名前をサロメと記録しています。少女とはいっても十代は超えていたでしょうか。そこで踊られた踊りは、そんなに高尚なものでは無く、まして幼稚なものでも無く、いわば色っぽさの濃い魅惑的なものであったと想像されます。

3)王の激賞と約束

 ヘロデ王は感激し、激賞し、その上驚くべき約束までしてしまいます。それほどヘロデ自身も、一座のものもその踊りを喜んだことを示しています。それにしても「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」そして、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」と言って、誓ったのですから尋常ではありません。酒の勢いもあったことでしょうし、少女のことだから、まさか国の半分を呉れ、等とは言うまい、と高を括っていた面もあったことでしょう。

 さて、余りにも寛大な申し出に、サロメは困惑し、当然の事ながら母親に相談しました。母ヘロデヤはその宴会の席には招かれていなかったようですね。これは今日の感覚からは異常ですが、当時の風習から言えば、そんなに不思議では無かったのです。

4)ヘロデヤの入れ知恵

 それはそれとして、ヘロデヤはこの時を逃しては優柔不断の夫を行動に持ち込めないと計算して「ヨハネの首を」と娘に言わせるのです。ヨハネの首とは、何たる報酬でしょうか。ヘロデヤにとって、それは王国の半分より大事な事でした。サロメは真直ぐにその一座に母の意向を伝えました。反対者があらわれて、その計画を邪魔されないために・・・。ヨハネの首の要求は直ちに、しかも盆(大皿)に乗せてと言う明確なものであった。

5)斬首と弟子たちの勇気

 兵隊達は牢獄に行き、即刻ヨハネの首をはねて、お盆にのせ、王様に差し出します。この記事からだけでも、ヨハネの投獄の場所は王宮の一角にあったことを物語ります。さて、王はそれをサロメに、サロメに、サロメはそれを母親のヘロデヤに渡します。おお、ヨハネにとって何と儚い、あっけない最期でしょうか。少女の余興、王の座興、王妃の憾みが如何に強かったにせよ、こんな貴重な魂が、こんな理不尽な人間達の思いつきで絶たれて良いものでしょうか。疑問は残ります。

 しかし、彼も一羽の雀より貴い魂でありました。かれは凱旋将軍よりも素晴らしい栄誉を天にて受けたのではないでしょうか。


C.殉教列伝

 ヨハネはそれから続く2千年の教会歴史の最初を飾る殉教者となりました。

 主な殉教者とその最後の言葉を掲げて私達の教訓としたいと思います。

(1世紀)

イエス <人類の贖いの為に>
ステパノ <ユダヤ人の迫害>
ヤコブ <ヘロデ王の迫害>
パウロ <皇帝ネロの迫害>「走るべき道のりを果たし・・・。」
ペテロ <ネロの迫害>「クオ・ヴァデイス・ドミネ?私もローマで・・・。」

(2世紀)

イグナティオス <トラヤヌス帝の迫害>「私は神の小麦。野獣の牙に砕かれてキリストのパンとなる。」
ポリュカルポス <アウレリウス帝の迫害>「キリストは86年間私に真実であり給いました。」

(15世紀)

ヤン・フス <宗教改革の先駆>「私が書き、説いた福音の為に喜んで死にます。」
サボナローラ <ローマ法王の不品行を糾弾して絞首火刑に>

(16世紀)

ティンダル <聖書を英訳して処罰>「主よ、英国王の眼を開き給え」
長崎の26聖人 <秀吉のキリシタン迫害の故に>

(20世紀)

ホーリネス派の牧師達 <東条内閣の弾圧の故に>
ネイト・セイントなどジャングルの5人の殉教者 <アウカ族への宣教>

 「殉教者の血は教会の種である。」と、テルトリアヌスが言いましたが、正に私達の教会は、このような殉教者の血の代価によって建てられているものであることを実感します。


終わりに

1.殉教者達への感謝

 私達が今あるのは、このように数限りない殉教者の犠牲と証の故であることを覚えましょう。なによりも、主イエスの自己犠牲(贖い)の上に私達の霊的な命があることを覚えて感謝しましょう。

2.自己吟味

 迫害が来ないことを祈り、願うが、もし訪れたら、本当に耐えうるクリスチャンであろうか。自己吟味しましょう。

3.なによりも主イエスの自己犠牲:(購い)の上に私達の霊的な命があることを覚えて感謝しよう

 何も突っ張る必要はないのですが、イエス様が私の全てとなっているかどうかが問題なのです。讃美歌にこうありますね。

炎に包まれ御国へ行きたる殉教者達の雄々しき心の秘密はただこれ、語り聞かせん。「イエスは、彼のすべてなりき、イエスは、彼のすべてなりき」

 その告白をもって聖餐式にあずかりたいと思います。お祈り致しましょう。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.3.14