ジョイフルアワー(伝道会)  メッ セージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年3月14日

「主の母マリヤを看取る」

井川 正一郎牧師

ヨハネの福音書19章26-27節

中心聖句

ヨハネ19:26  イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方、そこのあ なたの息子がいます。」と言われた。

19:27  それからその弟子に「そこのあなたの母がいます。」と言われた。その時から、こ の弟子は彼女を自分の家に引き取った。

(ヨハネの福音書19章26-27節)


はじめに

みなさんこんにちは。皆さんこんにちは。当教会にようこそおいで くださいました。

きょうは恒励会主催の伝道会です。恒励会は「高齢会」と思われま す。「恒に励め」の恒励会であります。といいましても、60歳以上の方々が集まる会 であります。高齢者には違いありません。恒励会も婦人会も60歳以上の方々が集まり ます。私たちの教会の四割以上が60歳以上であります。世の中も高齢化しつつあるが 、私たちも歴史を重ね、高齢者がふえてきました。これは悪い意味ではなく、それには それなりの理由と存在意義があると信じます。きょうはそれについての詳しいことは一 切省きますが、高齢者に対する介護などを含む扱い、また伝道はますます重要になって きていることは確かであります。この恒励会主催伝道会の意義もそこにあると思います 。

聖書の中にも同じような課題がございます。ヨハネの福音書19章 −親の介護の課題を示す箇所−であります。旧約聖書ではルツとナオミの関係がそれに 当たります。ヨハネ19章26−27節は、主イエス様が母マリヤを弟子ヨハネに委ね る箇所であります。十字架上で七つのことばの一つであり、重要視する箇所であります 。

 主イエス様の母マリヤについては、私たちはクリスマスのマリヤ をよく知っています。若い乙女マリヤの姿を思い起こします。私たちの中ではマリヤは いつまでも若いおとめマリヤであり続け、クリスマスのマリヤに留まり続けます。しか し実のところ、マリヤは年を重ねしわくちゃ‥何とかになったかどうかわかりませんけ れども、年をとっていきました。伝説によると、59歳まで生きたといわれています。 これも伝説ですが、彼女は生後6か月で7歩あゆみ、3歳で神殿にささげられ、12歳 の時にヨセフの許婚(いいなずけ)に選ばれたと言われています。ある考えは17歳頃 でなかったかともいわれています。

伝説はさらに続けます。彼女は中肉中背で、金髪、淡い褐色の目を 持った美しい女性。その性質は敬虔、柔和、誠実で、ダビデの詩を好んで口ずさみ、す べての人から尊敬された人物であります。主イエス様に従う多くの女性の中でも輝く星 のような存在でした。59年の地上生涯を終えて彼女はエルサレムの地で召天したとも 、あるいはヨハネに伴われてエペソまで行き、そこで召天したとも言われています。確 かな歴史的証拠はありません。ただ、主イエスの母として、多くの苦難試練−十字架こ そその頂点ですが−を乗り越えつつ、美しく輝いてその生涯を全うしたに違いありませ ん。

その晩年の期間を、主イエス様は弟子ヨハネに託しなさった。マリ ヤの召天年齢から推測すると、紀元43-49年あたりの召天でしょうか。とすると、 十字架の出来事は45-50歳前後。すなわちおよそ10年くらいヨハネのもとにいた ことになります。ヨハネの側から言えば、およそ10年、主の母マリヤを看取ったこと になるのであります。ヨハネは主イエス様から委ねられた大切なお仕事を全うしました 。ヨハネはその後、40年の生涯を送り、彼も天に召されていきます。

きょうの伝道会、なぜ主イエス様はヨハネに母マリヤを委ねられた のか、その理由を考えたいのであります。それを考えながら、主イエス様が備えて下さ った福音とはいかなるものかを思い巡らしたいのであります。

まず、ヨハネが身近な人間だったからであります。

彼は主イエス様の弟子であるが、実はその前に主イエス様、またマリヤと親戚関係でありました。詳しいことは省略しますが、主の母マリヤとヨハネの母 は姉妹ということで、主イエス様とヨハネはいとこ同士でした。といっても主イエス様 の血縁関係からすれば、兄弟姉妹がいます。マリヤにとってはそれ相当の数の子供達が −名前が分かっているだけでも、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン−が、そして他にも子供 がいました。主イエス様は兄弟達を信頼しなかったのではないと思いますが、この十字 架の場面ではまだ主イエス様に対する信仰を持ち合わせていませんでした。故に親戚関 係という身近な関係で母マリヤをまかせるということと共に、否、それ以上の身近な人 間という意味があったのであります。

ヨハネは主イエス様との深い信頼関係がありました。早くから主イ エス様のそばに仕え、従ってきたヨハネであります。そして何よりも、この十字架のも とにいた弟子はヨハネ以外誰一人いません。他の弟子達は恐れて逃げてしまっていまし た。ヨハネ一人、他の女性たちと共にこの十字架の場にいましたた。彼しかいなかった のであります。彼こそ主イエス様の心を知り、母マリヤの心を弁えている人物はいませ ん。彼こそ、母をまかせ、委ねる人物はいません。親戚関係でもあるが、それ以上に最 も主イエスに身近な人間であったヨハネ。そばにいるということはたとえそれが赤の他 人だとしても、遠い親族よりも近い存在です。血よりも濃い関係(ヨハネはもとより親 戚関係)。だからこそ、委ねることができたのであります。

2番目に、ヨハネが任せるに相応しい人物だったから であります。

ヨハネが任せるに値する器でした。彼は奉仕、仕事を任せることも できるが、それ以上に人を任せることができるほどの人間です。仕事を任せる人物はこ の世の中にも多く存在しようが、人自身を任せ、委ねることができる人間はそれほど多 くないのです。

 人を任せるに相応しい器とはどんな器か−一言で言えば、愛の器 、愛を注ぐことのできる人物であります。

愛を注ぐことができるとは、本当の愛を注がれた人物だといっても 言い過ぎでありません。主に愛された弟子と彼は自分自身を言うのであります。主イエ ス様から本当の愛を注がれ、それを体験しました。どのように人を愛すればよいか、主 が私を愛して下さったようにすればよいのであります。ヨハネの晩年、彼がいつも口ぐ せのようにしたことばは「互いに愛し合いなさい」=その意味を十分すぎるくらい理解 していたからこそ言えることばであります。

人の最後を正しい意味で看取ることはそれ程やさしいことではあり ません。人の地上における最後をどのように看取ればよいか。どのように看取ることが 正しいのか。きちんと、正しい意味で永遠の備えが出来ているかどうか、それを確かめ ることであります。心安らかに確かに天にお送りすることができるように、最後を看取 ることができるか。これは、そばに居る者の残された大切な使命です。マリヤはもとよ り信仰深い人物ではあったが、ヨハネはそれを弁えつつ、最後を間違いなく確認し、御 名を崇めながらマリヤを送ったに違いないのであります。

ともかくも、ヨハネは看取ることの意味を正しく弁えていました。 そのヨハネに一人の人物の最後を任せたのであります。マリヤという人物を任せるに相 応しい人物であります。

三番目に、ヨハネがそのような器に変えられたからで あります。

ヨハネは主イエス様の弟子の中では最も若い人物でした。そして使 徒の中で最も長生きした−最後まで生き残った人物です。90歳をこえるまで生きたの ではないでしょうか。

彼はその生涯ずっと愛の器だったかと言えば、そうではありません 。漁師出身だったこともあってか、若い時分は相当熱い人物であったようです。血気盛 ん、雷の子と言われました。また主イエス様を受け入れない人たちを見たとき、憤って 「天から火を呼び下して焼き滅ぼそうか」とまで言う人でした。

また主イエス様に御国であなたの右、また左にいさせてくれという 野心家というか、欲もあった人物でありました。でも、そのような彼が変えられていき ます。主のそばにあり続けたゆえだろうか、主が何を目指して奉仕されるのか、何を目 的として人と接しなさるのしょうか。主の思い、考え、実際の活動の目的など、次第に 見えてきます。そして十字架の場面。それに続く復活の出来事。そうだったのか。主イ エスは私たち人間の罪を担って十字架にかかられました。主イエス様こそ、人々を神か らまかされて最後までその背中というか、全身に受けて(背負って)責任をもってその 使命を果たされたのであります。イザヤ書46章3−4節にこう書いてあります。

イザヤ46:3b あなたがたは胎内にいるときからになわれており 、生まれる前から選ばれた者よ。

イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにす る。

あなたがたがしらがになってもわたしは背負う。わたしはそうし てきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

ヨハネはたしかに悟ります。「今までの自分勝手な思い、欲望、そ れら一切を悔い改め、主に心から信じ、従っていこう」との心を持ちました。主イエス 様の愛の生涯の歩みを、今度は私が歩んでいけばよいとの心です。その足跡に従って歩 んでいこう。ヨハネは主イエス様に背負われてここまで養われ、看取られた。それでは 今度は私が他の人のために背負う番。その一つにマリヤをまかされる仕事があります。 マリヤへの仕事は、他ならない、主イエス様に対する愛の表現でもあります。

人は例外なくといってよいほど、その最後は誰かに看取られます。 脳溢血であっという間でもその後のことを誰かがやらねばならないのです。人の世話に は決してならないと口にするお年寄りは多いが、人の世話にならない人など、この世に はいません。必ず何等かの形で世話にならざるをえないのであります。誰かがその人を 看取らねばならないもの、とすれば、良いぼけ方、年取り方をしたいのであります。看 取る方も看取られる方も安らかな心でありたいのであります。年をとればとるほど、人 は二種類にはっきりとわかれていきます。信仰を持っている人物とそうでない人物の違 いが出るのであります。人は人を看取り、そして看取られて地上を去ります。神が喜ぶ 最後でありたいものです。どこかで主イエス様への信仰を持ちたいものです。

主イエス様の福音は人を変えます。ヨハネは変えられた器であった −人を看取るに相応しい者に変えられた−ということであります。お祈りいたします。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/March 14,2004