礼拝メッ セージの要約
(教会員のメモに見る説教の内 容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。
2004年3月28日
第一礼拝 「状況はどうか?」
井川 正一郎牧師
サムエル記第一 4章5-19節、7章1-4節
1Samuel 4:16 その男はエリに言った。「私は戦場から逃げて来た者です。私は、きょう、戦場か ら 逃げて来ました。」するとエリは、「状況はどうか、我が子よ。」と聞いた。 1Samuel 7:3 そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがた が心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、 心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出され ます。」 (サムエル記第一 7章3節) |
はじめに
旧約聖書 サムエル記第一4章16節をお読みします。
その男はエリに言った。「私は戦場から逃げて来た者です。私は 、きょう、戦場から逃げて来ました。」するとエリは、「状況はどうか、我が子よ。」 と聞いた。
イムマヌエル第59次年会をこえて新しい年度のスタートであります 。これから始まる一年、この場所(中目黒)での腰をすえての本格的な働きに従事しま す。さらにまさる主の祝福が注がれることを期待して奉仕したいものであります。
実のところ、いやが応でも時代は大きく変わろうとしています。わ れらの時代は今、大きな切り替わりにさしかかっているのであります。教団自体も今年 から来年にかけて大きく変わると聞いています。教会にとって、また個人にとってもそ うであります。聖書の中にも、時代が大きく切り替わる節目のような出来事、記事が存 在します。士師記の時代からサムエル、サウル、ダビデの時代へと変わっていきます。
イスラエルの民はエジプトを脱出し、荒野の旅路に出ます。40年 という放浪生活がありましたが、ともかくも約束の地カナンに入ることができました。 部族ごとに土地を分配し、新しい土地での生活がスタートします。しかし、異教徒たち を残していたこともあって、次第にその偶像礼拝へと傾く民であります。ついにはイス ラエルにはしっかりとした王がなく、それぞれが自分の目に正しいと見えるだけの基準 で物事を行うようになったのであります。
そのあとにサムエルが登場します。時代は士師の時代、即ち部族単 位の時代から国家、王国の国単位の時代になっていきます。また礼拝も幕屋(あるいは 築壇形式)中心から神殿中心に移っていこうとする時代でした。政治形態も礼拝形態も 切り替わっていき、そしてそれに伴い、民の生活もそれに合わせて変化していきます。 ちょうど、サムエル記は切り替わりの過程の位置にある箇所であります。
サムエル記第一の4章16節=「状況はどうか」、今一度改めてこのお ことばを中心にこの箇所から、時代状況はいかなるものか、正しい現状把握とそれに基 づく方向について思い巡らし、箇条書き的に4つのことを学びたいと思います。
まず、どのような時代状況だったかといいますと、神 のみことばが行き渡っている時代であったということであります。
祭司エリのもとで成長したサムエルであります。主の預言者として その奉仕をスタートします。
1サムエル4:1 サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったこ ろ、イスラエルはペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て、エベン・エゼルのあたりに 陣を敷いた。ぺリシテ人はアフェクに陣を敷いた。
とありますように、その奉仕によりみことばが全イスラエルに行き 渡りました。これはみな、全地域に行き渡り信仰者になったというより、サムエルのみ ことばの奉仕が本格的に展開されている、新鋭の予言者として知れ渡ったと理解したい と思います。
神のみことばの奉仕が本格的に展開されていくとき、それに対抗す る勢力が目の前にあらわれます。その抵抗勢力反対勢力はペリシテであります。神は民 がそれを正しく受け取るか否かをチェックされるために、しばしば敵を目の前に備えま す。ペリシテとの戦いが始まります。この敵に対する姿勢は神のことばを聞いたに相応 しいものとなっているか否か、であります。
)二番目に、神の民が敗れている時代、神の民が負け ている時代−劣勢に陥っている時代であったということであります。
戦いが始まりました。場所はエベン・エゼルであります。戦いはど うなったかといいますと、打負かされたのであります。2節と3節を読みます。
1サムエル4:2 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣ぞなえをし た。戦いが始まると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で 打たれた。
1サムエル4:3 民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老た ちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ陣の前でわれわれを打ったのだろう。シロ から主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの 真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。」
「なぜ」、と長老達は口々に言います。「戦いの方法が何か間違っ ていたのか」「兵士の心に隙があったのか、その原因は何か」。長老達はその原因を深 く突き止めようとはしなかったようであります。
彼等はとっさに良い考えを思い浮かべました。これは他にないほど のグッドアイデアと確信するものであります。「そうだ、神の契約の箱を戦場に持ち出 せば。神の臨在を示すこの箱があれば、戦いは一変するはずだ」と確信をもって持ち出 しました。
主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげ た。それで地はどよめいた。
形勢が危うくなっているイスラエル軍に歓声があがりました。士気 も高揚されたかに思えました。敵もそれに困っているようです。結果はどうか、そして 状況はどうか。散々にイスラエルの民が打ち負かされ、しかも、持ち出した神の箱が奪 われてしまうとの失態を演じてしまうのであります。祭司エリの二人の息子も戦死して しまいました。状況はどうだったでしょうか。急ぎたち帰った者は17節のように答えま した。
1サムエル 4:17 この知らせを持って来た者は答えて言った。「 イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、民のうちに打たれた者が多く出ました。それに あなたのふたりの子息、ホフニとピハネスも死に、神の箱は奪われました。」
形だけの、あるいは形になるものを信じる信仰。外側だけの、堕落 した、世に染まった信仰。そして罪の問題が解決していないことを長老達が気づかなか ったのであります。
エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた 。
と象徴されるように、正しい理解、把握する力がなくなっているの であります。箱さえ−いや形さえあれば解決する−いや、そこに心の問題が問われてい るのであります。
第三番目に考えたいことは、敵が神を恐れている時代 であったというであります。
神の契約の箱が戦場に持ち出されたとき、敵ペリシテの反応はどう だったといいますと、
1サムエル4:7b 「ああ、困ったことだ。
というように、敵は神の力、霊の力におびえています。理解の不確 かさはあるが、多くの神々の存在があって、それが結集して猛烈な力を持っていると恐 れているのであります。
1サムエル4:9 さあ、ペリシテ人よ、奮い立て。男らしくふるま え。さもないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕え るようになる。男らしくふるまって戦え。」
かえって、敵の方がイスラエルの神の力を知っています。そして、 恐れています。おびえています。あの新約聖書のレギオンの話もそうであります。
敵は神の存在とその力をよくわきまえています。サタン、悪霊たち は例外なく恐れています。恐れているならば、神の前にへりくだって心から従っていけ ばよさそうなものを、それをしないところがサタン、また悪霊たちの真骨頂なのであり ます。
あくまでも従わず、反抗し続け、神に、神の民に敵対し続けます。 死にもの狂いの戦いを挑んできます。このサムエル記の時代においても、今も、またこ れからの時代も変わらず戦いを挑むサタンであります。敵は神を恐れ、そして、びくび くしていることをわきまえたいのであります。本当の力を十分にわきまえているので、 逆に死にもの狂いで襲い掛かってきます。神の民はどのように対処すればよいでしょう か。
第四番目は、心から悔い改め、神を信頼していくこと、この時代は 、心からの悔い改めの時代ということであります。
状況はどうだったでしょうか。神の民は自分自身の現実の姿を正し く知ることが必要でありますが、そして何よりも正しく対処するにはどうすればよいで しょうか。きょう、七章を開いた意味はここにあるのであります。ちょっと開いてみま しょう。おなじサムエル記第一の7章1節から4節を交読しましょう。私が1節と3節、皆 さんが2節と4節を読みます。
1サムエル7:1 キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び 上げ、それを丘の上のアビダナブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を 守らせた。
1サムエル7:2 その箱がキルヤテ・エアリムにと どまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求め ていた。
1サムエル7:3 そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のよ うに言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の 神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがた をペリシテ人の手から救い出されます。
1サムエル7:4 そこでイスラエル人は、バアルや アシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。
(編者注:2節と4節はマウスでなぞってご覧下さい)
神の箱が奪われ、戦いに破れたイスラエル。20年がたとうとして いました。長い年月がかかったが、このころ、主を慕い求めようとする心になっていき ました。預言者サムエルはイスラエルの民を集めました。罪を悔い改め、主に立ち返ろ う。再び、ペリシテとの戦いとなる。戦いの場所は、20年前と同じ場所であります。 エベン・エゼル−またはエベネゼル。戦いはどうなっていくか。戦いはイスラエルの勝 利であります。なぜ勝利を得たか。主に心から悔い改め、信頼しての戦いであったから であり、回復の恵みが与えられたのあります。
新約聖書でも、魚を取れなかった弟子達に、主イエス様がチャンス をお与えになりました。弟子は主の前で悔い改め立ち返りました。
神様は、同じ場所で同じ出来事をくり返してその人の目の前に示し て、悔改めを迫ることがあります。罪の問題でも、具体的に迫ってまいります。同じ問 題のことのほうが多く、プライドと劣等感の問題が決着しない人には、あくまでもその 問題にメスをいれるべく何度も迫ってきます。違った問題で迫るなどあまりございませ ん。恨みや妬みの問題で決着しない人にはその同じ問題がくり返し、くり返し、その出 来事が起きて、さあ、どうかと迫ってきますある人は決着するのに20年かかる。かか っても地上生涯のどこかで決着するのはよい。決着しないで死を迎えてしまったならば 、大変なことになります。「きよからずば、主を見ることあたわず」−速やかに神の前 で悔い改め、立ち返るかどうかであります。
「状況はどうか」−エリのように見えなくなっていないでしょうか 。
「状況はどうか」−悩み苦しんでいないでしょうか。
「状況はどうか」−20年かかり、解決できずずるずるきてしまって いるかもしれません。
「状況はどうか」−神の臨在は私とともにあるのだろうか−−?
「状況はどうか」−こちらの都合で神を引っ張り出していないだろ うか−−?
「状況はどうか」−悪の力を恐れる。
「状況はどうか」−神の力をわきまえているでしょうか?
「状況はどうか」−正しく謙遜な姿勢で自己吟味をしているでしょ うか−−?
きょうのメッセージにありますように、神に逆らう−あるいは神と 世が半々ですと悪に傾いてしまいます。
終わりの日が近いいま、残れるものとして多くは劣勢に立ち、神を 利用してしまいます。困難な中にいよいよ打ち負かされます。7章3−4節にあります ように、「〜するなら」ということばが、サムエル記、列王記、歴代誌と続きます。
「なら」とは京都の隣の奈良(=なら・県)ではなく(笑)、神が一 人一人をああせいこうせいでなく、一人一人に決断と選択を迫るのではなく、最後は一 人一人の決断であります。−「主のみに仕えるなら」ということであります。
しめくくりに2つのことをお話して終わります。
まず、「神の偉大な力を知ろう!」ということであります。
エペソ人への手紙1章19節にありますように、パウロが願ったお祈り
はこれであります。
サムエル記に戻りますが、「神の偉大な力」を知らせて頂き、委ね切ることであります
。
もうひとつは「心から悔い改めよう!」ということで
あります。
心の中に悔い改めがあるのであれば、悔い改めたり、罪から離れる
ようにします。
牧師もクリスチャンも崩れるのは罪であります。教会はほんのちょっとした罪で傾きま
す。
もし、罪の問題があり、苦しみ悩むなら時間がかかっていいのであ
ります。イスラエルのように、私のエベン・エゼルが証しされればどれほど幸いなこと
でしょうか。罪から離れ、「主にのみ従う(仕える)なら」であります。
「状況はどうか?」、これがきょうのメッセージです。ご一緒にお
祈りしましょう。
Message by Rev.Shoichiro Ikawa,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/March 28,2004