プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ版 =著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年3月28日

イースターを前に−イエスの怒り

竿代 照夫牧師

新約聖書 マルコの福音書 11章13-18節

該当聖句

Mk11:15-18 

11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエ スは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を 売る者たちの腰掛けを倒し、

11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれに もお許しにならなかった。

11:17そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの 家は、すべての民の祈 りの家と 呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそ れを強 盗の巣にしたのです。」

11:18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのように してイエス を殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエス の教えに驚嘆していたからである。

(マルコの福音書 11章15-18節)


1.プレイズ・ワーシップにようこそおいで下さいました。この次 の日曜日から一週間、キリスト教の暦では一年に一番大切な受難週という、キリストの 十字架の出来事を記念する週を迎えます。キリストの生涯を記録した 4人の人物伝の およそ3分の1がこの一週間の出来事に集中していることからも、受難週の大切さがお 分かりでしょう。

2.今日は、その一週間の初めの出来事である、主イエス様の宮清め をお話しします。

イエス・キリストというと、何か物静かで、いつでも微笑んでいて 、どんな人にも優しいというイメージをお持ちの方が多いのではないでしょうか。しか し、実際の彼の生涯の記録を見ますと、非常な熱情家であることが分かります。彼が心 底から怒ったという記事が、少なくとも3回は記録されています。1回目は、子供達が イエスの周りに集まって来るのを止めようとした弟子達に対して、2回目は自分の批判 的な気持ちを公にしないで黙っていたパリサイ人達の卑怯に対して、そして3回目は今 日の記事です。

3.これは主イエス様が最後の一週間を過ごすためにエルサレムの 都に上ってきた直後 の出来事です。彼が上京するや否や、自分がメシアである事を宣言し、新しい王国を 作るのではないかという期待が漲っていましたから、その上京のありさまは、デビッド ・ベッカム(レアル・マドリード)や松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキース)が成田に 降り立った時のような興奮をもたらしていました。人々は自分の着ていた上着を脱いで 道ばたに敷き詰めて臨時のカーペットにしました。そして近くから切り取ってきた棕櫚 の葉を振り「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」(今救って下さい、救い主よ!)と叫んだ のです。この日は比較的静かな態度で過ごされた主イエス様は、翌朝もう一度都の中心 にある神殿につくや否や、その顔を引きつらせました。

4.神聖な祈りの場所であるべき神殿、正確に言いますと、神殿の 建物を囲むように あった異邦人の庭というところで、異邦人が神殿に入れないものですから、そこで祈 ることが期待されていた場所で(ここでは一般のユダヤ人特に女性達が祈る場所で した)に満ちていたものは、「グルッポ、グルッポ」と鳴いている鳩の声、羊や山羊の 鳴 き声、動物の独特の臭い、それを売り買いしている商人達の貪欲な眼、値引き競争の 客引き、山と積まれたシェケル銀貨とローマのデナリ銀貨、そしてその両替商の計算 高いそろばんの音など、およそ神を恐れる空気が感じられない人間の欲望丸出しの雰囲 気でした。まさに、その辺のマーケットが教会の真ん中にやってきたという感じでした 。

5.「どうしてこんなことが?」と疑問をお持ちの方もあるでしょ うから説明します。

この時期というのは、ユダヤ教の三大祭のうち最も大切な「過越し の祭」で、世界 中からユダヤ教徒が礼拝の為にエルサレムに集まってきていました。一説によるとこ の時のエルサレム人口は百万を超えるそうです。今そのような熱気はイスラム教に見 られます。年に一度のメッカ巡礼ではあのモスクを埋め尽くす人が世界中からやって くるわけで、あれを想像すれば、そんなにはずれていません。その巡礼者は、生贄とし て鳩、羊等を捧げるのですが、長い旅行でそれを持ってくるのは大変ですから、神殿 の入り口でお金を払って買うわけです。これはいわば巡礼者へのサービスのようなも のです。更に、神殿に献金をしたい人は、ユダヤのお金でなければなりませんでし た。特に成人男子は、神殿維持費として半シェケル(2デナリ)を治める義務があり ました。つまり、日常流通しているローマのデナリ銀貨ではいけないのです。それを シェケルに替える必要があるのですが、何と便利なことに、神殿の中にマネーチェン ジャーが店を並べていたというわけです。その両替手数料は15%ですから、笑いが 止まらないほどの儲けです。

6.一見何も悪いことはないだろうと思われますが、違います。こ の商業行為のゆえ に、敬虔な礼拝者達の祈りの声がかき消されるほどだった、というのですから、真実 な心を持った礼拝者には耐えられない行為でした。さらにこの商売人達は、神殿で 行われる礼拝行為には全く関心を示さず、朝から晩まで金儲けの為だけに神殿を訪 れ、我が物顔にそれを使っていたのです。もっと悪いことは、その商売人達に商売の ライセンスを与えてたっぷりと甘い汁を吸っていたのは他ならぬ大祭司アンナス、そ の女婿であるカヤパとその一族だったのです。これは彼らの大きな収入源であったと 言われています。皆さんがイエスの立場に立てば、ここで怒るのは当たり前でしょ う。

7.でも私達は普通怒ることは怒っても、行動は起こしません。政 府が悪いと投書を するか、新聞に書くか、それもしないでただ「祈りましょう」と言うだけで、結局眼 をつぶって悪をそのままにしてしまいます。主イエス様は違いました。大声を挙げて商 売 人を追い出し、商売道具であった台や腰掛けをひっくり返し、その上にあったお金や ら帳簿やら、鳥かごをみんな地べたに散乱させてしまいました。この人々は何で抵抗 しなかったのでしょうね。いや、少しはしたかも知れませんが、イエスの剣幕にすっ かり毒気を抜かれたのでしょうか、為すすべもなく、ただ、散乱したお金やら鳥かご を集めるのに必死だったと思われます。何よりも、自分達が聖書から見て非合法的な やり方をしているという引け目があって、強い抵抗はできなかったと思います。       

8.イエスがそこで宣言された言葉に目を留めます。

「『わたしの家は、すべての民 の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがた はそれを強盗の巣にしたのです。」

これは今日の言葉で言い換えれば、教会という (建物ではなく)共同体を、利得の手段と考える世俗化への警告です。日本では宗教 活動が自由であり、それを免税措置を持って保護するという思想と仕組みが確立して います。しかし、それを誤用して、金儲けの手段と考えたり、脱税のための衣と考え る宗教家が後を絶ちません。残念なことです。キリストがこの世におられたならば、 どれだけの寺や神社そして教会もひっくり返されることでしょう。自戒を込めて考え るべきテーマです。

9.人々の善行を賞賛したり、表彰したりする行為についてはどう でしょうか。それもう少し掘り下げますと、神の宮とは、私達の肉体を指しているとい う新約聖書 の教えに突き当たります。私達は神が心に宿るべき神殿である肉体を、様々な悪の巣 窟と変えてはいないでしょうか。コリント人への手紙第一6章15節に、

15あなたがたのからだはキリス トのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女 のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。・・・

19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神 から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知 らないのですか。

20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですか ら自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

という体の清さを覚えましょう。

10.しめくくりに、この宮清めによって面子を失い、利益を損な われた宗教指導者達の行 動に眼を止めましょう。彼らは、自分の悪を指摘されたのに、そしてそれが如何に悪 いことかも充分分かっていたのに、お詫びしようとはせず、逆に文句を言うものは消 してしまえとばかりに敵意を顕わにするのです。十字架とは、突き詰めて言えば、そ の様な人間の貪欲、頑固さ、プライドが塊となって起きた出来事と言えなくもありま せん。私達の内にあるそうした諸々の悪が、十字架に結晶している訳です。何より も、私達の心の神殿を清めて下さいという祈りをもって、この礼拝を閉じたいと思い ます。お祈り致します。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/March 7,2004