礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年4月11日

復活節に臨んで『主と共に甦る』

竿代 照夫牧師

新約聖書 ローマ人への手紙 6章1-11節

該当聖句

Rome 6:5  

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キ リストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活と同じようになるから です。

(ローマ人への手紙 6章5節)


はじめに 

「イースターおめでとうございます」とは申し上げましたが、今年はイラクでの人質事件で日本全体が重苦しい空気に包まれた中でのイースターとなって しまいました。しかし、それだからこそ、主イエス・キリストの生と死の意味をより深く考えることを私達に迫っているようにも思います。今日の箇所は洗礼式などで良く開かれる場所ですが、もう一度改めて主イエス・キリストの死と復活の意味を、私達に当てはめて考えるために学びたいと思います。

A.十字架と復活のドラマ

1.キリストの「徹底的な」死

1)一度だけ完全に:「徹底的な」という表現は相応しくないかもし れません。不徹底な死ということはあり得ないからです。イエスが仮死状態であったも のが、何かの刺激で蘇生したというのが甦りではありません。10節に「ただ一度罪に 対して死なれた」と記されています。二度死ぬ人はいませんが、この一度と言うのは、 とても強い意味で、ある事柄を強調しようとする言葉です。「一度で完全な」(エファ パックス)は「一度にして完全に」という意味です。

2)極限の苦しみを経て:「一度にして完全に」とは、その極限の肉 体的、精神的、霊的苦しみを表わします。受難週の間、『キリストの最期(ジェームス ・ストーカー)』をもう一度読んでいました。彼は主イエス様が息を引き取られた後で 、兵隊の一人が彼の胸を鎗で突いた所、血と水が溢れて来たという記事を医学的に分析 して、主イエス様の死は心臓破裂が直接の死因ではないか、と述べています。十字架刑 は通常釘付けにしてから死ぬまで2、3日もかかるそうです。出血多量とそれの齎す大 変な渇きとに長時間苦しめられて死ぬというのが通常だったそうですが、イエス様の場 合、朝9時から午後3時まで、合計6時間で絶命しています。ストーカーは、精神的、 霊的な苦痛を最大限に受けたことによる心臓破裂を示唆していますが、大きく間違って はいないと思います。

3)罪に対して:そんな苦しみは、「罪に対して」でありました。 罪の問題(私達の犯した過去の罪、現在的弱さ)に対して、それをご自分が一身に背負 う事によって完全な終わりを宣告なさったのです。「完成した。」という十字架上の最 後の言葉が勝利の宣言でした。

2.輝かしい復活

1)「文字通り」の甦り:主イエス様の復活は精神的な復活とか、 弟子達の心の中に生きているといった抽象的な復活ではなく、文字通りの甦り、生き帰 りであります。それは多くの人々が違った場所で、違った時間に目撃し、その目撃証人 はこのローマ人への手紙が書かれた年代(AD56年ごろ)にも沢山生きていました。 今日はこれ以上申し上げませんが、この他にも動かし難い多くの裏づけがあります。私 は文字通りの復活を100%信じています。。

2)「御父の栄光によって」(4節):主イエス様はご自分の神通 力のようなもので、頃合を見計らって死からえいやっっと起き上がったのではなく、父 なる神の栄光のために、その栄光の御力によって、甦らせられたのです。「もはや死ぬ ことはなく、死はもはやキリストを支配しない」(9節):再び死によって支配される ことがないような、徹底的な勝利を宣言されました。

3)「神に対して生きる」(10節):それまでもキリストは、御 父との麗しい、親しい交わりをお持ちでしたが、復活によって、より一層(御座の右に 座って)近しく、一体的な交わりに入られました。

B.繰り 返されるドラマ

1.バプテスマがその象徴

主イエス様の十字架と復活は、2千年前の物語ではなく、私達の心 の中に繰り返されるドラマです。

それを象徴するのがバプテスマです。バプテスマによって私達はキ リストの死を自分の死と同一化し、キリストの復活を自分の命と同一化するのです。「 キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテス マを受けたのではありませんか。」(3節)バプテスマの儀式は私達の葬りの儀式で、 そこにおいて主イエス・キリストとひとつになるのです。その意味で、私は水に漬ける 儀式にこだわりたいと思っています。浸礼だけが効果のあるバプテスマとは思いません が、バプテスマの意義をより強く実感させる儀式と思います。私達はこれによって「彼 と共に葬られた」のです。バプテスマとはキリストにつく(into−エイス、くっつく) ものであり、それはキリストの死に「あずかる」ものであると説明されています。この 「あずかる」もinto(エイス)で、この前置詞は内側の結合、参与を意味します。キリス トにつくバプテスマを受けることは、キリストが十字架についたという教えを受けるこ とだけではなく、自分も(彼と共に精神的な意味で)十字架についた、つまり、彼の死 と自分は一つになったという信仰を表す儀式なのです。

2.罪の葬式(6節が焦点)

1)古い人が十字架につけられる=自己中心の終わり:十字架は、 過去の罪だけではなく、その罪をもたらす罪の性質−これが古い人という意味−を滅ぼ します。その罪の本質は何でしょうか。 ホリス・アボット博士はそれを「自己中心」といっています。「自己が生涯の中心的な 座を占めること、す べての事柄の中心に自己を置くこと」と説明したあとで、その特色を四つ述べています 。信仰のかわりに自己充足、神に従うかわりに自己意志、人々に与えるかわりに、自己 欲求、謙遜の代わりに自己義とする自己義が挙げられています。

2)罪のからだが滅びる=罪のメカニズムが終わる:ここで十字架 に付けるべき肉とは、神を離れた人間性、神に逆らう性質のことです。もちろん、人間 の持って生まれた自然欲求を指すのではありません。そうであれば、この十字架は非人 間的な人間を生み出します。罪とは、その自然的な欲求を神の栄光のためにではなく、 神に逆らい自己を喜ばせ、人を踏みにじってまでもその欲求を遂げようとする自己中心 的スピリットです。それこそが罪の本質であり、それが十字架につけられなければなら ないのです。

3)罪の奴隷とならない=罪の支配の終わり:奴隷というのは、自分 の意志に反して仕えさせられる人のことです。私達は皆、悪いことはやめねばならぬと 思いつつ、「分かっちゃいるけどやめられない」のです。罪を犯すものは罪の奴隷なの です。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネの福音書8章34節)キ リストの十字架は私達をこの奴隷状態から解放して自由を与えます。クリスチャンにな ると不自由になるというのは全くの誤解です。自由に良いことが出来るようになるので す。

3.私達も甦る!

主イエス・キリストは徹底的に死なれました。ですから、徹底的な 命への復活があったのです。麦が自分を主張して、地面に落ちても死ぬのを拒否したな らば、新しい命は生まれません。キリストは徹底的に死ぬことによって、全く新しい次 元の命を得られたのです。

2)「いのちにあって新しい歩みをするため」(4節)

その命とは、復活は一時的だけではなく、毎日の生活、一刻毎の信 仰の確認なのです。 5節をもう一度確認しますと、これは植物的表現です。私達はキリストの養分によって 大きくなり、強くな り、葉をしげらせ、花をさかせ、実を実らせます。キリストの死は彼の結実豊かさの原 因であり、全人類の永遠の救いの始まりでした。信仰者はキリストの死に植えられ、そ こから育ち、そこから成長と力と美しさと豊かさを得ます。このような復活の力、生命 力、豊かさを私達も体験しつつ歩みたいものです。今までとは違った原理、力、希望を 持った人生が始まることを意味します。この言葉は、「命の新しさ に歩む」という強意の表現です。

3)「献身的な生涯」(11、13節):「神に対して」生きる生 涯、「自身とその手足を義の器として神にささげる」生涯−これが私達の生き方、人生 の目標を示します。神の栄光のために生きる生き方、これこそ人間が本来創造された目 的への回復です。こんな素晴らしい人生が他にあり得るでしょうか。

3)「献身的な生涯」(11、13節) 「神に対して」生きる生涯、「自身とその手足を義の器として神にささげ る」生涯。私達の生き方、人生の目標を示します。神の栄光のために生きる生き方、 これこそ人間が本来創造された目的への回復です。こんな素晴らしい人生が他にあり 得るでしょうか。

おわりに

1.躍動的な生き方をキリストと共に!

このイースターの良き日、「イエス様が甦られた、ああよかった」 と他人事の ように喜ぶのではなく、私も甦るんだ、甦ったんだ、という素晴らしい経験を自らのも のとしましょう。その復活の生涯を生き続けましょう。

2.信仰をもってそのスタートを!

11節の言葉は二つの事を示唆しています。

第一は、バプテスマを受けて罪に対して死んだはずのクリスチャン がどっこい完全には死んでいなかった可能性です。これは何とか処置すべきです。第二 に、そこで、本当にキリストの十字架の恵みを自分のものと結びつける鍵が提供されま す。それは「思う」という信仰です。これは計算するという会計の用語です。その信仰 を確認するとき、恵みが私達のものとなります。潜在的にそうであるものを、よりはっ きりと確認し、告白し、その信仰を持続しなさいと、語っているのです。しかしその立 場がリアリティとならなければなりません。それを齎すのはただ信仰によってです。ロ ーマ6章11節の計算する信仰がそれを齎すのです。私も30年以上前この事を告白し 、以来その信仰に立ち続けてきました。それが今の私を支えています。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/April 11,2004