礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年4月18日

召天者記念礼拝に因んで

「父の家には住まいが・・」

竿代 照夫 牧師

ヨハネ14章1-7節

中心聖句

2 あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

3 わたしが行って、あなたがたのために場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

(ヨハネ14章2,3節)


始めに

1.召天した方々の「現住所」

 本年度の召天者記念礼拝によくお出かけ下さいました。今年は新会堂に於ける最初の召天者記念礼拝です。週報と一緒に配られた過去三十年間の召天者リストは187名に及びます。私自身約20年のブランクがありましたものの、ほとんどのお顔が思い出されます。その方々の私との関わりという角度から申しますともっと限られますが、その方々から頂いたお励ましや、良き模範などを思い出しつつ、私達も彼らに続くものでありたいと願わされます。

2.その「住まい」についてのイエスの言及:最後の晩餐上の説教の一部

 その様な思いを持ちつつ、彼らが現在そこで安住している場所について聖書が語っていることを学びたいと思います。今日のテキストはヨハネ14章です。

 これは、キリストが明日十字架にかかるという最後の晩餐の席上でなさったメッセージの一部です。この場所は、キリストが、ご自分が間もなく取り去られるという危機的な状況で、不安に取り囲まれているその弟子達に向かって慰めのメッセージとして語られたものです。「心を騒がすな(キリストが去っていくこと、ペテロがイエスを否むであろうこと)。神を信じ、その神との仲介者であるキリストを信じなさい。」と。 

 また、地上での神の国の到来を期待して、裏切られた弟子達に、霊的な永遠的な御国をもって励ます必要を感じなさったのです。イエスが行こうとするところに弟子達は来ることができない、と語られた意味は、永遠の離別ではなくて、イエスが先駆けとなって弟子達始め信じる者たちに場所を備えに行くと仰ったのです。ここで約束されている天の住まいについて幾つかの特色を学ぶことができます。


A 天の住まい

1.父の家:私達を包み、いつくしみ給う父の家

 聖書は、神を父と呼び慣わしています。私達の実際の父は雷親父であって見たり、子供を見捨てて平気な親父であったりするかも知れません。けれども天の誠の父である神は、私達を子として慈しみ、包んで下さり、愛し、守って下さるお方です。

2.多くの住まい:一人一人が大切にされるところ

 その住まいは多くある、そのバラエティに富んだものである、とも仰いました。ここでの譬えは旧約の神殿からくるもので、その境内地には多くの部屋があった事がその表現の根底にあるようです。昔エルサレムに建てられていた神殿(今の教会)は、その壁の周りに小部屋が沢山あって、祭司の部屋、書記の部屋、門番の部屋、首長たちの部屋、預言者の部屋などに使われていました(列王記第一 6:5、エレミヤ書 35:3、4、10)。「多くの住まい」という言葉の中に、私達が十把ひとからげで扱われるのではなく、一人一人が大切にされ、それに相応しい扱いがなされるのが天国であることが示唆されています。

3.豊かな住まい:「マンション」

 その住まいとは、英語ではマンションと訳されています。辞書を引きましたら、豪壮な大邸宅と書いてありました。もっともイギリス英語ではアパートがマンションだそうですが・・・。ここで描かれているのは、ちまちました住まいではなく、豊かな住まい、ゆったり感をもって住める場所を指していました。私達日本人はウサギ小屋に慣れてしまっていますから、外国特に欧米諸国のゆったり感のある住まいにはあこがれを感じてしまいます。私達の行く先はウサギ小屋の続きではなく、ゆったり感のあるマンションなのです。

4.キリスト(の大いなる犠牲)によって備えられた場所

 その住まいは、抽象的な願望、気慰め的なおとぎ話ではなくて、これからパイオニア的な精神をもって道を切り開き、備えをする場所として示されています。お花見のときなど新入社員などが、予め良い桜の木の下に行って筵を敷いて陣取りをしておく、といった光景をよく見ますね。イエス様は新入社員ではないけれども、予めご自身で行って、弟子達のために良い場所を確保するよ、と仰っているのです。

 もう一度思い出して下さい。これは十字架前夜の説教です。明日私は十字架にかかる、耐え難いほどの痛み苦しみを通してその道を開く、その先にあるものなのだ、と仰った訳です。はっきり言いますと、おのが血をもって贖いなさる場所、それが天の住まいなのです

 どうしてそのような犠牲が必要であったのか。それは、私達の罪はキリストの血を持ってしか赦しと聖めを頂く道がなかったからです。「もしそのような場所がないとすれば、私はあなたに空しい望を与えたという非難をまぬかれないでしょう。」という言葉は、これから十字架に直面するキリストの明確な決意を物語るものでした。

5.弟子達に安心感を与えるもの

 この言葉は、艱難の最中にある弟子達に対して、栄光ある希望をもって彼らを支えるためでした。今は、私がいなくなるという予告を聞いて動揺しているかも知れない、でも心配はいらない、私は場所を備えたら、もう一度戻ってきて、あなた方を迎えるよ、と仰っているのです。その確信に立って、「心を騒がしてはいけない、神を信じ、私を信じなさい。」と語られたのです。


B 私達の備え

1.道であるキリストを信じる

 その確信に立って、主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(6節)という有名な言葉を語られました。見ようによってはものすごい唯我独尊に聞こえる言葉です。でも、本当の道を開いた方であったならばこうしか言いようがないでしょう。

 道を示すだけではなく、道そのものであり、真理とは何かを示すのではなく真理そのものが体現しており、いのちに満ちているだけではなく、その命を信じるものに与えるお方、それがキリストです。ですから、私を信じなさいと言い切ったのです。

 永遠の命、天の父の豊かな住まいに至る道である主キリストを受け入れましょう。私達の先輩の者達の共通の信条は、このキリストを主と受け入れた、その信仰を保ち続けて目をつぶったという点です。人間的に言えば成功者もあったかも知れない、そんなに人が認めるような成功者でなかったかも知れない、そんなことは大きな問題ではないのです。彼らの大切な共通点は、この永遠の御国への希望を抱き、キリストに対する単純な信仰をもって世を送り、目をつぶったことにあります。

 どうか後に続く私達も、この点に見習わせていただきたい。そうするならば、天の住まいで、彼らと共に永遠に喜び楽しむことができるのです。

2.明るい希望をもって生きよう

 私達の現実の生活はそんなに容易いものではないかも知れません。不況から底離れしたといわれていますが、依然厳しい経済状況は続いています。世界情勢もこの先どうなるのか、特にイラクの将来はどうなるか、パレスチナはどうなるか、全く見通しがつきません。私達一人一人も、経済や健康の戦いを抱えながらの人生であるかも知れません。特に、ある年齢を超えますと、健康に支障が来て、大きな不安をお持ちの方も多いでしょう。そんな時に、私達に支えとなるのが、聖書のことばです。 

 使徒パウロは私達の肉体を朽ちていく天幕(幕屋)に譬え、来るべき天の住まいを「永遠の建物」に譬えて、こう言っています。

第2コリント5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

第2コリント5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

 私達が弱さや痛みや欠けを感じれば感じるほど、キリストの命を頂くのだという告白は、私達の心を励まします。


終わりに

 今日、先に天に帰った人々の思い出を抱きつつ集われた方々、この礼拝が終わった後でお交わりの内にその思い出を語らいたいと思います。きっと素晴らしい時となることでしょう。

 しかし、一番素晴らしいときと言うのは、多分私達が皆天に帰って、イエス様を中心に、一人一人が頂いた恵を語り合うときではないでしょうか。その日を楽しみに、その日を目指して、地上の生涯を全うしたいと思います。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.4.18