礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内 容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ 版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年4月25日

第一礼拝 「あなたが栄えるため 」

井川 正一郎牧師

ヨシュア記 1章1-9節

中心聖句

Joshua 1:7  ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法 を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所は どこででも、あなたが栄えるためである。

1:8 この律法の書を、あなたの口か ら離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべ てのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄える ことができるからである。

(ヨシュア記 1章1-9節)


はじめに

旧約聖書ヨシュア記1章7節と8節を読みます。

ヨシュア1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモー セがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはなら ない。それは、あなたが行く所はどこででも、あなたが栄えるためである。

1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを 口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためで ある。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

イースターを越えて、ペンテコステに向かっての歩みであります。

主イエス様が十字架にかかって死なれました。弟子たちは絶望の中 にありました。しかし、主が復活され、復活後に弟子たちに現れました。親しく語り、 交わって下さいました。弟子たちはその復活、イースターをきっかけとして変貌。もと より、御霊に満たされてからではあります。

弟子たちにとって新しい時代に踏み込みます。三位一体の神にとっ ても、新しい時代であります。もとよりどの時代でも三位一体の神が働いているが、ペ ンテコステは御霊が表舞台にたっての時代であります。聖霊の時代、教会の時代、そし て、これは神の永遠のご計画の中では終末に近くなってくる時代であります。新しい転 換期にいるのであります。現代の私達も長い目で見れば、当然のごとく転換期でありま す。

そのような転換期との意識をもちつつ、転換期にあった時代のヨシ ュア記から学びたいと思います。ヨシュア記は新約聖書では使徒の働き、恵みの高嶺に 登る書ということであればエペソ人への手紙にあたります。

エジプトを脱出し、荒野の旅路へ出ます。それをやっと終えて約束 の地であるカナンに入っていきます。荒野での厳しい自然環境の中を通過したイスラエ ルの民であります。飲み水や食べ物にも神の格別な配慮を頂いて通過した荒野の生活で ありました。

これに対して、カナンの地は厳しい自然環境はありますが、荒野と 比較すればそれほどではありません。衣食住の生活は定住となり、地から産ずる食物、 穀物を食しつつの農業、牧畜中心の生活であります。問題は原住民との関係−特に宗教 の課題があります。

イスラエルは、残念ながら雑婚−信仰を持っていない人との結婚− 、異教の宗教へと傾きます。堕落、そのような危険、課題に直面しようとする民に向か って、神はまず、忠告を与えます。それが今回の該当するヨシュア記1章であります。

転換期、変革期であります。変わるものは時代であり、環境であり 、人々でありますが、変わらない原則を述べています。それは祝福のかぎ=みことばに 忠実に生きる、歩むことであります。

今回は、どんなに時代その他が変わろうと変わらないものとして、 あげられる要素、すなわち、「神の目的=栄えさせる」に焦点を合わせます。

この『栄える』とは何か、1つ、2つ、3つとりあげ、神様のメッセー ジとしたいと思います。

1.あなた自身が栄えること

第一番目に、あなた自身が栄える−栄える中心にあな た自身がいるということであります。 物質的な繁栄ももちろん含まれていますが、それ以上のことが言われて います。 (1)神がともにあって下さることであります。栄えるとは、神の臨在、 同行があり続けること−言いかえれば、神との関係が正しいものであることであります 。祝福中の祝福、これ以外はないのであります。 申命記では、長く生きるため、あなたが幸せになるためであるとなって いますが、このヨシュア記は申命記の流れの中から読まれるのです。 (2)その結果、成功、繁栄は次のものを生み出すことであります。神の 臨在、同行とは神との交わりが継続していることだから、その交わりを通して、神ご自 身、また考え、計画を深く知ることができます。5節と9節に、

ヨシュア記1:5b あなたは、この民に継がせなければならないか らだ。

ヨシュア記1:9b あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも 、あなたとともにあるからである。

とあります。神との交わりが続くことにより、その神に似てくるのであ ります。似てくることで、品性、栄光、御霊の実、愛、喜び、平安、霊的栄えが伴うの であります。 (3)成功は霊的繁栄でありますが、また多くの場合、物質的、目に見え る繁栄も与えられることもあります。2倍、10倍、百倍の繁栄−これらを求めてしまう 愚かさ、危険は常に伴います。信仰者として神の栄光を表わすことに専念できる人物か どうかをよく見て、神はその人の働き、事業を目に見える形で祝されることがあります 。 でも、もう一度確認しますが、あくま でも栄える、繁栄、成功するのは、「その人」なのであります。

2.時と状況に相応しく行動できる

第二番目に、栄えるとは、どういう状況になっても何 をすべきか、何が正しいことであるか判断できる。そしてその判断にしたがって行動で きることであります。 新約聖書のピリピ人への手紙4章11節を読みます。

ピリピ4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どん な境遇にあっても満ち足りることを学びました。

あらゆる境遇に対処する仕方を知っているとパウロは告白しています。 どんな境遇にあっても満ち足りることを学んでいる−満ち足りるとは、資源が詰まって いる、中身が詰まっていることであります。例えて言うと、たいやきのあんこが尻尾に まで詰まっている(笑)のであります。 「ここでは黙っているほうがよい」「ここでははっきりと話すべきであ る」など、適切な対処を示して下さる−つまり、主イエス様であったなら、この場面、 どう考え、思い、また行動されるかを考えることができると言い換えてもよいのであり ます。 神の臨在と同行は結果として物質的繁栄、また霊的繁栄を生みだします が、それと共に対処の方法、どうすべきかの判断も生み出すといってよいのであります 。

3.神の期待に答えることができる

『栄える』ということの三番目は、神のた め、また他の人のために間に合う人物となること、神に用いられる人となることであります。 二番目の意味の発展した形であり、どう対処できるかの判断ができ、行 動できるようになります。結局それは他人の必要のために役立つのであり、大きく言え ばその時代のために役立つのであります。神様の期待はそこにあります。

「ヨシュアとイスラエルの人々が、カナンの地を目の前にしていま す。これから入るカナンは自然環境との戦いではなく、原住民を含めた、いわゆる人と の関係の戦いであり、日常生活の中での普段の戦いであり、その関係の戦いの中で、証 しすべきことを証しし、勝ち取らねばならないものをきちんと勝ち取り、勝利すること であります。

「罪から離れ、神の民に相応しく証しする。みことばから離れず、 神の栄光を、きよさを示すことであります。

カナンの地の戦いは、人々との関係の戦いだと申しました。荒野の ような孤立したものでなく、人々とどのように関わり、人々に対してどのように自らの 責任を果たすか−あるいは勝利していくかの課題、戦いであり、それは成長のための戦 いでもあります。

「間尺にあわない」という言葉があります。他人の、そして時代の 必要のために間に合うように成長すること、器が大きくなることであります。

たとえていうならば、赤ん坊が幼稚園に入園するときのようなもの であります。

−−−脱線しますが、実は、私は教団内のある牧師先生と同期であ ることがわかりました。それは、その先生のお母様の葬儀のときでわかったのでありま す。聞きますと自宅から僅か数百メートルのところに住んでいまして、幼稚園が地元の 幼稚園で小中学校が同期だったのです(笑)。

話を戻しますが(笑)、赤ん坊から幼稚園デビューしてはじめて外の 世界を知るのであります。すぐに適応できる子供がいれば、そうでなく初めは泣く子供 もいます。

最初は「家に帰りたい!」とぐずっても、数日すると慣れてきて、 友達ができ、遊ぶようになります。当初ぐずっていたのはなんだったのだろうか−−成 長する、器が広げられていったということであります。 反対に、自分にあったものは受け入れ、そうでないものは受け入れない というのは器の小ささ、自己中心、幼児性をあらわすものであります。 罪を持った自我を中心にきよめ、新しい時代、新しい場所、新しい人間 関係にあった成長−器の変貌−を遂げることであります。 ヨシュア記1章7節に、

ヨシュア1:7b それは、あなたが行く所はどこででも、あなたが 栄えるためである。

とあります。新しい場所、新しい時代に適した形で器が大きくされてい くことであります。これが「栄えるため」であります。 おなじ1章の6節、7節、9節に、

ヨシュア1:6a 強くあれ。雄々しくあれ。

ヨシュア1:7a ただ強く、雄々しくあって、

ヨシュア1:9 強くあれ。雄々しくあれ。

と繰り返されています。4節に記述されているヘテ人に対してのことで あり、そのヘテ人は、最近の研究では相当強い民であったと言われています。 ヘテ人と戦うと、絶対勝てないが前に進む−今の私達は勝ち得ない性質 のものだからこそ、策略などではなく、神の臨在、同行である、器を大きくすることで あります。 神の臨在、同行によって、そしてみことばによるものがホーリネスのき よめ、御霊に従うという歩みであり、ペンテコステに向かう歩みであります。

しめくくり

結論として、2つのことを申し上げたいと思います。

(1)みことばから離れない、

(2)間に合う器に変貌したい、 ということであります。「狭さ」を広げていただく、「間口」を大きく していただく−−−それが「栄える」ということであります。 「あなたが栄えるため」、これがメッセ ージです。ご一緒にお祈りしましょう。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/April 25,2004