プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版 =著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年4月25日

山上の説教シリーズ−「隠れた所で祈る 」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マタイの福音書 6章5-8節

該当聖句

Mt6:5-8 

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはい けません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだから です。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているの です。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいり なさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれ ば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ くり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがた の父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられ るからです。

(マタイの福音書 6章5-8節)


1.イースター等の特別行事が続き、山上の説教シリーズが中断し ていましたが、今日から再開します。

今日は祈りについてですが、1節から4節までの偽善的な善行への警 告と同じように、私達の信仰生活が見せ物、ショーではないのだと厳しく警告されます 。信仰は人に見せるためのものではなく、隠れたところにおられる神、隠れたところを 見ておられる神を意識して歩むものであると主は語っておられます。

2.これはパリサイ人たちの祈りの習慣を皮肉をこめて語るというよ りは、むしろ大きな怒りと悲しみをもって攻撃しているものです。「人に見られたくて 会堂や通りの四つ角に立って祈る」という言い方は、私達日本人から見ると、余りにも 見えすいていて、こんな事は実際に起きたのか、と思いたくなります。主イエス様は誇 張してパリサイ人達を描いたのでしょうか。

3.違います。文献によると、このイエスの表現はまさに彼らの行 動パターンだったのです。彼らはユダヤ人に定められていた一定の祈りの時(朝9時、 正午と午後3時)に街角や会堂に来て、祈りを指導するというものでした。彼らは立っ て手を挙げ、大声で、しかも荘重な言葉遣いを持って祈ったことは多くの文献が明らか にしています。彼らの目的は自分は敬虔だと言うことを人々を印象づけることでした。 祈りの時間や習慣、公の祈りがいけないのではなく、その動機が問題だと主イエス様は 言われるのです。

4.イエス様の強調点は、そんな人のため、人の拍手喝采を得るた めの信心などというものは、考えるだけでも邪道だ、というものです。イエス様は、父 なる神との活きた、個人的な、親しい交わりを持っておられました。この交わりの素晴 らしさを知って欲しい、その深さ、貴さを知って欲しいというものでした。

5. ですから、祈る時は、

マタイの福音書6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部 屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい 。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

と命じておられます。これは必ずしも、物理的な密室を作れという だけのことではありません。「神と一対一で対面しなさい、そこに宗教の本質があるの だ」と語っておられます。私達が自分一人で神の前に出て、自分をさらけ出すとき、神 もまた、ご自分を現して下さいます。

6.環境的には、静かな場所が必ずしも得られなくても、人ごみの まっただなかでも神と物語ることが可能です。道を歩きながらでも、自動車を運転しな がらでも、可能です。もちろん、環境的に世の中とわけられた場所と時間をしっかり持 つことが理想ですし、ある意味では原型です。

7.その祈りの内容は、隠れたところを見通しておられる神の前に 、つくろわず、飾らず、ありのままの心を、ありのままの言葉で、すっかり打ち明けて 語ることです。

8.もう一点は、やたらに同じポイントを繰り返さないということ です。

神は耳を持ち給うお方です。私達のことを良く知り、最善を行って 下さるお方です。ですから、心を込めて一度しっかり申し上げれば、もうそれで充分で す。バアル礼拝という宗教がありました。虚しい繰り返しに過ぎませんでしたが、彼ら は繰り返し同じことを祈り続けました。

9.もちろん、同じ願いを繰り返し、しつこく申し上げる場合もあ るでしょう。イエス様がしつこく求めなさいとも語っておられる場所がありますし、ご 自分が、同じ言葉で三度も祈られたという記事もある位です。要は、祈る時信じて祈っ ているか、多分駄目だと思いながら祈っているかの違いです。       

10.私達が祈るべき事柄の要点は、主の祈りにこめられています 。それは次回述べたいと思います。

私達もこのsweet hour of prayerに誘い込まれたいものです。この 礼拝が終るのを待ちかねて、ひとり神の前に出ようと、渇きを覚える方が起こされるこ とが私の祈りです。

11.野田秀先生(東京フリーメソジスト教会・桜ヶ丘キリスト教 会牧師)の著書に『ひとり神の前に』というものがあります。ヨナという預言者が、魚 の腹に入り、一人神の前にでた、あるいは、出させられたことへの思い巡らしの本です 。

彼は預言者として絶えず人々を意識し、人々に対する奉仕をしてい ました。さらに多くの人々から賞賛を受け、羨望の眼を持ってみられていたのです。そ れが彼をごう慢にし、わがままにし、神からニネベにいきなさいという命令を受けたと きに「いやです」という言葉になったのです。野田先生はその本のなかでこう書いてい ます。

「私達は一人になる必要があります。また一人になるために絶え ず工夫をしなければならないのです。忙しい毎日を過ごしている私達ですので、否応な しに人の中に出て行かなければなりません。そのために、一人になることが難しいので す。・・・私達は一人であるためにいるからひとりになるのではありません。人の中に 出ていき、そして人のために生きるものとなるために、一人にならなければならないの です。」

先ほども申し上げましたが、皆さんのありのままの心を、ありのま まになって、「演じている」のではなく、弱いなら弱いなりに、一対一になって神様に 向かうことです。

できれば、反省をもって毎日続けたいと思います。そうすることに よって、皆さんの人生が、家庭が、教会が、そして社会が変わります。

そして、隠れたところで見ておられ、みわざをなされる主イエス様 に従っていきたいと思います。お祈りいたします。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/April 25,2004