プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版 =著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年5月2日

山上の説教シリーズ−「神のために祈る 」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マタイの福音書 6章9-13節

該当聖句

Mt 6:9-13 

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ 。御名があがめられますように。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるよう に地でも行なわれま すように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たち に負いめのある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください 。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

(マタイの福音書 6章9-13節)


1.普通、「祈り」というと私達は、弱く小さい私達人間が、偉大 で力ある神に願い事をする、というイメージを持ってしまいます。それはそれで間違い ではありませんが、主イエス様が私達に教えて下さった祈りというものは、その固定観 念から見ると革命的です。

2.というのは、私達が神から助けを頂くという、いわば人間中心 的な祈りではなく、神のために祈る、神の名前と御国とみ心の為に祈る、いわば神中心 的な祈りを第一にしなさい、と教えている点にあります。この事を心に留めて、主の祈 りの前半を今日は学びます。

3.「天にいます私たちの父よ。」と、主の祈りは、「父よ」とい う呼びかけから始まります。何と暖かい響きを持った呼びかけでしょうか。

1)神を「父」と呼ぶことはイエスに始まったことではなくて、あ まり多くではありませんが、旧約聖書に幾つか散見する思想です。預言者イザヤは、

イザヤ書63:16 主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御 名は、とこしえから私たちの贖い主です。

と述べています。同じ旧約聖書の詩篇にはこうあります。

詩篇103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れ る者をあわれまれる。

2)しかし、主イエス様は、より頻繁に「父」という呼び名を用い なさいました。それは、父なる神との親しい交わりの反映を表わすため、そして、神の 普遍的な愛情を示すためでした。おなじマタイの福音書5章48節にあるように、神は良 きものにも悪しきものにも等しく雨を降らし、日を照らすお方です。

3)私達が神を「父よ」と呼ぶときに、神の親しさ、神の愛、神の 豊かさを期待することができるのです。

4.「御名があがめられますように。」最初の三つの祈りは、神に 関する、神のための祈りです。

1)「崇められる」という言葉の直訳は「清められる」ということ です。何故清められなければならないのでしょうか。もともと「清い」のではないでし ょうか。そうです。神の聖名はもともと清いのです。

2)ヘブライ語で神の聖名は「ヤハウェ」といいます。「私は在る 」とか、「私は在らしめる」という意味です。でも、ユダヤ人は、このお名前を汚すま い、清く保とうとして、それを発音しないで全く違った「主」(アドナイ)という 言 葉に置き換えて発音し続けました。余り長い間その習慣が続いたために、もとの発音が 分からなくなってしまった程でした。それ程、神の尊いお名前を傷つけることに畏怖を 感じていたのです。これはとても大切な気持ちと思います。

3)残念ながら、神の尊い名前は、その神の名を持って呼ばれる「 神の民」イスラエルによって汚されてしまいました。神の民という呼び名だけは素晴ら しかったのですが、彼らの行状が惨憺たるものだったのです。エゼキエルという預言者 が、

エゼキエル書36:20 「彼らは、その行く先の国々に行っても、 わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主 の国から出されたのだ。』と言ったのだ。

と語っているのは、まさにこのことです。

4)ですから、神の名が清められるとは、神の名をもって呼ばれる 民が、清い神の性 質を持ったものにと清められることに他なりません。同じエゼキエルが、

エゼキエル書36:23 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなた がたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前 であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主である ことを知ろう。――神である主の御告げ。――

と語っているのは主の祈りと符合するものです。

5)クリスチャンが清くあること、これはオプションの一つではな く、必要事です。私達がそれによって徳をする、幸福になる−そういった面も確かにあ りますが−ために清くあるのではなく、神の栄光のためです。薄汚れたクリスチャンが 「クリスチャンでございます」と町や村を歩いていては神の名前が汚れるのです。私達 は真剣に、切実に、心の内側から「私を清いものにして下さい」と祈りましょう。神は その祈りに答えて下さいます。

5.「御国が来ますように。」これについては、説明を省略します が、本質的には第一の祈りと同じです。神の意志が妨げなく行われる領域が神の国であ りますから、その御国が来るのは第一に私の心の中でなければなりません。主イエス様 は自らこう言われました。

ルカの福音書 17:20b「神の国は、人の目で認められるようにし て来るものではありません。

17:21『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言 えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるの です。」

6.「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように 。」この祈りも同じ線上で考えられます。同じ金属でも、銅のように電気をまっすぐに 流す物体と、ニクロム線のように通すことは通すけれど抵抗の大きい物体とに分かれま す。天では神のみ心がまっすぐに行われます。地上では、いろいろな抵抗勢力があって 妨げられているのが現状です。その抵抗が除かれて、神のみ心がこの地上でもまっすぐ に行われ、神の国が進みますように、というのが第三の祈りです。

7.こう見ますと、第一、第二、第三は同じ流れで考えられます。 短く言えば、神のための祈りです。

「神よ、あなたの清いお名前が、あなたの名前で呼ばれる人々によ って清く保たれますように、私を清めて下さい。神よ、あなたの願っておられることが 妨げなく行われる素晴らしい国を作って、しかも私の心の中から進めて下さい」

という祈りをともに捧げようではありませんか。お祈りいたします 。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/May 2,2004