プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第二版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年5月16日

山上の説教シリーズ「自分のために祈る」

竿代 皓子牧師

新約聖書 マタイの福音書 6章11-13節

該当聖句

Mt6:11-13 

私たちの日ごとの糧をきょうもお与え下さい。

私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに 負い目のある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください 。

(マタイの福 音書 6章11-13節)


1.はじめに

前回のプレイズ・ワーシップのメッセージは「神のために祈る」と 題されて、主の祈りの前半が簡明に語られました。今日は、主の祈りの後半部分からで す。

後半の三つの祈りを見ますと、全部「私たち」で始まっていますの で、明らかに祈る私たち自身のための祈りです。

はじめに神のために祈り、次に自分自身のために祈る、この順序は 大変重要です。人は自己中心的でありますから、キリストは正しい祈り方の躾をも教え ていて下さるのです。神への礼儀とも言えますでしょうか。

2.「私たちの日ごとの糧をきょうもお与え下さい。 」

1)この第一の祈りは私たちの肉体的必要のために祈っています。 物質的な必要への祈りです。この祈りを何度も繰り返して祈ってみると、「日ごとの糧 」、「きょうも」の二つの意味するものがはっきりしてこないでしょうか。その日一日 の必要を祈っているのです。この祈りの解説は主イエス様ご自身が同じ6章19−34 節で明快にして下さっています。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい 。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、明日のた めの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。

−−−この祈りの真髄は「神」と「富」との問題を扱っているとい えるでしょう。ルカの福音書の「愚かな富める農夫」の譬え(ルカの福音書12章16-21 節)ともあわせて考えると興味があります。

2)もう一つは「お与え下さい。」という祈りについてです。私た ちは自分が働いて自分で稼いで「食料」を得ていると思っています。確かに「働らかざ る者食うべからず」と聖書にも書いてありますから、働きの報酬として、自分の努力の 報酬として「食料」を得ています。しかし、元気で働けることの中に神の恵みを知って 、感謝を表わしている言葉が「お与え下さい。」となっているのです。神の恵みと祝福 とみ守りを願う祈りなのです。この神の前の謙遜さが祝福の源ではないでしょうか。

3.「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私 たちに負い目のある人たちを赦しました。」

1)この第二の祈りは私たちの「人間関係」のための祈りです。経 験上人間関係で最も難しいことは「赦す」ことではないでしょうか。

「あの人だけは赦せない」「あの事だけは決して赦さない」という ものを人は必ず持っております。この人の心の奥深くに沈殿している赦さないことども がヘドロのようになって私たちを苦しめ、人間関係を歪めているのが現実です。

人は何故「赦す」ことが出来ないのでしょうか。まず第一に自分が正しいと思っている からです。第二に自分が受けた悪に対して理不尽であると怒っているからです。この自 己義と怒り、恨みをお互いに持っているとき、冷たい人間関係になることは明らかです 。

これについても主イエス様は、マタイの福音書7章1−5節で説明 しています。ここでの教えは「自分が始めに赦さないと、赦されないという原則」、「 自分が裁くように、自分も裁かれるという原則」です。とても厳しい教えです。人を責 める前に自分を反省しなさいということです。人間は誰も正しい人はいなく、皆同じよ うに赦されなくてはならない悪をお互い行っているということを聖書では教えています (ローマ人への手紙3:10、詩篇14:1-3)。

聖書では罪のない神のみが人を裁くことが出来ると書いてあります 。人は人を裁くことは出来ないのです。自分も同じことを他の人にしているからです。 人に出来ることは「自分が人の悪を赦すように、人にも自分の悪をゆるしてください」 と祈ることのみです。

2)この原則に立つとき、はじめて真の平和な人間関係を築くこと が出来るのです。これを実現させるのは私たちが、自分の負い目を認めなければなりま せん。とても難しいことですが、それを実現させてくれるのが、十字架にかかられた主 イエス様を信じ、彼の心を受け入れることです。十字架上で「彼らを赦し給え」と祈ら れた主の心を受け入れることです。主は私たちに赦す力を与えて下さいます。

4.「私たちを試みに会わせず、悪からお救いくださ い。」

1)これは私たちの社会生活についての祈りです。

私たちが生きている社会は悪と誘惑に満ちています。新聞を読めば 、損失は大きくても、正直に対処すれば社会の信用を得て再建できたであろう会社の例 をいくつも見ますが、多くの場合は、うそで固めて一流の会社のトップたちが逮捕され ると言う最悪の結末のほうが多いようです。社会での生き方は、本当に、聖書の原則に 立たないと足をすくわれるということをまず認識しましょう。「正直者は馬鹿をみませ ん。」というのが聖書の原理です。

2)個人の生活においても自分勝手に生きているのだからいいだろ うという論理は間違っていることをこの祈りは、教えています。個人の悪がどんなに多 くの人々や社会に迷惑をかけるかを私たちは認識しなければなりません。

3)また、この祈りは、人は誘惑に弱い者であることを教えていま す。ですからこそ日々、時々刻々この祈りを以って、主に守っていただく必要があるの です。

5.おわりに

人間にとって最も基本的な、物質的な必要について、人間関係につ いて、社会生活について、短い言葉の中に網羅されているこの主の祈りは、私たちクリ スチャンにとって祈りの模範であります。ともすると良く考えないで唱えてしまいます が、深い真理を理解させていただき、心から日々唱えたいものです。お祈りいたします 。


Message by Rev.Hiroko Saoshiro, pastor of IGM N akameguro Church ; Compiled and edited by K.Otsuka/May 16,2004