プレイズ・ワーシップ メッ セージサマリー
(教会員のメモに見る説教の内 容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版 =著作権・日本聖書刊行会)によります。
2004年5月23日 山上の垂訓(説教)シリーズ
「天に宝を」
井川 正一郎牧師
新約聖書 マタイの福音書6章19-24節
Mt6:20-21
マタイ6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこ
では、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 マタイ6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心 もあるからです。 (マタイの福音書 6章20-21節) |
1.はじめに
マタイの福音書6章19節から24節をお読みします。
マタイ6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこ では虫とさびで、きず者になり、また、盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびも つかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全 なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それ なら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を 憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは 、 神に仕え、また富にも仕えるということはできません。
プレイズ・ワーシップでは、主イエス様の山上の説教を取りあげて います。
天の御国に相応しい者がどのようなものか、天の御国の憲法のよう なものが述べられています。6章は、特に天国に相応しい者が具体的生活の中にあって 、どういう姿が相応しいか、具体的に述べられています。まず施しにおける態度、次い で祈りにおける態度、断食における態度、そしてきょうの箇所−富(金銭)に対する態 度、経済における態度が述べられています。
「宝を地上にたくわえることをやめ、宝を天にたくわえる」−これ が御国に相応しい者の態度、姿勢であります。宝を地上にたくわえない、天にたくわえ るとは、どのような意味か、そしてなぜそう言われるのか、その理由を考え、短く、3 つの ことをお話しします。
2.第一の理由−−−地上の宝は一時的で、いつかは 消えるものだから
天にたくわえる宝が永遠に残るものだからであります。言い換える と、富に対して、地上的理解をするのでなく、天的理解をするようにということであり ます。価値を地上的に判断するのでなく、天的に判断、評価することであります。
富に対する態度は、地上での理解(評価)と天での理解(評価)− 目に見える理解評価、目に見えない理解評価があります。地上での理解は、地上の富、 宝というものがはかなく消えてしまうものであり、一時的なものであります。
これに対して、天での理解は、これは目には見えないが、しかし、 確実に存在する永遠に残る理解、評価の仕方であります。
地上の理解は一時的でいつかは消えてしまうもの、自分の手から離 れるものであります。
地上にたくわえることをやめよとあります。宝を宝としてたくわえ ることをやめよと宝が強く否定されています。これは、現在行っていることを直ちにや めよ、中止せよとの意味−つまり、「現在、あなたがたは本当の宝でないものを一所懸 命にたくわえようとしている、それを今、直ちに愚かなものとして中止せよ」というこ とであります。それは一時的なものにすぎず、何よりも消えてしまうもの、離れてしま うもの、捨て去らねばならないものだからであります。
聖書には興味深い言葉が使われます。地上は、「虫とさびできずも
の」になり、また「盗人が穴をあけて盗むところ」と定義されています。虫は服を食い
荒らす虫、高価な服は宝とされていました。倉庫にたくわえてあった穀物、財産がねず
み等によって食い荒らされ、金属の腐食が進むとの意味合いがあります。
きずもの=消えてなくなるとの意味。またイスラエルでは当時の家
は、粘土を焼いた壁状のもので建てられていたので、盗人は穴をあけて侵入して盗むの
であります。 また、天に宝をたくわえよとは、永遠に残るものに心を傾け、それ
を積み重ねよということであります。 3.第二の理由=神が喜ばれる行いだから・神の御心
に相応しい行いだから 神の御心に相応しいとはこの場合、管理者的精神をもつということ
であります。 天に宝をたくわえる、天に宝を積むとは、神の御旨にかなうわざを
行うこと、善行です。 富に対する態度としては、その金銭−神から与えられたものに対し
て、「管理者」のような心をもって扱うことであります。ステュワードシップ=管理者
的精神、心構えといっていいでしょう。 預かりものとの心、意識を持ち、その意識で扱う、使うことであり
、使ったとき、きちんと神に報告書を提出できる使い方であります。 監査が入っても大丈夫、年金未納かどうか調べられても大丈夫。「
かせぎなさい、たくわえなさい、ささげなさいが目的なのだ」ということであります。
そもそも、天的−永遠に残る天に宝をたくわえよとは、神の御心に
かなう行いであります。それを積み重ねよ、地上での貯金が悪いというのではありませ
ん。 将来の計画等のために資金を備えることも悪くありません。しかし
、それに心が束縛されてはいけないのであり、心が問題なのであります。 金銭は中性。それに対する人間側の心が常に問題であり、そしてほ
とんどの場合、悲しいかな、失敗し罪を犯すのであります。そして、実はこのことばは
金銭に対する態度だけを考えているのでなく、神様が喜ばれるか、神第一の姿勢になっ
ているかが問われている箇所であります。ですからここは、目に見えて、計算される行
いも含まれますが、
それ以上に目に見えなくとも、計算できなくとも愛といった行いも宝なのであります。
4.第三の理由=天に宝を積むとは、心があってでき
るもの その心は、実は、人間には最初からは与えられていません。永遠
を見る心、天に宝を積むことが永遠の価値のあるものと判断、評価できるのは、神から
与えられる心があってはじめてできるものであります。これは主イエス様を信じ、受け
入れた者がはじめてできるものであり、心がキリストを受け入れていないかぎり人間は
常に地上的な事柄しか見えないのであります。心がそこに束縛されているのであります
。 天に宝を積むことは、神を信じている者ができる行いであります。
目のたとえがありますが、目はからだの窓で、そこから光が体の中に入ってくると考え
まし
た。目が正常であれば、光が正しく入り、全身が輝き、明るくされ、光のもたらす恵み
にあずかることができます。しかし、目が悪い状態であれば、そこから光が入らないの
であります。暗く、病の状態であります。 健全とありますが、ここでは目が澄んでいる、心が一つのものに集
中し
ている、二心がない状態であります。健全な目の状態の人は、心が澄み、一つ心に集中
して、天に宝をたくわえることが永遠の価値のあることだと判断できるのであります。
「自分の宝は、天にたくわえなさい」−−−「天に宝を」、きょう
のメッセージです。お祈りいたします。 Message by Rev.Shoichiro Ikawa,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/May 23,2004