礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年5月30日

ペンテコステ礼拝

「心を合わせて祈る」

竿代 照夫 牧師

使徒1章12-14節、2章1-4節

中心聖句

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

(使徒1章14節)


はじめに

 今日はペンテコステの日です。ペンテコステとはギリシャ語で第五十と言う意味です。キリストの復活後第五十日目に、キリストが約束された聖霊が弟子達に降り、彼らの心が変えられ、勇気に満ちて説教を行うようになりました。その結果一日に3千人の人々が救われ、教会というものが誕生しました。そのことを毎年記念するのがペンテコステです。

 今日は、その大いなる聖霊の注ぎをもたらした、弟子達の祈りを学びます。実は、奇しくも今日予定されているプレーヤーフェロシップデーの営みへの発題という意味も込めて、それを学びたいと思っています。


A.祈りの環境

1.祈った人々

 11弟子、婦人達、イエスの兄弟のヤコブ、母マリヤ等を含む120人の人々であったと記されています(1:15)。

2.祈りの場所

 エルサレムの(多分マルコの母であるマリヤの家の)屋上の間と考えられます。他に泊る所が無かったからかも知れません。ともかく一緒にいる事を選び、求め、留まったのです。私達も、いっしょに集まって祈ることの大切さを値積もりましょう。祈祷会を愛し、その出席を確保しましょう。

マタイ18:19 あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

と主イエスは約束しておられます。


B.祈りの目的:何のために祈ったか

1.聖霊によるバプテスマのために

1)ヨハネによって預言され

 それはヨハネによって預言されていました。

ルカ3:16 私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。・・・その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 聖霊によるバプテスマとは聖霊の感化とお導きに私達が全く明け渡して、聖霊の感化にどっぷりと浸ってしまうことです。彼のみ業の中心である聖化の恵を頂くことです。彼らの心に巣喰っていた嫉妬、憎しみ、競争心を火で焼いていただくことです。

2)イエスご自身によって更に明確に約束され

 この恵は主イエスご自身によって更に明確に約束されました。それは昇天の日にもう一度繰り返されました。

使徒1:4-5 エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。

2.キリストを証する力を与えられるために

1)力の賦与の約束

使徒1:8 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 

2)無力さの自覚

 弟子達は、自分達が臆病で、力のないものであることを厭と言うほど自覚していました。ゲッセマネの園で、神殿警護の役人達が主イエスを捉えようとしたとき、彼らは僅かの、しかも見当違いの抵抗を試みただけで、一目散に逃げてしまったからです。その後も「イエスなんか知らない」と三度も否みました。

 聖霊の満たしは、弟子達にとって選択科目ではなく、必修科目だったのです。大きな使命を与えられたにも拘わらず、無力に囲まれていただけで無く、それを妨げる要素を多く持っていた弟子達、それを深く自覚したからこそ熱心な祈りを捧げたのです。

 今日も世界、日本は容易ならない課題を抱えています。私達は無力そのものです。それだからこそ祈りに集中し、祈りによって世界を動かさねばなりません。

3)留まれと言う命令

ルカ24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

 「エルサレムを離れない」とは、自分を座らせなさい、という意味です。現代の私達の生活は活動で忙しく、座る営みを与えないかのようです。そうであればあるほど、意識して、努力して祈りの時間を確保しなければなりません。私達は奉仕に忙しくて祈る時間がないと考えたり行動してはなりません。十分に座って、祈って、力と導きを得ない奉仕は全て虚しいことを知らねばなりません。


C.祈りの方法

1.継続的な祈り:10日間

 10日間彼らは飽きずに、弛まずに、途中で投げ出してしまわないで、祈り続けました。10日で答えられると言う保証はありませんでした。それでも熱心に祈り続けました。答えが得られるまで、というしつこさが答えられた理由です。

2.熱心に熱心な祈り:Steadfastly

 Steadfastly (proskarterountes=strongly, persist obstinately in, adhere firmly in, persist obstinately in)とは頑固にある営みに固執することです。他の営みを排除して、継続する営みです。彼らがどうやって食べたのか、寝たのか、他の活動はどうしていたのか、全く分かりません。ともかく、寝る以外のほとんどの時間を祈りに費やしていたことは疑えません。

 祈りに専念とは、祈りに時間を使い、エネルギーを割き、祈りに没頭する様をあらわします。私達の生活でこの営みが不足しているのではないでしょうか。私達の生活の中で忙しくなると、まっ先に削られるのが祈りの時間ではないでしょうか。ルターは言いました「私はしなければならない沢山の仕事があるから、より多くの時間を祈りに費やさなければならない。」と。

 今日の午後の時間を心ゆくまで祈ろうではありませんか。私達は10日間連続祈祷会は出来ないかも知れませんが、せめて、今日の午後だけでも祈りに費やそうと思います。

3.一つ心をもって (114) 

使徒1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

1)一つの目的のために

 これは、先ほども触れましたので繰り返しません。どうしてもやり遂げなければならない目標が彼等の心を一つにしました。福音を全世界に宣べ伝えるというゴールです。皆が弱いという弱さの自覚も共有していました。その祈り会の最中に互いの反目、わだかまりを言い表わし、謝罪する営みもあったことと思います。私達は日本と日本人というテーマで、福音に対して石地の様に固い日本の土壌を見ました。福音が広がって行くのは絶望的な感じがします。ですからこそ、私達が心を合わせて一心に祈らねばならないと思います。

2)集中して:homothumadon=agreeably

 他の事に心を向けないで祈りに専念していた。ガリラヤの家は、畑はどうしたのか、そうした心配事から。多分断食祈祷会のようなスタイルでは無かったかと思われます。それ程祈りを大切なプライオリテイナンバーワンと考えていたのです。

3)互いの罪を言い表して

 homothumadon (homo=same, thumados =mind)はまた、互いの反目や誤解や競争心が溶かされて、和解の心で祈る事も意味していました。ヤコブ5:16には、「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」と記されていますが、この連続祈祷会に出席していたヤコブの発言であるところに重みがあります。

 一般的な祈りではなく、互いの(罪の内容まで立ち入った)告白の伴う真実、正直、率直な祈りだったのです。それは告白を伴う率直な祈り合いでした。告白とは、ギリシャ語でエクソモロゲオーと言い、告白しつくす、包み隠さず、フランクに、公に言い表す事を意味しています。罪の内容まで立ち入った告白の伴う真実、正直、率直な祈りが必要なのです。告白しつつ祈ることは、交わりの深い形でした。これは魂が謙遜に満ち、さらに、注意深くなければ得られない事でした。

 このような祈りが出来るのは本当の友達とでなければなりません。逆に言えば、このような祈り合いが出来ないのは本当の友とは言えません。これは、いわゆる懺悔ではありません。兄弟達同士でこのような心開かれた交わりがなされる場所、それが教会です。またその様な教会でなければなりません。互いの反目も誤解も、長期の祈りで消えて行ったと思われます。

4)チューニングされて:不協和音が除かれて

 一つ心とは、調和を保ってと言う意味でもあります。オーケストラで一番にすることは、チューニングですね。クラリネットのような音程のしっかりした楽器がA(ラ)の音を出しますと、みんながそれに併せて自分の楽器をチューニングします。これがいい加減ですと、そこから流れる音楽はぬかみそが腐るほどの恐ろしいものとなります。

 弟子達の祈りは初めには、そのようなものであったことでしょう。ペテロはごう慢の罪を悔い改め、ヨハネは癇癪の罪を、トマスは不信仰の罪を、ヤコブは政治的野心という罪を悔い改めと言った具合で、連続祈り会はボキム(嘆き)の谷と化していました。「互いの為に」という言葉の中から、互いの信仰の(回復の)ために祈るべき事を教えています。教会の横なりの関係の大切さがここでも伺われます。真実な愛は互いの為の祈りに現れます。


終わりに

1.マリヤでさえも祈ったことの意味

 「マリヤもその中にいた」と言う言葉に心を向けましょう。マリヤはともかくすばらしい女性でした。ほとんど非の打ち所のない女性と言っても過言ではありません。そのマリヤでさえも、謙って、心を開いて、弟子達といっしょに祈ったのです。そして聖霊に満たされました。私達の内誰一人、自分はマリヤより信仰が上だ、と思う人はいないでしょう。そのマリヤが恵を求めて真剣に祈ったのですから、まして私達が祈らなくて良い筈がありましょうか。

2.祈祷会の意味

 更に、ヤコブの祈りの勧めが、教会的な祈りについてであることを思いますとき、私達の教会の祈りの場の大切さを強調せざるを得ません。祈祷会の時間的、距離的な困難さは良く分かりますが、その大切さをもっと深く認識して、祈祷会出席を確保しましょう。


付録

 直ぐにも祈りを始めたいと思いますが、一旦昼食休憩が入りますので、頌栄と祝祷をもって礼拝式を終えます。ただ、お互いに祈るとき、次の事柄に心を留めて祈りましょう。

プレアー・フェロシップ・デー:グループでの分かち合いと祈り (お昼ご飯とその後で・・・)

1.グループの互いの顔と名前を覚えましょう。そのために、ごく簡単な自己紹介をしましょう。自分の名前、職業、住まいなど・・・。

2.恵を分かち合いましょう。特に、今日のメッセージを聞いて心に示されたこと、今週実行しなければと考えたことを具体的に・・・。

3.自分のために祈って欲しいこと、弱さ、問題など飾らずに言ってみましょう。

4.お隣の人のために祈りましょう。輪になって祈るときは、右隣の人のためにとか・・・。

5.更に時間があれば、みんなで感謝の時を持ちましょう。

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<グループでの分かち合いの時に大切なのは、一人が長くしゃべらないことです。沢山話したい人は、一回に長くしゃべらないで、何回かに分けて話すこともできます。もう一つ大切なことは、他の人の話を良く聞くということです。批判的なコメントをしないで、他の人の話を聴き、理解する態度が必要です。心がけましょう。最後に、分かち合いの中ででたことを不用意にグループの外に話さないようにお願いいたします。>


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.5.30