礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版 =著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年6月13日

マルコの福音書連講(36)「奇跡のための 備え」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マルコの福音書 6章30-44節

中心聖句

Mk 6:39 

マルコ6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青 草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。

マルコ6:40(文語訳) 或は百人、あるひは五十人、 畝のごとく列びて坐す。

FONT>

(マルコの福音書 6章39-40節)


はじめに

1.前回は、主イエスが忙しい奉仕を一旦打ち切って休憩を取りな さろうとした記事を学びました。人生における休息の必要と効果については、よく考え る必要があるように思います。

2.今日は、主イエス様が計画された休憩は休憩にはならず、大勢 の群衆が集まってきて 大集会となり、5千人の群衆に奇跡のパンを供給すると言う大 きなイベントになって しまった記事を学びます。この出来事が転換点となって、イエ スの公的な奉仕は最期 の一年の締めくくりへと向かうようになるという意味で、大変 重要なものです。4つ の福音書が筆をそろえて記録している数少ない出来事の一つで あることを覚えつつ、学びたいと思います。

A.奇跡の背景

1.群衆の集合(33節)

主イエスとその一行が舟で密かにカペナウムからベッサイダに向か ったそのニュースは、たちまち人々の知るところとなりました。

マルコ6:33 ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、 それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまっ た。

というマルコの簡潔な文章ながら、人々の動きが手に取るようにお わかりになると思います。

徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に

とありますように、よほどの早足で歩いたのでしょう。彼らの興奮 振りが良く描写されています。ちなみにカペナウムとベッサイダまでは約6キロの道の りです。大人の足で2時間くらいでしょうか。

2.イエスの憐れみ(34節)

先週もお話ししましたように、主イエス様は飼うもののない羊のよ うな人々の魂の飢え渇きを見て、深く心を痛めなさいました。人々に対する純粋な愛が 休暇計画を忘れさせたのです。主イエス様は、そこで

マルコ6:35b いろいろと教え始められた。

のです。「いろいろ」とは何を含むのでしょうか。ルカは補充して 、

ルカ9:11b イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し

と、福音書で説明しています。四方山話ではなく神の国が主要な論 題でした。さらに、

ルカ9:11c いやしの必要な人たちをおいやしになった。

とありますから、癒しの業もなさったのでしょう。

B.奇跡の必要

1.弟子達のリクエスト(35−36節)

語る方も熱心、聴く方も熱心、時を忘れ、人々も去る気配を見せず 、語る主イエス様も時間を気にするわけでもなく、ついに日ぐれ時が近づいてしまいま した。 ここでは、それに気付いた弟子達が「何とかして下さい」とイエス様に進言したように 記されています。ヨハネはイエス様が弟子達に問うたとありますが、気を揉んでいたの は弟子達だったようです。

弟子達のリクエストは、「もう解散して、それぞれが買い物を出来 るようにさせて下さい」というものでした。もっと早く進言すればよかったのでしょう が、時既に遅かったのです。

2.イエスの命令と弟子達の困惑(37節)

主イエス様のご命令は更にふるっています。

 マルコ6:37a 「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を 上げなさい。」

「気がついているなら、自分達で何とかしなさい」と弟子達の責任 を試されたのです。

何とかしなさいと言われても困惑するば かりなのが弟子達です。

 マルコ6:37b 「私たちが出かけて行って、二百デナリものパ ンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」

ととんちんかんな質問をしました。だいたい、二百デナリと大きく はでたものの、そんなお金を持っていたかはなはだ疑わしいのです。これは労働者の賃 金の八ヶ月分ですから、今日で言えば、百万円に相当するでしょうか。

おかしいのはそれだけではありません。百万円抱えてパン屋さん巡 りをしたところで、へんぴな場所、どれだけのパンが買えるでしょうか、どう考えても 非現実的な提案です。それくらい困惑をしたということでしょう。

C.イエスの大いなるみ業

1.パンと魚の提供(38節)

主イエス様は、誠に奇妙な質問をされました。

 「パンはどれくらいありますか。行って見てきなさい。」

パンがなくて困っているのに、「どれくらい?」とは誠におかしな 質問です。「行って見てきなさい。恐らく群衆に尋ね歩きなさい」ということでしょう 。

もっと奇妙な、弟子達にとってはかっこわるい行動です。弟子達は 奇妙だと思いつつもそれを実行しました。それが奇跡を起こす一つの要因です。イエス の言葉が奇妙に見えても、それが主の命令である限り素直に実行する素直さと信仰が必 要です。

さて、それに答えてパンが五つ、魚が二匹でてきました。マルコは 記していませんが、それが一人の少年のお弁当であったこと、更にパンは大麦のごわご わした粗末なものであったこと、見つけたのはアンデレであったことを記しています。 今日はその点は詳しく触れません。

2.秩序正しい準備(39、40節)

奇跡を見越しての行動です。パンがふえる、人々がパンに殺到して 混乱が生じる、それを見越して主は、「50から100人で組を作らせなさい、そして 座らせなさい」と命じられました。本当に用意周到の群衆管理です。

私もケニアで千人単位の群衆に食べ物を配る仕事をさせていただい たことがありますが、イエス様のこの記事をいつも思い出します。組々にすること、座 らせること、これは秩序を保つのに大いに役立ちます。 ヨハネはもう少し詳しく、過越の祭が近かったので、青草が沢山茂っていたことを記し ています。主イエスが十字架にかかられたのは過越の祭でしたから、ちょうどその一年 前だったのです。季節は春、草が生え始めていましたから、座っても大丈夫だったので しょう。ここでマルコが述べている小さな言葉に注目して下さい。

 マルコ6:40……固まって席に着いた。

とあります。文語訳をを覚えておられる方は、

 マルコ傳?音書6:40 ……畝(うね)の如く列(なら)びて坐 (ざ)す。

とあります。プラシア(=a bed in a garden, a garden-plat, 花壇、菜園の畝)とは文字通りにはそう訳すべきなのです。畑を掘り起こして野菜を植 えるとき、一列に土を盛っていきますが、あれを畝(うね)と言います。

私は家庭菜園の主でしたからわかります。素人が畑を作るとぐにゃ ぐにゃしてしまいますが、お百姓さんはびしっとまっすぐに畝を作ります。あの畝のよ うに人々は並んで座ったのです。

5つのパンで5千人を養ったという主イエスの大きな奇跡の業の陰 に、こうした地道な備えがあった、その備えがあってはじめて奇跡が行われたというこ とを知ることはとても大切です。

3.感謝の祈りと奇跡的な増殖(41節)

主イエス様の祈りの内容はここに記されていませんが、イスラエル の定型的な祈りのパターンに従ったものと考えられます。主イエス様はパンを高く上げ て「私達の神、主よ。あなたは土の中から食べ物を生み出しなさる世界の王であられま す。今日も日用のパンを与えて下さったことを感謝します。アーメン」と祈られたでし ょう。

そしてそのパンを二つに割りました。驚いたことに、割られた二つ とも大きさが同じでした。それを弟子達がまた二つに割った。それでも大きさは変わら りません。そのパンはどんどん人々の間に渡っていきました。魚も同じでした。

4.人々の満足と残り物の始末(42−44節)

マルコ6:42 人々はみな、食べて満腹した。

とあります。おなかのすいていた群衆の誰一人洩れるものはなく、 弟子達も、パンと魚を供出した少年も、そして主イエス様も満腹になりました。人々の 喜ぶ顔々が目に浮かぶようです。

人々が思うまま食べている姿ほど幸福な様はありません。人々は法 悦に似た満足感を味わい、喜びをもって暗い夜道を家路につきました。

この話はまだ終わりません。主イエスは弟子達に、余りをかごに詰 めなさいと仰ったのです。一面厳しいですね。

疲れ果てた弟子達に、「余りのパンと魚を拾って篭に詰めなさい」 と最後の仕事を命じられました。私はこの奇跡物語の周辺の小さな記事が好きです。パ ンを5千倍に増やすことが出来るお方が、なぜ余りを集めなさるのか、考えただけでも 不思議です。

「奇跡はこれでおしまい、後は普通の生活に戻るよ」というメッセ ージなのか、飽食で食べ残しが山のようにでる現代日本に対して「ものを大切にしなさ い」というメッセージなのか、いろいろメッセージが汲み取れることと思います。

おわりに

1.必要を満たし給う主を信じよう

主は今日も、私達の必要を御覧になり、目に見える形、見えない形 でそのみわざを顕わしておられます。この5つのパンの奇跡はそれを如実に示していま す。

私達は、「どんな必要に対しても 主は必ず満たして下さるという」大きな、そして確かな信仰を持って日々の生活を営み たいと思います。

2.主のみ業に備えよう

その信仰と共に大切なのは、主のみ業に対する私達の備えです。 私達の生活態度が「畝(うね)のような」整ったも のでしょうか。パンくずを集める忠実さがあるでしょうか。主は私達のそうした態度を 見て、み業を顕わしなさいます。はっきり言えば、ウェスレーの語った恩 寵の手段ということでしょう。

生活態度がいい加減で、神の奇跡を仰ぐのはちょっと虫が良すぎま す。主の業を頂けるような歩みを真実に全うしたいものです。お祈り致します。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/June 13,2004