礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年6月27日

マルコの福音書連講(37)

「私だ。恐れることはない。」

竿代 照夫 牧師

マルコ6章42-56節

中心聖句

50-51 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。

(マルコ6章50-51節)


はじめに

 前回は、5千人の群衆に対して奇跡的な方法でパンを供給した記事から、

1)イエスの大いなるみ力と、
2)主のみ業に対する私達の備えの必要を学びました。

特に2)については、「畝のように」並んで座った群衆のように私達の生活態度が整ったものとなっているかに焦点が当てました。主の大いなるみ業を拝するためには恩寵の手段を疎かにしないという私達の側の備えも必要です。

 今回は、大いなる奇跡の後の締め括りを学びます。ここもまた大切な教訓に満ちた箇所です。


A.イベントの後始末

 5つのパンと2匹の魚をもって5千人を養うという大きな奇跡をなさったその後の主イエスの行動は、見事と言うしかありません。後を引かない、ベタつかない、あっさりした態度で次の予定に向かって進んで行かれます。

 1967年ビリーグラハム伝道会が大きな成功の内に終わり、実行委員達が興奮してこの運動をもっと続けようと期待に満ちて集まったとき、委員長であられた蔦田二雄先生は、お祭りはこれで終わり、みんなそれぞれの教会に戻って地道な伝道と牧会に励みましょう、と解散宣言をされました。何か主イエスの行動にはそれに似た潔さを感じます。

1.パンくずの収集(42-44節)

42 人々はみな、食べて満腹した。43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

 始末屋さんとしての主の面目躍如ですね。これについては先回も強調しましたから繰り返しませんが、世界の食べ物を食い散らかす我が国の在り方を大きく反省しなければなりません。

2.解散命令(45節)

45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。

1)「興奮に浸りたい」人々

 群衆はパンの奇跡に興奮しました。弟子達も同様です。彼らはその興奮の中にずっと浸っていたかったでしょうね。その気持ちは良く分かります。昨年タイガースが優勝したとき、ほとんどのファンは甲子園球場に留まって、何度も何度も六甲降ろしを歌い続けたのと似ています。弟子達も弟子達で、自分の手から他の人の手に渡るとき、どんな風にパンが殖えていったか、それぞれ体験談を語り合っていたことでしょう。恵を数えることは大切でしょうが、出来事に目が奪われて、その背後の主キリストのみ力を見失うという落とし穴は絶えず存在します。 

 「52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」という心の態度は、奇跡の出来事の最中にも見え隠れしていた態度ではなかったことでしょうか。主イエスは、出来事中心の物の考え方、イベント志向の信仰から卒業しなさいとばかりに解散を命じ、弟子達を強制的に舟に乗せなさったのです。

2)「イエスを王にしたい」人々

 解散の理由はもう一つありました。それはヨハネが解説しています。「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:14-15)

 つまり、人々はイエスを中心としたイスラエル王国を宣言しようとしたのです。ローマ帝国に支配されていた植民地イスラエルにとって、これは絶好の機会でした。しかし、主イエスの神の国運動にとっては、その方向を政治運動にねじ曲げる大きな危機でもありました。ですからこそ、主イエスは、毅然としてノーを宣告されたのです。

3)「ベッサイダへ」と言う困難

 この場所はベッサイダの近くであったので、そこからベッサイダというのは矛盾するようですが、ベッサイダ近在の原っぱからベッサイダ村の方向へ、そしてカペナウムへと舟を向かわせた(ヨハネ6:17)と考えれば矛盾は解けましょう。

3.孤独な祈り(46-47節)

46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。

 主は何故一人になって祈りたく、身を引かれたのでしょうか。幾つか理由が考えられます。

1)感謝

 パンを5千人に給食するという大きなみ業の背後にある父なる神に感謝するためであったと思います。主は、奇跡の業を自分の力のデモンストレーションとしてではなく、父なる神の業の表れといつもその栄光を帰していました。

2)充電

 大きなみ業に心身共に疲れ切った主イエスは、新しいエネルギーを補給していただく必要を感じなさった事でしょう。それは、一人になって、父なる神と交わり、霊の注ぎを頂くことによって可能と体験的に考えなさった事でしょう。

3)展望

 群衆や弟子達の誤った興奮や政治運動化へのプレッシャーを感じながら、これからの運動の軌道をどう正して行くかを静かに考えなさる必要を感じなさったことでしょう。

4)執り成し

 弟子達のために、飼うもののいない羊のような群衆のために、主イエスは一人神の前に出て、とりなしの祈りを捧げる必要を感じなさったことでしょう。先週の月曜日に東京教区の牧師達が八王子祈りの家で一日を祈りに用いる幸いなときが与えられました。イエス様が山に退き祈られた状況とその恵の一端を味わった気持ちです。私達も沢山の時間は取れなくても、あるひとときを祈りのために孤独になるという習慣をつけさせていただきたいものです。


B.嵐と解決

1.嵐の到来(48節a)

48a イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり・・・

 主イエス様のご命令で出発したのに向かい風に遭うなんて、と弟子達はぶつぶつ呟いたかも知れません。向かい風にあって弟子達は(文字通りには)「拷問にかけれらた」かのように、こぎあぐねていました。

 そうです。祈って、み心と信じてスタートしたプロジェクトでも、向かい風が生じることは充分あり得ます。会堂の問題でも、何度も向かい風にぶつかりましたし、その他良いプロジェクトでも、家庭でも、個人生活でも、向かい風は起きます

 問題は、そこで呟くのではなく、全てを支配される主を見上げるか否かです。因みにイエスの生涯の中で嵐を鎮めた記事はもう一回あります。マルコ4章にありますように、これはゲラサ地方への旅の途中でした。状況には大きな違いがあり、その物語の強調点にも違いがありますが、二つの物語の中で、自然界の法則を乗り越えて働きなさる主イエスという点では共通です。

2.海上歩行(48節b)

48b 夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

1)海の上を歩いて

 5つのパンを何千倍にも増やしたり、海の上を歩いて渡ったり、そんなおとぎ話的な事が沢山書いてあるから聖書は信用できない、等と簡単に決めつけないで頂きたいのです。神は自然界の法則を作り、運行されます。その同じ神が、法則を乗り越えて働くことは極めて自由です。これ以上の説明は致しませんが、ともかく、不思議な現象でした。

2)そのままそばを通り過ぎようと

 ここで分からないことがあります。主のご目的は弟子達の救出にあったのですから、彼らに近づいて行かれた、までは分かります。では、どうして「そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」のでしょうか。弟子達がイエスを認めなければそのままさよならする、そんな冷たいイエス様なのでしょうか。私はそうは思いません。イエス様の関心は、向かい風で難儀している弟子達に向けられていました。でも、イエスが余り速く歩かれたので、通り過ぎそうに弟子達は感じたというのが穏当な解釈と思われます。

3.弟子達の恐れ(49節-50節a)

49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。50a というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。

1)幽霊(ファンタスマ)と錯覚

 弟子達の恐怖がここで特徴的ですね。「幽霊だと思い、叫び声をあげた。」幽霊と訳されている言葉はファンタスマ(顕れ、霊的なものの可見的な姿)で、英語のファンタジー(幻想)等とおなじ語源です。

 ここでの疑問は、大体ユダヤ人に「幽霊」という概念があったのでしょうかという点です。パリサイ人は、悪霊が夜に人間的な形で現れる、それが人さらいとか悪いことの原因である、と信じており、イエスの弟子達もその影響を受けていたと考えられます。何よりも人間らしい物体が海の上を歩いている、と言う現象が恐怖を与えました。それも鏡のように静かな海ではなく、波が逆巻いている嵐のような海を歩いているのです。波に上下させられていたのかどうか、その辺は分かりませんが、ともかく異様な現象です。

2)恐怖の叫び

 その幽霊が嵐の元と考えたのかも知れません。幽霊が何の怨みがあって私達に祟るのか、といった恐怖感をもったのかも知れません。ともかく彼らはあらん限りの叫び声を上げて助けを求めました。深夜の湖で大の男達が金切り声を上げている、その姿を想像するだけでも、異様な感じです。時は朝の3時から4時頃、恐怖の瞬間ですね。

4.イエスの乗船と嵐の鎮静化(50節b-51節a)

50b しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。51a そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。

1)しっかりしなさい=快活さと勇気の回復

 文字通りには、元気を出す(サルセオー=快活さ、勇気、慰めの心を持て)ということです。いつもの信仰や平安はどこへ行ったのですか、元の快活さ、勇気を取り戻しなさい、と主は励ましなさったのです。

2)私だ(エゴー・エイミ)=主の臨在

 幽霊などではない、他のものでもない、私イエスである、という確証です。あなた方の贖い主、あなたがたの主、あなた方の救い主ではないか、という確かな保証がその言葉に籠められていました。

3)恐れることはない(メー・フォベイステ)

 何も恐怖の対象であるはずがない、反対に私がいることによって大きな安心を持つことができるではないか、という挑戦が籠められています。あなた方を助けるために来たのが私だ、私がいる限り、恐れることは一つもないのだよ、と優しく語られたのです。

4)風が止む

 イエスを舟に迎えた直後に風が止んだのです。非常に象徴的とは思いませんか。私達が主を心に迎える前には、世の嵐に悩み、惑い、心乱れることが多かったのですが、主を人生に迎えると、風が止むのです。

5.弟子の驚きと不信仰(51節bー52節)

51b 彼らの心中の驚きは非常なものであった。52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。53 彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。

1)一時的な驚き

 弟子達は驚きました。実はこれは今まで何度も繰り返されたセリフです。中風のものの癒しにも驚き、この前のガリラヤ湖の嵐の時にも驚き、ヤイロの娘の復活にも驚き、パンの奇跡にも驚きました。

2)でも鈍感さと頑なさが・・。

 でもそれがイエスはキリストであるという深い信仰に繋がらなかったようです。つまり、一つ一つの出来事に驚きはしますが、それを可能とするイエスのキリストたることへの揺るぎ無き信仰とはなっていなかったのです。

 ですから「驚きつつも」心を固く閉じていたのです。神様なんているものか、いるんならば証拠を見せてくれ、そしたら信じる等と大袈裟な啖呵を切る方がありますが、心が頑なですと、どんな証拠を見ても信じないのです。最初から信じまいと心を決めてかかっているからです。私達がこのような頑ななものとならないように、切に祈りたいと思います。

 ウェスレーは、弟子達は神から見放されるほどの不信仰ではなかったが、鈍くて遅いだけであった、と注釈しています。正にそうだったのでしょう。過去のすばらしいみ業を現在の困難に適用できない鈍さ、これを私達も持っていないでしょうか。過去に何度も何度も主に助けて頂きながら、現在何か大きな試練に直面すると、過去の恵はすっかり忘れて怖じ惑う失敗をしてしまわないでしょうか。


C.更に多くの癒し(54-56節)

54 そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、55 そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。56 イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。

<省略>


終わりに

1.主の臨在を認めよう

 どんな嵐の中でも主はおられます。私だ、恐れることはない、と力づけて下さいます。エゴーエイミと語られる主は私達と共に居られます。

2.主のみ力を認めよう

 私達の生涯に深く広く力強く関わって下さった神の力ある御手を認めましょう。それを過ぎ去った事としないで、その活ける誠の神の御手を今私が直面している課題に当てはめましょう。

 今感じている心配、恐れ、悩みを全て主に告白して委ねましょう。特に今日は2004年の上半期の締め括りです。過ぎ越した2004年の出来事のあれこれを思い出す以上に、その背後に働かれた主の愛とみ力を認めて、単純な信仰に立ちましょう。

 お祈り致します。 


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.6.27