プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年6月27日

山上の説教シリーズ−−−裁くな

井川 正一郎牧師

新約聖書 マタイの福音書 7章1-2節

該当聖句

Mt7:1-2 

7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです 。

7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさ ばかれ、あなたがたが 量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

(マタイの福音書 7章1-2節)


プレイズ・ワーシップへようこそお出でくださいました。今回も、 主イエス様が語られた「山上の説教」からのメッセージです。

以前、ある女性社会人の方がこのようなことを質問してきました。

「自分の職場にいる人が愛せない。全くいやな人。ごくつぶしみた いな人だ」というのであります。

まだ女性が仕事の一つとしてお茶くみがあったころですが、更に、 「その人のところにもお茶をもっていかねばならない。でも、もっていきたくない。持 っていくといつもいやなことを言う。そんなことばを聞きたくもないし、顔も見たくな い。そういうとき、どうすればよいのか、あるいは無視すればよいか」と質問してきた のであります。

「とにかくまず、嫌々でも何でもいいから本当にその人を愛せるよ うにと、心に思いなさい。そのためにはそれをやる前に、『何としても彼を愛せる愛を 下さい、ゆるせる心を与えてください』とお祈りすることです」と答えました。

彼を愛せるようやってみて、ダメでもまたそれを繰返す。またダメ で、はねつけられるか、それ以上に私の心が彼を受け付けない。でも、それはいけない ことだと分かっている。だから、もう一度繰返す。涙が出てきて、悲しくなり、いやに なる。「もうだめだ」と両手をあげて「神様、どうぞ私に愛を下さい」とお祈りをした のであります。

そして、その人にも奇跡が起こったというのであります。それを何 度も繰返しているうちに、気付いたことがあったというのです。「なぜ私はあの人のこ とが嫌なのか」を考えたとき、「私のいやな所と思っていたその嫌なものをあの人が持 っていたからだ」と気づいたというのであります。

「その人は、実は私の鏡みたいな人だった。いやだいやだと思うこ の心、私にも同じ心があった。そうかと思って、あの人を変えて下さいといった思いを なくし、『まずこの私を変えてくださいと祈った』」というのであります。奇跡が起き たのであります。

これは成功例です。でも、多くの場合、やっても相手はいっこうに 変わらない、それどころか、こちらにつけこんでくるような態度をとってきます。これ に対する反応は無視ではなく、ある程度の距離をとります。

もとより、社会儀礼を欠いてはいけません。挨拶をし、本当はこれ もいやでしょうが必要な会話はします。しかし、「私が彼を受け入れるように、あの人 の心も人を受け入れられるように変えてください」とお祈りしつつ、一定の距離を置くのであります。

また、別の日に、別の人から質問がありました。

「あの人は本当にクリスチャンなのか。またあの人はきよめられて いると言っているけど、そういうふうには決して見えないですが、どう思いますか。批 判の目を向けない様にしているのです。でも、あの人、きよめられていると言っている のに、どうしてあんな態度をとるのか、どうしてあんなことを言うのか。すぐにかっか する人ではないか。前とどこが違うのですか。」

「あの人、クリスチャンっていっているけど、仕事はちゃらんぽら んで、時間はルーズ、礼儀もなっていない、あんなのがクリスチャンなら、クリスチャ ンになりたくない」と、よく耳にすることであります。

答えですが、結論を先にいえば、批 判の目を向けない、さばくな、であります。

きょうのことば「さばかないように」=主イエス様の山上の説教か ら−−−すなわち、天の御国に相応しい者がどのようなものか、御国の憲法のようなも のが述べられている箇所からです。

もともとの意味は、分析する、評価する。否定的には見下げる、批 判する等あります。

人は回りの人が気になります。遠い人のことなど気にしません。で も、近くにいるためにいつも気になります。そばにいるからこそ、煩わしくなるのであ ります。

外部のことにはとても寛容な人が近くの人には厳しくなることはよ くあります。そのようなことをよく弁えていた主イエス様が、なぜこのようなことば= 「さばくな」と言われるのか、その意味を考えます。

第一に、「人を批判し、人をさばく 権利は私たちにはないから」であります。 人を批判し、人をさばく権利は私たちにはないからであります。神が 審判者であり、我らが神の立場に立ってはいけないのです。人間は正しく人を評価でき ないからです。 すなわち、特に人は自分には甘く、人には厳しいからであります。他 人のちりは見えるが、自分のはりは見えません。ちりは小さいものであります。

第二に、「人を見る前にまず自分を 顧みなさい」ということであります。

自分の姿勢を正してみよう、点検しよう、人を判断するのはそれか らであります。 主イエス様はこう考えられます。お互い、神に属する家族の一員であり、人を理解し、 受け入れ、同情し、慰め合い、愛しあい、痛みを分かち合い、助け合います。

ところが、お互い、この地上を歩む限り、不完全であり、誰一人完 成した者はいません。いわば、工事中の札をつけている人ばかり、工事現場でヘルメッ トをかぶって、「ただいま工事中、御迷惑をおかけします」と頭を深々と下げる人の絵 を見ることがあります。

あの看板こそ、私たちの看板なのであります。罪の影響を受けた私 たち、他人の欠点を探し、けちをつけるような心。悲しいかな、人は例外なくこの気持 ちを持つのであります。

第三に、批判するな、さばくな、ではありますが、評価すること自 体、間違いではありません。悪を悪と断じることですが、問題は自分のことを棚にあげて人の欠点、落ち度ばかり意見することで あります。

主イエス様が仰った「さばいてはい けません。」、これが今回のメッセージです。お祈りいたします。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/June 27,2004