礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年7月11日

マルコの福音書連講(39)「悪はみな内側 から…」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マルコの福音書 7章14-23節

中心聖句

Mk 7:20-23 

マルコ7:20 また言われた。「人から出るもの、これ が、人を汚すのです。

マルコ7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来 るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、

マルコ7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ね たみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、

マルコ7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を 汚すのです。」

(マルコの福音書 7章20-23節)


はじめに

1.前回は、先祖の言い伝えを固く守る伝統主義のパリサイ人が神 の言葉の精神を踏 みにじっている事への主イエスの断罪を学びました。

2.今回は、イエスとパリサイ人との論争がの続きですが、論争の きっかけとなった 「清めの儀式」に話題が戻ります。

A.汚れの由来:内か外か(14−15節)

1.外側の物は人を汚さない

主イエスの弟子達が、ユダヤの伝統的な習慣にきちんと従うような 手洗いをしないでパンを食べていたことをパリサイ人達は非難しました。それがこの論 争 のきっかけだったのですが、主イエス様はまず伝統に縛られている固定観念は間違いだ と指摘し、それから、手洗いの習慣の元となった「儀式的きよめ」の無意味さを強調 されます。今日の教会で儀式的きよめが問題になることはありませんが、信仰者の服 装とか、礼儀とかそういった外側の問題で、人を裁こうとする傾向はいつの時代でも 存在します。

マルコ7:15a 外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は 何もありません。」

とは、実に革命的な声明です。もちろん、これは大腸菌やペスト菌 がついた汚い手で 食事をしても病気にならないという衛生学的なことを言っているのではありませんから 、こ のことばに基づいて不衛生を奨励してはいけません。

そうではなく、「儀式によって汚れが除かれるということはない」 という ことです。日本でも、葬儀が終わった後に塩をまくという習慣に表れているように、 汚れというものはもともと自分にはない、それは外側にあって、それに触れると自分に 伝 染するという考え方があります。それと似た思想がユダヤにもありましたが、イエス様 はこれは違うとはっきり語られたのです。

2.人の内側のものが人を汚す

人間の汚れがあるとすれば、それは外側からやってくるのではなく 、 もともと内側に存在しているのだ、と主イエス様は言われるのです。それは聖書が一貫 して語っている原罪の思想です。人は元々罪の中に生まれ、罪の性質をもって成長して いくのです。

マルコ7:20b「人から出て来るものが、人を汚すものなのです。 」

とありますが、人は、もともと汚れた性質を持っていますから、そ れが言葉、行動、思いとなって表面に表れ、自分でも嫌な思いをし、まして他人を大き く傷つけてしまうのです。

柿の好きな方も多いと思いますが、どんなにおいしい柿であっても 、その種を蒔いて実る実は渋柿なんだそうです。柿は渋いというのははっきり言って宿 命的で、その渋柿の木に(品種改良をした)接ぎ木をすることによってやっと甘柿が実 るのです。人間の性質も同様に、生まれながら罪人なのです。詩篇51篇には、

詩篇51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母 は私をみごもりました。

とあります。これはダビデが大きな罪を犯した後の深い反省に基づ いた告白です。私はどうしてこんなとんでもない過ちをしてしまったのだろうか、それ は一時の気の迷いといったものではなく、彼が母の胎に宿っていたときからずっと続い ている罪の性質だと言っているのです。

B.食物のきまりは本質的ではない(17−19 節)

1.1.弟子達の質問

1.弟子達の質問

主イエス様のおっしゃった声明があまりにもり簡潔なものですから 、弟子達はその意味を 尋ねました。

2.イエスの答え

「ここまで言ってもまだわからないの?困ったなあ」といったニュ アンスですが、しかし、主イエス様は忍耐をもって丁寧な説明をなさいます。

外側の物、例えば食べ物は、おなかに入り、トイレで外に出てしま うではないか、と話されました。イエス様って何となくユーモアがあります。

昔の日本のトイレは川べりに建てられた小屋のようなもので、排泄 物をみんな川に流してしまっていたので「かわや」と呼んだのですが、水洗トイレのは しりと言えます。マルコの用語ではアフェドローナ(公衆便所のようなもの)です。い ずれにせよ、食べ物の汚れなどあまり気にするな、と言うことなのです。

3.答えが含む意味

この主イエス様の態度は非常に象徴的です。つまり、マルコは主の 態度を一般化して、

マルコ7:19bイエスは、このように、すべての食物をきよいとさ れた。

と捉えたのです。これは手を洗う洗わないの問題よりももっと深い ものです。言い伝えどころか、旧約聖書の儀式的な部分の否定へと踏み込んでいます。

レビ記によれば、ある食べ物はきよいが他の食べ物は忌むべきもの という区別がなされています。

レビ記11章の中でイスラエル人が食べてはいけないもので、私達の 好物は何かと調べていきますと、豚、蛸、烏賊、雲丹、貝類、海老、蟹などとなって、 おすしやさんは御法度ということになります。

新約の時代にこの食べ物規定は過去の者となる訳ですが、主イエス の声明はその先駆的なものと言えましょう。

すべての食べ物をきいものとすることは、使徒の働き10章(15節)に あるように、異邦人とユダヤ人を区別していた壁の廃棄を意味していました。

また、行いを通しての救いではなく信仰による救い、信仰者の自由 (ローマ人への手紙14章20節、、コロサイ人への手紙2章16節)をも象徴していました 。その意味では、主イエスの教えとパウロの神学には明確な連続性があります。

C.本当の汚れの源(20−23節)

1.内側の罪が人を汚す

これは15節の声明の繰り返しです。そして21節以下にそれがど んなに恐 ろしいかを説明されます。

2.内側の罪の恐ろしさ

ここに13の罪が列挙されています。どれも読んで楽しいものでは ありませんが、静かに振り返ると、これが私達の心の現実でしょう。その13を私なり に四つに分類してみました。

1)一般的な罪

悪い考え=神を喜ばせないようなあらゆる思い

よこしま=他人に対する悪しき思いや計画

愚かさ=神の摂理と支配を計算に入れない全ての考え

2)性的な不道徳:不品行、好色、姦淫

セックスは神が創造されたものです。愛する者との交わりの手段で あり、本来美しいもの、喜ばしいものです。

しかし、悪魔はその神の創造を曲げてしまいました。愛という言葉 を使ってはいますが、はっきり言って自分の欲望を満たすためだけの自己中心が、美し かるべきセックスを罪の道具に変えてしまったのです。

不品行=結婚していない人のみだらな行為

好色=異性を自分の欲望の対象としてしか見ない態度

姦淫=結婚のパートナーでない異性との性行為

特定の町へ行かなくても、これらはおおっぴらに行われています。 性を売ったり弄ぶ行為はどんどん低年齢化しています。エッチなマンガが読み物がほと んど何の規制もなく溢れている国は日本以外にあまり見られないのではないでしょうか 。このままの歪んだ性風俗が野放しにされたら、日本は滅びると私は思います。

3)物欲からくる罪:盗み、貪欲、欺き

盗み=説明に及ばないことでしょう。

貪欲=他人の持ち物を羨ましいと思う強い願いです(これが盗みに発展するのですが)。

欺き=よこしまな方法の実行です。

4)他人への良くない思いと行動:殺人、ねたみ、そしり、高ぶり 、愚かさ

殺人=言葉そのものですが、行為だけでなく殺意も含 まれます。

ねたみ=自分より勝れているものに対する苦い思いで す。

そしり=他人を陥れようとして虚実相混ぜて他人の悪 をかたることです。

ねたみ=自分より勝れているものに対する苦い思い

高ぶり=妬みの裏返しで、他人より勝れている点につ いての自己満足とその吹聴

一つ一つ分析するまでもなく、本当だ、参った、という気持ちにな らないでしょうか。エレミヤ書には、

エレミヤ17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれ が、それを知ることができよう。

と記されていますが、まさにその通りです。こんな汚れた思いがお 腹に詰まっているのですから、それがメタンガスのように発酵して嫌な臭いを発散する ことは避けられません。でも、私の心にはこんな汚いものが詰まっていて本当に参った 、という気持ちが実は信仰の出発点なのです。

クリスチャンは善人の集まりではありません。悪人の集まりです。 悪人性を本当に認め、へりくだるところが出発点なのです。

D.汚れの除去

主イエス様はここでお話を終わって、後は考えなさいと弟子達に宿 題を与えました。しかし、今日はここで終わってはならないようです。こうした内側の 罪を認めた上でなすべきことがあります。

1.真実な祈り

これについては詩篇51篇に深刻な罪意識に呻いているダビデの祈 りがあります。説明抜きでみことばを拾ってみましょう。

詩篇51:1 …そむきの罪をぬぐい去ってください。

51:2 …咎を全く洗い去り、罪からきよめてください。

51:7 …ヒソプをもって罪を除いてきよめてください。私を洗っ てください。そうすれば、雪よりも白くなりましょう。

51:9 …咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

51:10 …私にきよい心を造りゆるがない霊を私のうちに新しく してください。

2.告白と信仰

これについてはヨハネの手紙第一を開きます。

Tヨハネ1:7 もし神が光の中におられるように、私たちも光の 中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から 私たちをきよめます

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正 しい方ですから、 その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

おわりに

1.心を探っていただこう

私達の心の内に何があるのか、探っていただきましょう。特にプレ ッシャーがかかるときにその本質が表れます。それがいわばリトマス試験紙です。

2.赦しと聖めを信じよう

神の与えなさる赦しと聖めを単純に信じ、信じ続けて歩みましょう 。私達の望みは主イエス様の十字架以外に何にもありません。日々、その恵みにすがっ て進もうはありませんか。お祈りいたします。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/July 11,2004