プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第ニ版 =著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年7月18日

山上の垂訓(説教)シリーズ「狭 い門ってなに?」

竿代 皓子牧師

新約聖書 マタイの福音書 7章13-14節

該当聖句

 

狭い門から入りなさい。滅びにいたる門は大きく、そ の道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い だす者はまれです。

(マタイの福音書 7章13-14節)


1.「狭い門」と聞くと、私たち日本人は大学受験のことをすぐ連 想いたします。大変な努力をして有名大学に入るイメージが、「狭き門」と言う言葉です。「四当五落」などと言って、たった四時間の睡眠しかしないで、がり勉をしたら希 望の大学に受かると言う意味です。そんなにまでして有名校に入る受験システムが日本 の若者を歪めているように思いますが、いかがなものでしょう。もちろん、イエス・キ リストはここで大学受験のことを言っているわけではありません。キリストはもっと普 遍的な人の生き方についての勧めをしているのです。

2.キリストは、人生には「命に至る人生」と「滅びに至る人生」の 二種類があると言っておられる事に、まず注目したいと思います。

いまピンピンして、元気に生きている私に向かって「命」に至る人 生を勧めるとはなにごとか、と思われるでしょう。そのうえ、一生懸命に努力をして、 充実した人生を送ろうと思っているのに、なんと一方的に「滅びに至る」人生などと言 うとは失礼な、と言う声が聞こえて来そうです。だからキリスト教は独善的で嫌いだと の声も聞こえてきます。

しかし、聖書のここでキリストが言っている「いのち」とは何かと 言うと、キリストご自身のことです。彼はご自分のことを、

ヨハネの福音書 14:6 わたしが道であり、真理であり、いのち なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはあり ません。

と自己紹介をされています。ですから、私たちがキリストを信じて 生きるようにと、彼は薦めているわけです。

キリストに従って生きるとき、

ヨハネの福音書8:12 わたしは、世の光です。私に従う者は、決 してやみの中を歩むことがなく、いのちの光をもつのです。

という人生が実現するのです。

私たちは、自分の人生が正しく、明るく、真理に満ちていることを 望んでいます。しかし、現実はその反対のことが多いのではないでしょうか。光ではな く闇が、正義ではなく悪が、命に溢れているのではなく、結果の見えない破滅へと向か っていることを私たちは知っているのではないでしょうか。思わない不幸に見舞われた ときや、自分の弱さを自覚して、このままでは駄目だと知っていても、それを変える力 が自分にはないことも現実です。まさに望みのない人生です。

私たちはどっちに向かって、どのように生きて生きて行こうとして いるのでしょうか? その様な人間の姿を聖書では「迷える羊」と表現しています。自 分の人生は自分のもの、自分の好きなように生きるのが何故「滅び」に繋がるのかの答 えが必要です。

聖書では、「滅び」はキリストを信じない人生と言っています。も っと具体的に表現すると、「自分」の考えに従った生き方となります。「キリスト」で はなく「自分が中心」の生き方です。これは至極当たり前の大勢の人々が生きている生 き方です。ですから、キリストは

滅びにいたる門は大きく、その道は広いからです。そして、そこ から入っていく者が多いのです。」

と言っています。

また、

箴言16:25 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終 わりの道は死である。

とも言っています。私もキリストを信じる前の自分の姿を思い出し ますと、なんと不確定なものの考え方をもって生きていたか覚えております。クリスチ ャンの友が私の将来をどうするかと質問してきたとき、「良い大学に入って、良い就職 をして、良い結婚をして・・・」と単なる自分勝手な夢を並べておりました。それで、 それでと次々に聞かれたとき「最後は死ぬことになるでしょう」と答えました。

そしてそのとき、自分はしっかりとした人生の柱を持っていないこ とに気づきました。人生の指針、物差し、それに従えば正しく間違いのない人生を送る ことができるものを探し始めたのが、キリスト教求道のきっかけとなりました。

人は自分を導く絶対者、神が必要なのです。教育はその任を充分に は果たせません。しかし、キリストはそれが私だと自己紹介しておられるのです。なん と確信に満ちた素晴らしい宣言でしょうか。

2)次に、キリストを信じるいのちへの人生は、なぜ「狭い門であ り、そこから入って行く人が少ない」のでしょうか。

それはまず「自分中心」の人生観を捨てなければならないからです 。

人は自分が心の王様です。自分がいつも正しく、自尊心が傷つけら れると怒ります。この王は暴君であり、わがままであり、他人のことを見下します。こ の心の王様が退位することは至難なことです。人はこの自尊心と言う心の王に支配され ていますから、自分はその奴隷であるのです。

聖書は、

ヨハネの福音書8:34 まことに、まことに、あなたがたに告げま す。罪を行っている者は罪の奴隷です。

と言っています。これは人間の心の状態を大変良く表している言葉 ではないでしょうか。自尊心(罪)の奴隷である人生は悲惨です。愛はなく、赦しもな く、本当の自分を表すことが出来ない二面性を持った生活になるのです。この王を退位 させることが出来、それから自由にしてくれる力をもったお方がキリストなのです。

彼は聖書の中でこう言っています。

ヨハネの福音書8:31 もしあなたがたが、わたしのことばにとど まるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自 由にします。

ヨハネの福音書14:6 私が道であり、真理であり、いのちなので す。

ヨハネの福音書10:9 わたしは門です。だれでも、私を通って入 るなら、救われます。

解決はキリストにあります。しかし、このキリストと言うご人格を 真理と認めることが人間には、とても難しいのです。それを認めるときは唯一、自尊心 が退位して、キリストに王冠を渡さなければならないからです。

3)最後に結論です。

「狭い門から入る」とは「キリストを信じること」を意味していま す。」彼は、

マタイの福音書11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人 は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。

11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがた もわたしのくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます 。

狭い門であるキリストを通って、わがままな、滅びに向かう人生で はなく、いのちと自由の人生を選ぼうではありませんか。 お祈り致します。


Message by Rev.Hiroko Saoshiro,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/July 18,2004