礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年7月25日

「アリマタヤのヨセフ」

井川 正一郎 牧師

ヨハネの福音書19章38-42節

中心聖句

38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

(ヨハネ19章38節)


1.始めに

 ヨハネの福音書19章38節をもう1度お読み致します。

38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

 七月第四聖日を迎えました。数年前ですと、召天者記念礼拝だったでしょうか。午後には納骨、墓前礼拝。初代牧師の蔦田二雄先生の召天日に近い聖日をそれにあてたので、殆ど七月第四聖日でありました。

 七月から二代目牧師、蔦田真実牧師の召天日に近くと言うことで六月初めにそれを移しました。

 しかし、暑さのこと、またそれ以上に召天、あるいは永遠という意義に相応しくしようということで、最近はイースターに近くということで、四月第三聖日を召天者記念礼拝、納骨墓前礼拝にあてました。今年もそうしました。

2.葬儀の備え

 先日、慶弔ガイドライン説明会があり、そして葬儀の備えのための遺言書の書式について説明しました。集まった方々は慶弔ガイドライン、特に結婚式などの説明よりも、葬儀の備え、遺言書の書式の説明に大いに関心があったようです。集まった方々の殆どが、いわば召天適齢期(笑?)の方々ばかりであったためです。

3.主イエスの葬儀

 主イエスの葬式は盛大に行なわれませんでした。アリマタヤのヨセフとニコデモ。それに二人の婦人だけの葬儀、埋葬でした。十字架の場面を遠くから見ていた人々は数人いましたが、弟子達の殆どはいなくなっていました。アリマタヤのヨセフがその遺体の引き取りを願い出、そして自分のところにあった新しい墓におさめたとあります。

 アリマタヤのヨセフ。主との出会い。主と出会うことにより、彼は変わっていくのです。しかし、一つの点でなお、変化できなかったことがあります。自分の地位、立場に対する執着でした。それがみずからを公にクリスチャンとして証しできなかった原因です。彼について、福音書は次のように述べています。


4.アリマタヤのヨセフという人の特徴

 今日は、アリマタヤのヨセフという人について学びたいと思っています。

 アリマタヤのヨセフという人がどういう特徴をもっているか、3つにまとめました。

(特徴:1)一つの目的のために用いられた人物

@主の葬りのため

 主の葬りのために用いられました。十字架の場面には弟子達は殆ど逃げ去っていました。女たちを中心に数名のものだけが十字架の場面にいました。遠まきに見守っていました。そして罪人として十字架につけられている主。いってみれば、だれも主のからだを葬ることのできない状況でした。通常は捨て去られる状況です。そこに登場したのがアリマタヤのヨセフでした。

 総督ピラトに申し出るだけのある程度の立場、地位、力を持っていた人物でしょう。有力な議員として一目置かれていたのでしょうか。

A王としての葬りのため

 で、実は他の福音書の記者も同じですが、ニュアンスがアリマタヤのヨセフという人物に焦点が合っているようで、実はそうではなさそうなのです。アリマタヤのヨセフによって葬られた葬られ方に関心があります。結論的に一言でいえば、主の葬りは王としてのものなのです。

<墓地への葬られ方>

@通常、人は死んだ時、自分の所有の墓地に納められます。
Aただ貧しく自分のを持たない人は共同墓地です。
B罪人の場合=死刑になった罪人の場合、二つの墓地があったといわれています。一つは首をきられる、絞め殺される死刑になった人の墓、またもう一つは石打ちの刑罰、また火あぶりの刑罰にあった人の墓。
Cただ、それ以外というか大変重たい罪を犯した人は野ざらし、空の鳥か、野の犬のえさになる場合があります。あのアハブ、イゼベルのケースです。そして
十字架刑の罪人も通常はローマのしきたりからすれば、そのまま放置のはずです。しかし例外があって、ユダヤ人はそうしないで共同墓地に納めることが多いのです。囚人でも申し出があれば、それを許可されます。

 主イエスも思い掛けない人の申し出で、しかも共同墓地でなく、一人の人の所有の墓地に納められることになったのです。ユダヤの法律によれば遺体はその日のうちに葬らねばならないのでした。特にその時は日没後になると安息日に入ってしまいます。急がれました。アリマタヤのヨセフは急いで主の遺体を引き取ったのです。

<王としての葬り>

@金持ちによって、豪華に贅沢に。全く新しい墓に。
Aていねいに扱われました。
Bイザヤ書の預言。

 その葬りのために一役を担ったのがアリマタヤのヨセフでした。

(特徴:2)すべてを投げ出した人物

@地位、金、栄誉、評判等・・

 地位、金、栄誉、評判など、捧げきったのです。これを利用してピラトに近付いたわけではありません。もとより彼の肩書きには周囲の人々が一目置くものがあったのでしょうが、彼はそれを利用して何とか、という気持ちではなかったのです。投げ打ってでも、との気持ちでピラトに近付いたに違いないのです。

A主への敵意等を引き受ける

 そして実際これからの歩み、投げ打っての生涯。後に、彼はイギリスへの最初の宣教師となったとのエピソードがあります。処刑された者を引き取るとはイエス様に向けられた敵意、憎悪、あざけりを我が身に引き受けることなのです。

(特徴:3)ダメなレッテルがはずされた人物=一皮むけた人物

@最後に間に合った

 隠れキリシタンが変化しました。彼は間に合った人物でした。主の葬りの時に間に合った人物でした。みんながいなくなってしまって誰も主をかえりみないという状況で、悲劇的な状況で、この人は登場したのです。この人しかいないといわんばかりに、この場面に登場します。最後の最後、彼は本物になったのでした。最後の最後まで神は見守っておられるのです。

 現代においても同じことが言えます。教会から離れているか、隠れたクリスチャンか。まだ、しっかりしないクリスチャンか。まだ間に合うのです。チャンスは残されているのです。最後の最後、帰ってくることがあるのです。回復する機会があるのです。生半可な信仰が本物の信仰に整えられるチャンスがあるのです。

A十字架の意味=理解・体験

 なぜ、このように大胆な姿に変わったのでしょうか。十字架の場面にいたからです。目撃者だからです。あるいはそうでなくとも、十字架まで忠実に歩まれ、何も悪いことをしない主がなぜ、十字架なのか、その意味を深く考え、遅まきながら悟り得たからです。少なくとも主の十字架の意味を経験的に理解、体験できたからなのです。

 ペテロの書にあるように、栄光の目撃者ともいわずとも、それに近い経験を彼が得たからなのです。イギリスへの宣教師となったエピソードもあります。


5.しめくくり、今週の適用

1)目的使命がある

 何らかの目的使命があるからです。無いものは一人もいないのです。あるから地上に生きているのです。使命がなくなるときは天に召される時なのです。主のために、誰かのために役立つのです。役に立たないひとなど一人も存在しないのです。何等かの形で役に立つべく、我らは生かされているのです。

2)本物の信仰に変えて頂くチャンス

 この場面というとき、注ぎ出したいのです。本物の信仰に変えて頂く、絶好のチャンスなのです。特にアリマタヤのヨセフは主の葬りの整えをしました。厳密にいえば、死んだあとでした。でも、誰かの葬りの備え、整えをする役目、役割を、永遠の恵みの世界に導く役割、整えができたら幸いなのです。

3)私の葬りの備えは如何に

 さて、私の葬りの備えはできていますでしょうか。

 聖書には書いてありませんが、アリマタヤのヨセフという人は、イギリス宣教師に派遣され、最初の教会を建てたという記録もあります。彼は変わったのであります。

 申し上げたいことは、心とからだを捧げ出して、使命のため生きるお互いでありたいものです。お祈り致します。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2004.7.25