プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年8月1日

山上の説教シリーズ− 「『主よ、主よ』と呼ぶ者」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マタイの福音書 7章21-23節

該当聖句

Mt 7:21-23 

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天 の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです 。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出 し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

(マタイの福音書 7章21-23節)


1.昨年10月から続いて参りました主イエス様の山上の教えも、 あと二回となりました。終わりの方には警告が多く含まれていますが、その主眼は、私達が主イエス様の教えをどう行うかという 一点でした。

2.前回はにせ預言者への警戒を語られました。つまり、神の言葉 を語ると言いつつ、自分の考えを語っている人間くさい宗教指導者への警戒です。そこ では明らかにパリサイ人達を意識して語っておられたのですが、一方で、身内の者の中 で、本当の意味で主イエス様の心を理解しない弟子達への警戒を述べられます。

3.「全ての人が…ではない」という言い方が21節でなされていま す。言い換えれば、何人かはセーフ、その他の多くはアウト、と言うことです。

アウトの人はと言えば、主イエス様 の権威を認め、彼の神たることを信じ、彼の贖いによってのみ救われることを頷いてい るが、神のみ心を行わない信仰者のことです。彼は天国に入れないどころ か、冷たく厳しい扱いを受けると言っているのです。これはちょっと厳しすぎると思わ れますか。でも主イエス様はこれを大まじめに語っておられるのです。

これに対し、セーフの人は神のみ心 を行う人です。悪い部分を完全に引っこ抜いて頂き、良き木を植え替えて 頂き、神の栄光と賛美とに向けて実を結んでいる人々です。

4.アウトの人が22節に詳しく述べられています。彼らは第一に

マタイ7:21 わたし(イエス)に向かって、『主よ、主よ。』と 言う者

です。主イエス様が主であると認めるとは偉大なことです。これは 口先では言えない、聖霊の働きによるのだとコリント人への手紙12章で 語っています。

ですから、この人々は、蒸気機関車のようにシュッシュッシュと言 っているわけではなく、どこかで心から イエスを救い 主と信仰告白し、一生涯従って行く決意をしたのです。

5.更にこの人々は、「私達はキリストの名前によって預言し、教 え、説教したではないか。私達はイエスをただ一人の救い主と認め、他の人々にもその ように説教したではないか。ある人々に取り付いてしまっていた悪霊を逐い出したでは ないか。多くの超自然的な奇跡も行ったではないか。このようにして私達は自分達が説 教している真理の正しさを証明したではないか。」と言います。

ということは、この人々は、前回お話ししたような偽預言者でも、 パリサイ人でもなく、主イエス様を信じ、主イエス様のために働いている伝道者、教師 、牧師を指しています。それだけに、23節のように「私が明確に言明するのは『私は決してあなた方を知らなかった。もっと言えば、あなた を承認したことはなかった』」と宣告するのは、痛く、そして厳しいものです。

詳しく言いますと、「あなたがたは 私のきよい教えを説いていた。しかし不義の中に生活していた。私は私の真理の故に、 また、魂への愛の故に、あなた方の説教を祝していた。しかし、あなた方はその事を値 づらもなかった。心は汚れており、その行いは正しくなかった。福音の精神からは遠く 離れていた。」このように言われなければならない説教者、著者、福音の 伝道者、奇蹟を行う人々は、残念ながら、いかに多いことでしょうか。他人事ではあり ません。私自ら顧みつつ、反省させられます。

6.問題の中心は、神のみ心を行っ ているかどうかなのです。神のために何かの働きをしているが、結局のと ころ自分の願いを行っているだけではないのか。それとも神のみ心を謙虚に真実に求め つつ行っているかどうかということなのです。

7.ここに失敗してしまいますと、多くの人を永遠の救いに導く伝 道者本人が、主イエス様から「私はあなたを知らないよ」と捨てられてしまうことがあ るのです。「知らないよ」だけではなく、「私から離れなさい!」とまで言われてしま うのです。主イエス様のために一生を費やし、犠牲までも払って働いてきたのですから 、それってないよ、とも言いたくなりましょう。私は、イエス様の優しい、親切で、全 ての人々を包含する寛大さと同時に、心が二重のまま、偽善的な生活や行動を行う人々 への極端なまでの厳しさ、容赦なき審判を見なければならないと思います。

8.今日はこの厳しさだけで終わらずに、天の父のみ心とは何か、 もうすこし立ち入って終わりたいと思います。

いろいろな説明を省略して一言にすると、それは「愛」でしょう。全ての者に恵を注ごうとする愛、全ての者 の救いを願ってそれを実現しようとする愛、背く者を尚見捨てないで機会を与えようと する愛、敵をさえ赦して包む愛、この愛をあなたにももって欲しい、それを実行して欲 しい、それがあれば、奉仕や生活において足らないところは沢山あっても構わない、そ う主イエス様は祈る思いで私達に訴えておられるように思います。天国とはそのような ものの国なのです。この神のみ心を私達にもわからせて頂き、注いで頂きましょう。お 祈り致します。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/August 1,2004