プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年8月8日

山上の説教シリーズ−−−岩の上 、砂の上

井川 正一郎牧師

新約聖書 マタイの福音書 7章24-27節

中心聖句

Mt7:24 

7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれ を行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

(マタイの福音書 7章24節)


プレイズ・ワーシップへようこそお出でくださいました。今回で最 後になりますが、 主イエス様が語られた「山上の説教」からのメッセージです。

10数年前、ある結婚式披露宴に出席したときのことです。

披露宴のテーブルで隣に座った方と信仰について短く質問というか 、短い話をしました。その方が新郎である男性の職場の友だちでした。新郎がクリスチ ャンであることを最近知って驚いたと話していました。

その人はクリスチャンではなく、自分は浄土真宗の仏教徒と言って いました。その人は自動車について専門家で、その筋の雑誌にもいくつか執筆している のですが、挨拶がてら、「新郎はあのように身体が大柄ということもあってか、職場で 目立ち、そして大胆に働いている人だが、結婚式のときはまるで幼子のように小さくな り、緊張いていたのであまりにもいつも見ている彼と違うので、そのギャップが面白く て笑いそうになりました。」と仰っていました。例外なく殆どの人が緊張するのが結婚 式で、女性などは必ずブーケがふるえています。

テーブルの話はそれだけでなく、「牧師先生、キリスト教はどうし て、他の宗教について認めないで自分こそ、絶対正しい、絶対真理と言うのですか。ま たそう言っているのにもかかわらず、プロテスタントとカトリックとにわかれ、お互い がその主張をゆずらないのですか」と聞いてきました。

途中の話は省略するが、「宗教の最後の勝負、どれがほんとかどう かを決めるものは、その人の心と実際生活が変化するかどうかにかかっているのではな いか。特にその人の道徳生活、男女の性的課題と金銭的経済的課題が聖書の基準、倫理 的基準にかなうものかどうかにある。その点が変化しないものは宗教といわない。あの 新郎は徐々にであるが、その意味で生活が変わってきている」とお答えしたことを覚え ております。

また、例えば、イスラム教でも、あるいは仏教徒でも、本物の宗教 者というのは、日常の生活がその宗教の言う趣旨に沿った心と生活に変わっている人で あり、例えば、仏教徒ならば、毎日のように仏を拝み、仏壇を大事にし、そして週数回 は所属のお寺に通い修行し、その上で世の中での働きも仏教徒の心をもって仕事にあた るでしょう。キリスト教も、結局そこが勝負で、変わるか変わらないかであります。世 の中に自分は仏教だ、神道だと言う人は多いが、24時間の生活にそれに相応しく生活 している人こそ、仏教徒と言い、神道というのではないでしょうか。案外その宗教に基 づいて生活している人、少ないのではないでしょうか。

何を言いたいか、と申しますと、宗教とは頭で理解、合点すること でないという考えに合意し、賛成します。それだけではなく、宗教は思想、哲学、人生 訓的なことばと頭の世界ではなく、結論を先に言えば、経験体験、理解、生活。この3 つであります。

経験と理解、どちらが先になっても、あとでもよく、要はこの2つ が噛み合い、そして生活になります。生活に表わされないのは宗教ではなく、宗教の強 い弱いはどれだけ、真の意味で心からその宗教の言っている事柄を理解、経験し、生活 しているかにかかっています。その意味では、イスラム教は生活宗教−−−だから強い 。仏教も真実に仏教徒の生活者であればよいのであります。

ですから、私は、議論を吹っかけられても、殆ど言い返さないよう にしている。議論して、たとえ私が勝っても相手が主イエス様に近付くチャンスをそれ で失ってはならないからで、負けるようにしています。ただ、例外もありまして、その 例外がこの時、一回でした。その方は仏教徒と言っていますが、その意味では仏教徒で もなんでもないことになります。生活しましょうよとお勧めしました。

主イエス様は、「わたしのことばを聞いて行う者が、岩の上に自分 の家を建てた賢い人にたとえることができ、ことばを聞くだけでなく、行いを生活に表 わして行くものこそが、岩の上に建てた賢い人にあてはまる」と仰っています。

ここに、すぐに理解できる例え話があります。岩の上、砂の上。同 じ場所か、違う場所か。ともかく、違う土台の上に家を建てました。

何も起きない時は、どちらが良いたて方かわからない。しかし、雨 が降り、洪水が押し寄せてきました。強い風が吹いてその家を打ちたたきました。岩の 上にたてた家と砂の上にたてた家の違いが出た。一方は倒れず、もう一方は倒れてしま ったのであります。

昔、結婚してまもなくほんの短い時でしたが、神田川のそばで暮ら したことがありました。三畳一間の、かぐや姫=南こうせつの歌の世界と同じような生 活でした。

ある日、神田川が台風で氾濫したことがありました。床下浸水寸前 のところで私の下宿はすみましたが、多くの家は床上、床下浸水で大変でした。後始末 のお手伝いをしましたが、洪水の後始末は大変汚く、臭いのです。下水、汚水があふれ るからでして、後日役所からお見舞いということで、毛布を一枚もらいました。先日の 新潟、福井(宝くじの二億円、各世帯に二万円づつ)、四国での災害には、少なからず 理解し、同情します。

いざ、というときにしっかりとたっていて倒れないか、それとも倒 れてしまうか。土台の違いが教えられます。イエス様はここで次のことを教えようとさ れています。

(1)わたしの話しているそのことばをまず聞いて理 解しなさい。

(2)聞いたならば、それをそのままほっとかないで 、実行するものとなりなさい。

人間、多くは聞くだけで実践しない者がいかに多いことでしょうか 。21節にあるように、

マタイ 7:21…『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るの ではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

であります。

(3)一足とびではないが、天国にどのように行くか 、天国に入るに相応しい者となるか、整えるべく、頭の理解、正しい知識、その理解、 それを経験あるいは体験し、実際の日常生活に示していく。確かな土台づくりをしなさ い。

人生、色々な試練、困難があります。それを乗り越えていくのは、 みことばを理解、体験、そしてそれを全幅的に信頼して実行することにあるのです。

主イエス様が仰った「岩の上に建て られていたから」、これが今回のメッセージです。お祈りいたします。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa,pastor of IGM Na kameguro Church ; Compiled by K.Otsuka/August 8,2004